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2011年11月30日水曜日

イチョウの木より

立川でmri検査を受けた後近くの昭和記念公園に行こうと、一駅電車に乗って西立川へ向かった。

昭和記念公園は西立川駅を降りると目の前で、門をくぐると秋の日差しを反射した大きな池が広がっていた。それはいかにも秋の公園らしい印象だった。この光景にmriの記憶がやや遠のくのを感じながら、私は池の左側の道を通って以前猫を見かけた日本庭園へと園内を1キロほど歩いた。

途中には、先日津和野で見たのと同じく黄金色の葉をつけたイチョウの木があちこちで目立っていた。私は数百メートル歩いて身体が熱くなってきたところで、大きなイチョウの木の前にあるベンチに腰を下ろして一休みすることにした。隣に立つイロハモミジがほどよく日差しを遮ってくれるところである。

イチョウの木からは、風が吹くとパラパラと葉が流れ落ちる。なのに大量の葉を抱えるイチョウはそのボリュームを一向に失うことがなく、そこには一人の人とじっくりかかわるような安心感が見出せた。

木の周囲では、老人が御座を広げて鼻歌を歌い、まるで私と同じ心境を味わっているようだった。その老人もしばらく後に帰途にたつのだが、その際に荷物をきれいにまとめて芝生の上が跡形もなくなるさまは、風が吹くたびにどんどんイチョウの葉が落ちるのと同じく一瞬のことだった。

そんな一瞬の変化が園内のあちこちで起こっていた。そして、葉が落ちても落ちてもまだ葉を抱え、イチョウの木は生命の象徴のように空に向かって聳えていた。

ずっと吹き続ける風に身体も冷えてきたので、私の体温を奪ってようやく温まってきたベンチに名残惜しさを感じながらも、私は腰を上げて日本庭園へと向かうことにした。

日本庭園は、紅葉の季節は特に人気があるのか、わりと人が多かった。

雪吊りの松を望む方には、絵葉書におさめたような美しさがずっと続いていた。多くの人がその景色の前で立ち止まるのだが、それは私を包み、私を守り、私自身でもあると思える自然の木の連続だった。

しかし、台風などでその中の一本が根元から倒れ落ち、その安定感を失った挙句にそれが原因で私を苦しめることになると思うと、心の平静を保つのは難しかった。それでも、一度つくった傷がいつか治るように、その木がこれまで毎年落ちていった葉と同化する頃には私の傷も癒えるのだろうとも想像できた。

ゆったりと東屋のベンチに座って、今日も多くの人が温泉につかるように何かを癒して、ある人はその光景をカメラに収めて、ある人はスケッチして帰っていく。

日本庭園を出るところで以前見かけた猫とばったり出くわしたのだが、mriの緊張もすっかり解けて、猫との再会にホッとして、とてもいい散歩だった。

2011年11月28日月曜日

高幡山でノルディック

イチョウの黄色い輝きだけが目立っていたのに、数日も過ぎるとモミジの赤みがすっかり増し、紅葉の深みと共に高幡山を訪れる人の数も増えていた。

この山の八十八カ所めぐりは一周30分くらいで適度な運動になる。そこで私は母に教えてもらったノルディックウォーキングをやりにストックを持ってこの場所をたびたび訪れるのだけれども、紅葉を楽しみに来た人たちは多くが五重塔を少し登ったところのモミジの名所あたりまでしか歩くことがなく、その奥は本堂のあたりとは別世界のようにひっそりしていた。

そのひっそりした八十八カ所めぐりの道のりを進むと、松が多く茂り、人があまり来ないだけあってそれほど紅葉は見られず、ふいに足元の木の階段から生えるキノコに目が行ったりする。とは言ってもそれも一瞬で、もう一歩進むとキノコは視界から消え、緑の葉の中を再び歩くようになった。

今日は曇りで気温も低いためか、お地蔵さんの顔もどこか寒そうに見える。それも山の頂に着くと紅葉が盛んで、ややぬくもりを感じた。さらに八十八カ所めぐりを終える頃には人の多いエリアに入り、ちょっと先には木々の隙間から屋台の賑わいが見え隠れした。

さっぱり売れないよ、と屋台の中から漏れ出る声を通り過ぎると、お香の香りが見えて私はようやく30分ほどのノルディックウォーキングを終えた。こうした場所が家の近くにあることは本当にありがたいものである。

2011年11月25日金曜日

ビストロ・ル・プティ・リュタン

下高井戸の駅からすぐのところに位置するフレンチビストロのお店、ルプティリュタン。

小学校のま隣にあるこのレストランは、前の通りを商店街の買い物客などが行き来するわりとにぎやかなところにあるのだが、十数名ほど入ると満席になる店内は、そんな外界からは完全に隔絶された雰囲気だった。

細かいことはよく覚えてないが、とにかく居心地がいい。フロアを一人で切り盛りする女性の応対は朗らかで、これぞフレンチビストロ式おもてなしかと嬉しくなった。荷物置きに後ろの椅子を使えたり、ひざ掛けに使えそうな毛布が窓際に置いてあったりと、おうち感覚でくつろげるのもなんとも嬉しい安心感である。

私はランチコースを注文し、栗の冷静スープ、鯛のポワレ、ノリエットのケーキをいただいたが、料理の味は値段相応に普通においしいとの感想だ。それより、ここのウリは店員さんも含めた店内の雰囲気づくりにあると思った。

2011年11月23日水曜日

古美術店より

最近陶磁器に興味を持つようになったと母に話すと、そういうものは新品を買うより古道具屋とかに行って買うといいとのアドバイスを受けた。もともと城下町だったところなどにある古美術店などには、地元の名家などが手放した掘り出し物があるからとの理由である。

私は先日津和野に出かけたのだが、母のその言葉はまさに当たっていた。

津和野駅から津和野大橋までには一つ古美術喫茶を見つけ、窓から店内を覗いてみるとおじさまおばさまたちが歓談している姿に私は敷居の高さを感じて結局入らなかったけれども、入り口のショーケースに並べられた食器の数々は、これはきっと伊万里だろう、あれはなかなかいいがどこのだろうなどと、見ていてとても楽しいものがあった。

店内にはもっとたくさんのコーヒーカップがあるようなので、閉店が17時でなければ勇気を振り絞って立ち寄りたかったものである。

こうして悔いを残しながらさらに歩いて津和野大橋を渡ると、このあたりから観光客がぐっと減るエリアになるのだが、一軒の古美術店を見つけた。店内には誰もおらず、つい最近陶磁器に興味をもつようになったばかりの私はこの手の店に入ったこともないので、ここでも敷居の高さを感じたけれども、二度も悔いを残したくないのでガラガラッと扉を開けて店のなかへ入ってみた。


ここにも伊万里と思われる食器がたくさん置いてあり、値段を見ると、買えなくはない、でも割ってしまうかもしれないものにまだここまでは出せない、という感想をもった。そして結局ウィンドウショッピングすることに。


そうして見ていると、店主のおじさんが中から出てきて挨拶してきた。そしておじさんは、脇のほうにあるパイプ椅子に腰を下ろした。私はなにがどれだけ価値あるのかなどよくわからないまま、ついている値札から価値を予想して見てまわるが、う~ん、これが母が言っていた旧城下町の誰かが手放した名品の数々なのかと頷いていた。


すると、16時半になったとたんに壁に掛けられた無数の振り子時計がボーンボーンと微妙にタイミングをずらしながらそれぞれ鳴り始め、私は何事かと驚いた。店内のこの不気味なムードに戸惑った私が店主の方を見ると、店主にとっては毎時のことなので、振り子の音は気にせず転寝を続けていた。そりゃそうか。


一通り見たところで店を出た私は、この怪しげな古美術店の雰囲気にいまひとつ慣れることが最後までできなかった。いい食器を買うには、まずこの雰囲気に慣れねばなるまい。古美術店に場慣れして、店主と値引き合戦をした後、いつの日か私もなにがしかの陶磁器を手に入れられるのだろう。

2011年11月22日火曜日

紅葉をひた走るSL山口号

11月20日。SL山口号は今季最終のお仕事を迎えた。

SL山口号の連結

殿町通りも紅葉


津和野大橋を走る山口号

津和野の郷土料理 うずめ飯

永明寺

境内は紅葉の見ごろだった

とてもきれい

2011年11月21日月曜日

津和野より

東京から津和野までの道のりは美しかった。

飛行機が山陰の海岸に出ると、萩・石見空港まではもうすぐ。赤い石州瓦の集落が点在する周囲には棚田が緩やかな傾斜に人里らしさを添えるようにつくられ、平地にも田畑が広がる。姉が出雲大社に行ったお守りが実家にあるのを見て、一度も行ったことのない山陰に私も早く足を踏み入れたいとずっと思っていたのがようやく実現するのである。とても楽しみだ。と言っても、私が行くのは出雲大社ではなく、津和野・萩そしてその後山口、防府であるが。

上空から見る山陰の海岸線は、白い砂が舞うとても美しいもので、近くにある人里の集落を見つけては、こんなきれいな海と砂浜で過ごせることをさぞ気持ちいいものだろうと想像した。そして、東京で暮らす私にはそんな緩やかな時間を過ごすことがないことが、やや残念に思えた。

この日は母の誕生日でもある。私は、千葉から北海道の旭川に嫁に行く前の二十歳そこそこの頃に津和野と萩に行ったことがある母から、何度となく津和野について話を聞いていた。母は、津和野は外の人にもてなしの心をもって接してくれ、町並みも美しく、とても良いところだと言っていたものだ。

私は実家で姉が買ってきた出雲のお守りを見たり、母の話を聞いたりして、津和野のイメージを自分なりに膨らませていた。津和野の人々は元城下町の人らしくさぞかし凛として、町並みは鞆の浦で見たような、小さい町ながらも気位の高さを示すような雰囲気なのだろう、と。


私が津和野駅を降りて足を踏み入れた津和野は、ちょうど紅葉が始まろうとしていた。そして、殿町通りを中心とした旧城下町の雰囲気を残す通りには大型バスでどっと観光客が押し寄せ、源氏巻きをほおばり、土産物屋に並ぶ和紙のお土産や焼き物を物色して城下町らしい文化の名残をひとしきり楽しんでいた。それを道の両側にある掘割のコイが忙しそうに仰ぎ見るのは、いかにも津和野らしい光景だった。

私はこれこそが観光地という顔をもつ津和野らしさなのかと、太り気味の鯉を眺めながらはじめは一緒にその雰囲気を楽しんでいた。そうしてそこからやや離れた津和野大橋まで歩いていくと、今度は今季最後を迎えるSL山口号が山口方面に走っていくのを心待ちにする人らが、横一線に列をつくって今か今かと待ち構える姿があった。

観光客らは石炭色の黒い煙をもんもんと吹き上げてシュッシューと汽笛の音を鳴らしながら走り来る山口号を背伸びして待ち続け、石炭の原石のように真っ黒い顔をした山口号がその顔を見せれば歓声を上げて喜んでいた。ここまでは、こうした観光地らしさを私もそれなりに楽しんでいた。

その後永明寺を参ると、そこだけ金箔を貼ったようにイチョウが輝き、イロハモミジの赤も鮮明で、山並みの紅葉がはじまりかけだというのに、すでにここは紅葉が見ごろを迎えて別世界の美しさをつくりだしていた。私は、自分以外にここで見た観光客が同世代の外国人女性一人しかおらず、団体ツアーの人々がここには来ないことをもったいなく思ったが、ひっそり山間に佇む津和野でさらにひっそりした名所を人知れず満喫でき、どこか得した気がした。

それでも、このように観光を楽しみながらも、空港からは直通のバスもなく、陸の孤島感が否めない津和野にはどこか寂しさを感じ続けていた。そして、それは日帰りの観光客が津和野を去り、日も暮れて、ほとんどの飲食店が店の一日の営業を終えるとより実感できるようになった。

大きな都市に行くと、ホテルの部屋に閉塞感を感じたりして外の空気が吸いたくなれば、いくらでも出て行く空間がある。ところが、ここ津和野では外の人間をそのように懐に抱くようなスペースはそうそう見当たらない。20時も過ぎると、通りには本当に人が通らなくなる。学校の鐘が鳴ったかのように、町の人は家に戻るらしい。そして、ここから私の苦渋の時間が始まるのだった。

鹿児島でもそうだったが、陸の端の方に来たときのこの孤立感、町の閉塞感に私はすでに精神的につぶされそうになっていた。昼間の観光地では、客がいても普通にクッチャベリ続ける地元の店の人たちに、最初はアットホームさを感じて、津和野のどこのお店に行ってもそれが同じだと、東京とは随分文化が違うものだと思うようになった。そして、それは他の旅先でも何度となく経験してある程度覚悟はしていたというのに、この町の消灯の早さを実際に体験させられたとき、私はまったくもって津和野ペースについていけなくなったのである。

ところが、津和野の人たちは驚くほどこの町のリズムには従順なのであった。夜の10時過ぎの駅前は、駅の電灯が灯ってはいるものの、人の往来はなく、恐らく終電だと思うが、その後電車がやってはくるものの、駅から出てきたのはたった一人だけであった。

この段階で、姉の出雲大社のお守りも母の津和野話も私のなかでは幻となり、私にとって津和野は、町全体が大家族のような連帯感で結ばれている安心感はあるものの、流動性のない閉塞感から、辛い場所とすっかり凝り固まってしまった。

そして、これでは次に行く予定の萩もキツイだろう、山口、防府はまだいいだろうが、やはり今回は早く切り上げて帰ろうと、私は突如旅行をやめることにした。

翌朝9時11分の特急には、津和野からは3名の乗客しか乗らず、車窓の風景は、空港から津和野まで同様農村集落だった。それが、山口あたりから住宅地が広く続くようになり、私はほんの少しだがほっとすることができた。さらに新山口で新幹線に乗り換えるときは、東京駅に比べるとまったく人の往来は少ないものの、標準語を話す駅員にさらにホッとした。

新幹線が徳山を過ぎて広島に入ると、大都市らしい光景が始まりようやく私は生きた心地がしたものだった。新大阪からはそれまで晴れていた空が曇り始め、京都では雨が降っていた。これだけ移動すると天気も変わるが、東京に近づくにつれて私の安心感はみるみる強まった。

私は新幹線に揺られながら、津和野のようなアットホームな町は、誰かと来るほうがいいのかもしれない、と振り返った。それでも、チェックアウトしようとホテルのフロントに行くと、昨日永明寺で会った外国人女性が元気そうに店員さんと話していて、こちらは一人で津和野をまわってもへっちゃらのようだった。

私はまだまだ鍛錬が足りないのかもしれない、と思い知らされる津和野の旅だった。

2011年11月19日土曜日

こんな喫茶店がまだあるなんて

JR吉祥寺駅を北口に出て通りを東側に歩くこと数ブロック。雑居ビルが建ち並ぶなかを少し入っていったところの二階にポツンと『バロック』という音楽鑑賞専門店なる喫茶店がある。

私が行ったのは平日の昼間だったのだが、近くの居酒屋はまだ開店前。駅前の人通りに比べると、ちょっと離れただけなのにこのあたりはとても静かで、この近くで今大音響の音楽が流れているとは想像できなかった。

ところが、バロックの看板を見つけてビルの二階へ上がり扉を開けると、最初は小さな音が聞こえてきたのが、廊下を歩き進めるとどんどんその音が大きくなり、確かにこれは鑑賞用喫茶店であることがよくわかった。

部屋の奥の方のテーブルには灰皿がなかったので禁煙席はそちらだろうと思い、椅子に座ると、程なくしてとてもきれいで上品なマダムが接客してくださった。すばらしい笑顔だったのが印象的だ。

リクエストの曲はありますか?と聞かれたので、ベートーベンの交響曲5番を、と言うと、レコードリストを持ってきてくださり、そのなかからどのレコードがいいかとさらに聞かれた。そこで、よくわからないがコロンビア交響楽団、ワルター指揮の一枚を頼んだ。

私が入店したしたときは客は他におじさま二人がいて、モーツアルトのピアノ曲が流れていた。それが終わると私のリクエスト曲が始まり、自分のリクエストした曲を聴けるなんてなかなか気分がいいではないかと、近くに置かれている石の彫刻を眺めながら、生花の束を眺めながら聴き入った。

レコードらしいノイズが、とても懐かしかった。

珈琲は一杯800円と安くはないが、あの真心こもったマダムの接客に、自分が聞きたい曲をリクエストできるなら決して高くはない。

そう思わせてくれる喫茶店だった。

2011年11月14日月曜日

こんなにおいしかったのか、、、

笹塚駅を出てライフのすぐ隣の二階にある『エアーズバーガーカフェ』に行ってきた。おいしい、おいしいとの評判をもとに、胸を弾ませいざ入店。

店の中はわりとシンプルな内装で、これまで私が抱いていたハンバーガー店のイメージとは違った、とてもおしゃれな雰囲気が漂っていた。これならばバーガー”カフェ”と名づけられていても確かに納得である。私が入店したのは平日のランチタイムだったが、店内には私以外に2名ほどしか客がおらず、店員さんの案内どおりに好きなテーブルを選んで私は窓際の椅子に座った。

ところで、この店員さんの接客がとても丁寧なのである。その丁寧さは、ハンバーガー店として丁寧とかいう次元を超えて、本当におもてなしの接客だった。このサービスならバーガー一つが千円近くてもやや納得、とこのとき思ったほどある。

とはいえ、ハンバーガーのお店なのだから接客だけが良くても話にならない。おいしいおいしいと噂のハンバーガーは本当においしいのかと、私がこの日メニューの中から選んだのは「大人の照り焼きバーガー」だった。ランチはポテトとドリンクがついて1000円のお値段だ。

アメリカンなコーヒーを先に頂き、小奇麗なテーブルを眺めながら待つことしばらく。10センチ以上の高さに積まれたハンバーガーが目の前にやってきた。

フォークとナイフも用意されていたが、私はかぶりついて食べたかったので、店員さんの指示通りに包み紙にいれてぎゅっと上から押さえて半分くらいの厚さにしてかぶりつく準備をした。そして一かじりしてみると、ハンバーガーってこんなにおいしい食べ物だったかと感動が口の中に広がった。あ~おいしい。本当においしい。

パテといい、バンズといい、ソースといい、トマト、レタスといい、どれをとっても文句なし。しかもそれぞれの相性も抜群なのだ。そして、大人の、、、と銘打たれているようにとても上品な仕上がりになっている。私はひとかみひとかみ感動を噛み締めながら食べ続けた。大きさも普段食べるモスバーガーのものの1,5倍くらいあるので、とても食べ応えがあった。

そして、バーガーに添えられたポテトを食べると、これもまたおいしいのである。ハンバーガーを食べ終えてから手をつけたのでやや冷め始めていたのだが、それでもカリカリで香ばしく、イモの甘みを食塩のしょっぱさが引き立てていた。ひとつちょんとあったピクルスもおいしかった。どれをとっても決して濃い味付けではなく、素材の感触をそのままに楽しみながら食べられた。

これは再訪間違いなし。

帰りには、店員さんが扉を開けて見送ってくれるというやはり丁寧なサービスの、おいしいおいしいエアーズバーガーカフェだった。

2011年11月10日木曜日

旅立ち

秋が深まると、暑さに喘いで窓を開けることもなくなった。おかげで、新たに家が建ったり、公道のどこかが修理されたりするために止むことのなかった工事の音も、夏の頃よりは気にならず、機械音に眉をひそめて窓辺に立ち尽くすこともなくなった。

こうして静けさが守られる部屋の中では、コタツが登場して数日前から活躍を始めたところである。我が家の猫が自由気ままに出入りするそのコタツに私は今入り、静寂が保たれるまま横になって休んでいた。

窓からさす日差しは、こうして寝ていると眩しいのだけれども、読書するにはやや暗い。私はこの按配の明るさの中で筋肉の疲れを感じ、その感覚は徐々に内臓の疲れへと移るのを感じていた。そして、こうして疲労困憊することにすっかり神経が向いたところで、ふと始まる外の工事の音がまるでなにかの攻撃のように耳を襲ってくるのだった。

しかし、家のなかは防空壕に身を寄せるよりもはるかに快適で安心していられて、私はそれらの音に無関心だった。そして、コタツの傍らにあった花図鑑を見ては、近くの公園ではこの花が咲いているだろうか、あの花が咲いているだろうかと考えるとすっかり楽しくなり、疲れた筋肉と内臓をおしてでも外に出たくなった。

猫が縁側で寝るときに外の方を向いているように、老人が窓辺の椅子に腰掛けてくつろぐときに目は閉じられていても窓の向こうを向いているように、こうして私の意識は常に外に向いているのだった。

それでも、恐らく内臓の疲れはそこから来るものだと思われるが、外にばかり意識が向かうおかげで身近なところがおろそかになるストレスは相当なもので、自分のお粗末さに一つ、また一つと気づくにつれて外の花への興味は減退した。

それは猫の毛をブラッシングすることから始まり、冷蔵庫のなかの食べ物を片付けるという些細なことだったりするのだけれども、身近なところのいろいろなものが整理されるにつれて、不思議とうまい具合に外の世界の人間関係のストレスまでもが整理されていくのだった。

そしてそれは、バラ花壇が念密な計算の元に人の手によって整えられていく姿よりも、紅葉を終えた木々が見せる寂しく寒そうな姿に似ていた。しかし、閑散とした私の周囲では、失われていくものがある傍らで、それが来期への備えでもある予感がうっすら顔を見せているのである。

そのために、老人が来世への旅立ちの準備をするようなはかなさを抱えつつも、私の整理整頓はまばゆいばかりのスピードで進でいくのだった。

2011年11月9日水曜日

ピッツェリア・バッジオより

六本木にあるピッツェリア・バッジオに私が入ったのは昼の12時半前で、すでに20人弱ほどの客が席を埋めていた。そして、ランチメニューはすべてピッツァであるがゆえに石釜が混んでいるのか、ピッツァが焼きあがるまでに25分ほど時間がかかると入店の際に言われた。

その25分を、ランチセットのサラダで埋める。

レタスとサラダ菜とカットトマトにドレッシングと、その上から黒胡椒がかけられているのだが、この黒胡椒が、ドレッシングの甘酸っぱさに混じってピリッとアクセントを加えつつも、その後口の中に甘い香りをもたらし、そして再びピリッとした感触を残してくれるので、25分をつぶすにはなかなか楽しかった。

その後、やや寒さを感じながらピッツァの登場を待つ。じっと待っていると、7~8メートル離れた左側の石窯の方からはピッツアの生地が焼かれる香ばしい匂いがしてきた。そしてその匂いは、数メートル離れた右側にある店の入り口の扉が客の入出店によって開けられるたびに、やや勢いのある香りの流れとなって店内を漂うのだった。

私はこの左右の環境の違いから、左肩は石窯の熱で暖められながらも右肩は外気の流入により冷やされるという目にあっていた。しかしそれも、真ん丸のピッツアが私の元に運ばれて、ピッツアの熱が冷めておいしさが減退する前に食べてしまおうとピッツアをとっとと食べつくしているうちに、全身がぽかぽかとしてきた。

もちもちの生地は、具の流出をくい止めようと1センチ以上の高さに膨れた額縁のところが程よくコゲて、香ばしさを増していた。しかし、せっかくの額縁も、カットされたラインに沿ってピッツアを取り上げると、たっぷり振られた具が切れ目からこぼれ落ちていった。

私はこぼれ落ちた具であるほうれん草とソーセージをもう一度生地の上に置きなおし、もう具が落ちないようにとアツアツのままほおばるのだが、一度こぼれ落ちた具とのこのかかわりは、よりピッツアを贅沢に感じさせてくれた。唐辛子色のオリーブオイルをたっぷりかけて食べるのもよかった。

最後の一切れに手をつける頃にはもう満腹というボリュームを楽しみながら、とてもいいランチタイムを過ごせたと思う。
本日のピッツア
ほうれんそうとソーセージ

2011年11月8日火曜日

東大付属病院の方

大工場のような東大付属病院は、東大キャンパスの東隣にあった。

一般外来棟の外観にはよくできた彫刻が壁の上のほうにいくつも並ぶように彫られ、そのユニークな彫り物の細かさに感心しながらも、私はこれが病院経営の何に必要なのかと不思議になった。しかし、外来棟の前にあるバス停にバスが到着してそこから数十人もの患者やその家族らが降りてくるのを見たとき、その考えが変わった。

東大病院の権威と威信を象徴するように彫られた、おそらくは何がしかのメッセージにもなっているであろうこれらの彫刻を、藁をもすがる気持ちでやってきた患者が見たならば、そのご立派ぶりに反感をもつ人が一方ではいるかもしれない。しかし他方では、どこか権威に裏づけされたかのような安心感を患者が抱くというプラセボ効果が働くかもしれないのである。

しかし、それらの彫刻は仏像のように手を合わせて健康回復を願いたくなる造形ではなく、どちらかというと、太陽に向かって存在を誇示するように壁の一部を占拠していた。そしてそこから出てくる彫刻からの思いは、隣に建つ研究棟の思惑のように見えるのだった。

そんな東大付属病院のバス停のある通りを渡って東大キャンパスに戻ると、構内の芝生には猫がいて、その芝生の周囲を大型犬を連れた老女が散歩していた。芝生には他にも学生や親子連れが来ていて、昼のひと時をくつろいで過ごしていた。

芝生の近くには下り坂の土の道があり、それは三四郎池につながっていた。池のほとりには人がまばらで、若い学生たちは芝生以上の自然を求めていないことを物語っていた。それでも近所の人らしき女性がコイにパンくずをあげたり、男子学生が一人カモと戯れていた。

この三四郎池から赤門までは目と鼻の先である。

私は東大付属病院を出てから数十分ほどの道草を終えて往来の激しいこの赤門を出た。すると本郷通りを目の当たりにするのだけれども、その時には東大病院のあの大工場の光景はすっかり別世界となっていた。

2011年11月7日月曜日

大川内山にて

大川内山にある窯元の店は、午後も4時半を過ぎると店じまいの様子を見せる。焼き物で暮らす家の人らが、店の前に広げた売り物の食器をいたわるように大事に大事に重ねて一まとめにすると、それを店の中へとしまい込み、そして最後は、肌寒くなってきた夕方の秋風から逃れるように、自分たちも店の中へとすっかり身をしまう。

それを陶工たちの墓や、向こう側で岩肌をむき出しにする周囲を囲む小高い山々が、入院病棟の監視カメラのように見つめていた。

私がそのカメラの視界のなかに入っていったのは、集落が生産活動を終えようとする4時前頃だった。タクシーを降りたところから窯元の並ぶ方へは緩やかな上り坂で、平日のせいもあってか、すでに人はまばらだった。

職人の雰囲気が集落のある山間一体に漂うこの地の人々はとても大人しく、それでいて意志が強そうに見える。私はそんな人々によってつくられた焼き物の並ぶ店先を、きっと高価なのだろうと指をくわえながら眺めるだけで、どこか職人の意気込みに気おされるように、一度もどこの店にも足を踏み入れる気にならなかった。

そして私は焼き物を買うよりなき陶工たちの墓に向かい、その墓が優しいまなざしで私を迎えてくれることを、手前を流れる川のところで感じていた。そしてそれを、周囲を囲む山々も見守っていた。

16時台にある大川内山を出る最後のバスに乗ろうと墓地の近くのバス停に向かうと、もう一人、30歳くらいの東京の人らしいお洒落な格好をした男性が同じくバスを待つらしく、懐からタバコを取り出してベンチに座るとバス停の前で一服し始めた。

灰皿もないのにと思ったが、周囲の山々が煙を吸い取り、私のまわりの空気まで穏やかにさせていくのだった。そこにおそらく焼き物をしまい終わった地元の中年の女性が通りがかると、この若い男に、よろしくお願いします、と深々と頭を下げていった。

伊万里の街中から大川内山の人を乗せたバスがその後やってくると、程なくして東京で働くバイヤーらしきこの男と私を乗せて再び伊万里駅の方へと最後のバスが出て行った。狭い集落での人々のやり取りも終わる頃、山の目も陶工たちの墓も本当の眠りにつき、山間には静けさだけが残るのだった。

私はこの空間の中にいると、不況が続き、以前のように焼き物が売れなくなったというのに、それでもなおこの集落が存続しているのがわかる気がした。そしてその思いは、翌日行く有田でひとつの焼き物を買うことへとつながっていった。

2011年11月4日金曜日

ル・クープーシューより

西新宿にあるフレンチのお店ル・クープーシュー。

昼の1時前に入ったところ、8割がた席が埋まっていたものの、カウンター席へ案内される。そう、そしてそれはとても丁寧な接客だった。

カウンターからは厨房が丸見えなので、シェフが今どの段階で何をやっているのかがよくわかる。フレンチではなかなか見ることのできない光景なので、こうして食べるのは初めての私にはなかなか楽しかった。

しかし、隣の会社員らしき男性は仕事がうまくいかないのか、顔を手ですっかり覆いうなだれ続けていた。出てきた料理を食べてはうなだれ、食べてはうなだれ、最後の珈琲のときもずっとうなだれ、、、。これは相当である。

厨房を楽しんでいた私はというと、ここで思わぬ難題に突き当たった。パンにつけるバターがカチンカチンに固くてナイフが刺さらないのである。すると、それに気づいた先ほどの店員さんは、あれよあれよともう一つナイフを持ってきて、とりやすいようカットしてくれた。すかさず助け舟を出してくれるあたり、どこまでいっても客への気配りを忘れないらしい。

歯ごたえのいい牛タンの前菜に始まり、身体に栄養がしみわたるような青ねぎのポタージュ、目の前でジュージュー焼いてくれたソースたっぷりのスズキのソテーに、程よく甘いババロアのコースはこの店では「定食」と名づけられているのだが、¥1680にしてこの定食は豪華だった。

カチカチのバターもメインのスズキのソテーが出てきたときにはオレンジ色のソースに役割をとられたので、バターに難儀することもなく定食を食べ終えることができた。

満足満足。

2011年11月3日木曜日

熊本城と水前寺公園より

熊本駅で新幹線を降りてからは、市電に乗り熊本城を目指した。この日は結局市電に3回ほど乗ったのだが、偶然なのか、運転士も車掌もみな女性だったのが印象的だった。

市電にゆられて十数分ほどで、熊本市街地の中ほどに黒と白で彩られたシックな熊本城の天守閣が現れた。なかなかかっこいいお城で、そして、城内を歩いてみると、とにかく広い。

入って間もなくすると、天守閣までの道のりを石垣コースか櫓コースか選ぶことを迫られるが、私は高い石垣に引かれて石垣コースを選んだ。しかし、その高い石垣に目が行ってばかりでは足元が大変である。一段一段の石段が階段1,5個分くらいの高さがあるので、何の気なく歩いていると躓くのだ。

それにしてもこの高い石垣は、確かに江戸当時の隠しカメラもヘリコプターもない時代では、戦う上では強い見方になったかもしれない。私は天守閣に攻め行く気持ちで石垣の中を歩いてみると、先の見えない閉塞感にどこから攻められるのかと緊張感が高まるものがあった。う~ん、怖い。加藤清正が威信をかけてつくっただけのことはある。

その緊張感を携えてようやく天守閣にたどり着くと、大銀杏が迎えてくれる。そして、加藤さんか細川さんのコスプレをしたお兄さんらが観光客と一緒に写真を撮っている姿もある。

昭和35年に復元されたという天守閣の最上階である6階まで上ると、窓からは360度熊本市を一望できた。来年政令指定都市になる熊本は、城の周囲はビルが続く光景で、城の近くにある熊本医療センターの建物の大きさは人が長く生きるのに比例するかのように巨大であり、もう一つの天守閣のようだった。

この近現代都市で江戸時代のお城の姿があるのは実は違和感があると思ったが、町のシンボルとはそういうものなのだろう。

お城を出た後は水前寺成趣園に行った。

この庭園につくられた築山の数々とそれに寄り添う松は、これまで見てきた日本庭園とは一種趣を異にする雰囲気をつくっていた。東海道五十三次を模したといわれているようだが、とてもまろやかなのである。どの角度から見ても優美な松も見事だった。

久しぶりに目にする庭園美に、熊本に来て良かったと思った。




場内にたくさんある井戸のひとつ


天守閣


とても立派

天井はこう


最上階から見た熊本市外
パルコのある方

その反対側

水前寺公園




公園の売店付近にいた猫


城下町の新町付近で出会った猫たち




交通センターの地下一階で食べた『こむらさき』のラーメン
おいしかった

2011年11月2日水曜日

九州新幹線より

佐賀から熊本に向かうのに、九州新幹線を利用することにした。母がとにかく九州新幹線に乗りたい、九州新幹線に乗りたいと言っていたので、どんなものかと楽しみに。

あけてびっくり、東京ではよくのぞみを利用するが、この九州新幹線の豪華ぶりはなんたることか。
ホームに入ってきたところ

こんな柄の椅子

この車内の落ち着き

木目

といったふうに、ずいぶん内装にこだわっている。椅子も広くてよかとよ~。
佐賀から熊本までは、途中久留米などが都市らしい景観だったが、それ以外はひたすら田畑でのんびりした車窓だった。内装があまりに違うので、のぞみとは乗っている感じがまったく異なるが、九州の人は新幹線といえばこれだと思って人生を過ごす恩恵にあずかるようである。

佐賀バルーンフェスタより

伊万里のホテルといい、佐賀駅前のホテルといい、部屋のカップが磁器なもので、コーヒーを入れて飲むのが一際おいしく感じた。焼き物目当ての観光客には嬉しいはからいである。そして、そんなはからいに胸を胸をときめかせながら、私はバルーンフェスタの初日を待ちわびた。

フェスタの始まる前日の夜は、駅前から延びる大通りでパレードがあった。佐賀駅まで来たものの夜は特にやることもないので、私も18時から始まるそのパレードを見に行くことにした。人口24万人の町を盛り上げる盛大な催しである。

ボーイスカウトやら消防署やらの鼓笛隊の演奏と共に、バルーンを上げる炎をつくる設備を載せた車が走り、夜空に向かってボーボーと炎を噴き出しながら観客らの歓声を呼んでいた。私は10メートルくらい離れたところで炎が上がるのを見ていたのだけれども、これだけ離れていても炎の熱がこんなに熱く感じられるものかと、バルーンを上げる競技者の忍耐に驚いてしまった。

一人この地を訪れた観光客の私がそうしている一方では、地元の子供が鼓笛隊で演奏中の友達か兄弟姉妹のところに駆け寄り携帯の画面を見せていた。自分が撮った画像を見せたくて終わるのを待ちきれないのだろう。その様子はまるで演奏者以上の白熱ぶりだった。

他にもパレードに参列している人と観客たちのなかにこうした光景が見られ、ホンダなどの大手資本の名前が目立つ中でも地元の人々に楽しまれている祭りであることに、大手資本の社会貢献を垣間見られた気がしてちょっとほっとした。

前夜祭のパレードは佐賀銀行本店前で終わり、翌朝の7時からは佐賀駅から程近い嘉瀬川河川敷で一回目のバルーン競技が始まる。


私はそれを、宿泊する佐賀駅前のホテルの窓からでも見られるようにと、バルーンフェスタが見える眺めのいい部屋をホテル側に頼んでおいた。しかし、フロントの人は、一応見えやすい部屋を用意したがホテル側にバルーンが飛んで来ないと見えないだろうと言う。と言うことは、やはり早起きして河川敷まで行かないと見えないということかと、早起きを億劫に思っていた私はやや気が重くなった。

ところが、朝起きてみると、6時にセットした目覚ましを聞き逃したようで、気づいた時には6時半を過ぎていた。これではもう7時の開始時間には間に合わない。そこで、ゆっくり朝食を食べてから部屋へ戻り、15時からも競技があるのでそれを見に行けばいいと開き直って、ベッドに寝転んで二度寝でもして疲れをとろうとうとうとしていた。

するとしばらくして、窓の向こう側からボーボーっという前夜のパレードで聞いた炎を噴く音が聞こえてくるではないか。この静かな町佐賀で、あまりにものものしいぞと窓の外を見ると、いくつものバルーンが河川敷から2駅ほど離れた佐賀駅まで飛んできた音なのだった。それに気づいた時は、すっかり眠気が消えて胸が躍った。

ビルの上にフワッと浮くように空のなかに佇む幾多ものバルーンは、ホテルの窓からは競技者の姿は望めず、あたかもそれだけが人の手によらず存在しているようだった。それも、バルーンに合図でも送るようにゴロゴロと轟き音を響かせながら巡回してくるヘリコプターがやってくると、バルーンたちは渡り鳥の大移動のようにゆらゆら河川敷の方に戻っていくので、やはり統制のとられた競技なのだとその後実感するのだけれども、いかにも不思議な存在感だった。

しかしその後、そんな夢見心地な幻想の世界を打ち破る出来事に見舞われることを、このときの私はまだ知らない。

私はバルーンが近づいてきて河川敷に戻っていくまでの一時間半ほどをずっと窓辺で眺めていた。そしてその間のほとんどをバルーンのいる上空や河川敷、そしてその向こうに連なる小高い山の稜線を眺めていた。しかし、小学生の一行がホテルの下の歩道をガヤガヤと通り行く声に耳を取られてふと下を向いたとき、初めてホテルの9階の高さに気づき、そこから窓を開けて身を乗り出してバルーンを眺めていることが急に恐ろしくなった。そして心拍数が上がるのを感じた。

それでも私は気を取り直して脳の中で知らぬが仏作戦を実行し、ここが9階の高さであることをしばし忘れることにして、再度窓から、今度は遠慮がちではあるけれども身を乗り出してバルーンを目で追い続けた。

上空で不思議な存在感を放つバルーンをスリル満点の高層階から眺めるという貴重な体験ができた佐賀は、焼き物にプラスしてとても楽しい思い出となった。

前夜祭のパレード
炎が上がる

パンダも乗っている
炎に着ぐるみ、さぞ暑かろうて

翌朝のバルーン競技の様子
ビル街まで飛んできた

河川敷の方

どんどん河川敷にバルーンが戻っていく

オフィス街ではまだこうしてバルーンが
中央右のバルーンから炎が出ている

拡大してみるとこう

競技が終わる9時頃の河川敷上空
バルーンがいっぱい

2011年11月1日火曜日

有田の方より

松浦鉄道で伊万里から有田へ揺られること20数分。稲の刈られた水田や畑のなかに瓦屋根の農家の集落が点在する光景が続くと、小高い山に囲まれるように有田の街が現れる。

昨日は人口150万人ほどの福岡を抜けて佐賀県に入ったところだったが、佐賀に入った途端に広がるほのぼのとした田園風景が随分と好ましいものに思え、伊万里の静けさも気に入った。そんな伊万里で一泊して朝の9時頃に有田へ行こうとこぢんまりとした伊万里駅で私は電車を待っていた。

すると、すぐそばのバス停で老人たちが病院にでも行くのか、ポツリポツリと現れては程なくして来るはずのバスを待ちにやって来る。そして、誰かの知り合いが通りがかると大声で挨拶を交わすのがこちらまで聞こえる。

老人を勇気付けるような朝の大声の挨拶がする道路の向こう側では、幼稚園の子供たちがおそろいの制服を着ながら先生に引率されて賑やかに歩いていた。彼らが歩いている歩道は伊万里焼の破片がモザイクのようにちりばめられ埋め込まれたもので、そんな高価なものの価値などまだわからないながらもその上を歩いて育つ子供たちが私にはとても愉快に思えた。

こんな小さな頃から伊万里の上を歩くも、伊万里の地元の人たちは伊万里焼にはあまり興味がないと、私が乗ったタクシーの運転手さんは言っていた。私がこのあたりの棚田がきれいだと言っても、私が北海道出身であることを言うと、こっちの人は北海道の広い田畑の方がすごいと思いますよとの反応だ。

確かにそんなものかもしれない。しかし、それが有田に行くとやや状況が違った。

有田では街の多くの人が焼き物で生計を立てている。駅前にある有田の100近くの窯元の商品をそろえたお店で私の接客をしてくださった方も、夫と息子が焼き物作家として身をたてていると話してくれた。その女性は焼き物の見方について熱く語ってくださり、焼き物の知識のない私には大いに役立ったのだが、同時に不況で買い手がつかなくなって困っているとの街の現状も知らされ、私は手ぶらでお店を出られない心境に追いやられた。

そして、100近くある作家の商品が並んでいる中でも、当然その女性の息子か夫の作品を買う心理にされ、私はそれほどお金に余裕がないので、息子の作品で型でとった湯飲み茶碗を一つ選んだ。まだまだすべて手づくりの器には手が出ないのがちょっと悲しいところである。

それにしても、この買い物は焼き物で食っていく人たちの術中にすっかりはめられた結果なのだろうか。そして、東京から来たなどと言うと、完全にカモにされてしまうのだろうか。

伊万里と有田は十数キロしか離れていないのだが、伊万里は大川内山一帯にしか焼き物の雰囲気は感じられなかったのに、有田は町全体が焼き物ムードなのが、日本の磁器発祥の地有田の意地なのかもしれない。

有田のとある焼き物店にいた招き猫
とても大人しく、触わられても平気

九州陶磁文化館にあるカフェにて
伊万里三昧のテーブル
高菜チャーハン

九州陶磁文化館から望む上有田方面

有田にある橋には焼き物のプレートが

こっちの橋も