東京から津和野までの道のりは美しかった。
飛行機が山陰の海岸に出ると、萩・石見空港まではもうすぐ。赤い石州瓦の集落が点在する周囲には棚田が緩やかな傾斜に人里らしさを添えるようにつくられ、平地にも田畑が広がる。姉が出雲大社に行ったお守りが実家にあるのを見て、一度も行ったことのない山陰に私も早く足を踏み入れたいとずっと思っていたのがようやく実現するのである。とても楽しみだ。と言っても、私が行くのは出雲大社ではなく、津和野・萩そしてその後山口、防府であるが。
上空から見る山陰の海岸線は、白い砂が舞うとても美しいもので、近くにある人里の集落を見つけては、こんなきれいな海と砂浜で過ごせることをさぞ気持ちいいものだろうと想像した。そして、東京で暮らす私にはそんな緩やかな時間を過ごすことがないことが、やや残念に思えた。
この日は母の誕生日でもある。私は、千葉から北海道の旭川に嫁に行く前の二十歳そこそこの頃に津和野と萩に行ったことがある母から、何度となく津和野について話を聞いていた。母は、津和野は外の人にもてなしの心をもって接してくれ、町並みも美しく、とても良いところだと言っていたものだ。
私は実家で姉が買ってきた出雲のお守りを見たり、母の話を聞いたりして、津和野のイメージを自分なりに膨らませていた。津和野の人々は元城下町の人らしくさぞかし凛として、町並みは鞆の浦で見たような、小さい町ながらも気位の高さを示すような雰囲気なのだろう、と。
私が津和野駅を降りて足を踏み入れた津和野は、ちょうど紅葉が始まろうとしていた。そして、殿町通りを中心とした旧城下町の雰囲気を残す通りには大型バスでどっと観光客が押し寄せ、源氏巻きをほおばり、土産物屋に並ぶ和紙のお土産や焼き物を物色して城下町らしい文化の名残をひとしきり楽しんでいた。それを道の両側にある掘割のコイが忙しそうに仰ぎ見るのは、いかにも津和野らしい光景だった。
私はこれこそが観光地という顔をもつ津和野らしさなのかと、太り気味の鯉を眺めながらはじめは一緒にその雰囲気を楽しんでいた。そうしてそこからやや離れた津和野大橋まで歩いていくと、今度は今季最後を迎えるSL山口号が山口方面に走っていくのを心待ちにする人らが、横一線に列をつくって今か今かと待ち構える姿があった。
観光客らは石炭色の黒い煙をもんもんと吹き上げてシュッシューと汽笛の音を鳴らしながら走り来る山口号を背伸びして待ち続け、石炭の原石のように真っ黒い顔をした山口号がその顔を見せれば歓声を上げて喜んでいた。ここまでは、こうした観光地らしさを私もそれなりに楽しんでいた。
その後永明寺を参ると、そこだけ金箔を貼ったようにイチョウが輝き、イロハモミジの赤も鮮明で、山並みの紅葉がはじまりかけだというのに、すでにここは紅葉が見ごろを迎えて別世界の美しさをつくりだしていた。私は、自分以外にここで見た観光客が同世代の外国人女性一人しかおらず、団体ツアーの人々がここには来ないことをもったいなく思ったが、ひっそり山間に佇む津和野でさらにひっそりした名所を人知れず満喫でき、どこか得した気がした。
それでも、このように観光を楽しみながらも、空港からは直通のバスもなく、陸の孤島感が否めない津和野にはどこか寂しさを感じ続けていた。そして、それは日帰りの観光客が津和野を去り、日も暮れて、ほとんどの飲食店が店の一日の営業を終えるとより実感できるようになった。
大きな都市に行くと、ホテルの部屋に閉塞感を感じたりして外の空気が吸いたくなれば、いくらでも出て行く空間がある。ところが、ここ津和野では外の人間をそのように懐に抱くようなスペースはそうそう見当たらない。20時も過ぎると、通りには本当に人が通らなくなる。学校の鐘が鳴ったかのように、町の人は家に戻るらしい。そして、ここから私の苦渋の時間が始まるのだった。
鹿児島でもそうだったが、陸の端の方に来たときのこの孤立感、町の閉塞感に私はすでに精神的につぶされそうになっていた。昼間の観光地では、客がいても普通にクッチャベリ続ける地元の店の人たちに、最初はアットホームさを感じて、津和野のどこのお店に行ってもそれが同じだと、東京とは随分文化が違うものだと思うようになった。そして、それは他の旅先でも何度となく経験してある程度覚悟はしていたというのに、この町の消灯の早さを実際に体験させられたとき、私はまったくもって津和野ペースについていけなくなったのである。
ところが、津和野の人たちは驚くほどこの町のリズムには従順なのであった。夜の10時過ぎの駅前は、駅の電灯が灯ってはいるものの、人の往来はなく、恐らく終電だと思うが、その後電車がやってはくるものの、駅から出てきたのはたった一人だけであった。
この段階で、姉の出雲大社のお守りも母の津和野話も私のなかでは幻となり、私にとって津和野は、町全体が大家族のような連帯感で結ばれている安心感はあるものの、流動性のない閉塞感から、辛い場所とすっかり凝り固まってしまった。
そして、これでは次に行く予定の萩もキツイだろう、山口、防府はまだいいだろうが、やはり今回は早く切り上げて帰ろうと、私は突如旅行をやめることにした。
翌朝9時11分の特急には、津和野からは3名の乗客しか乗らず、車窓の風景は、空港から津和野まで同様農村集落だった。それが、山口あたりから住宅地が広く続くようになり、私はほんの少しだがほっとすることができた。さらに新山口で新幹線に乗り換えるときは、東京駅に比べるとまったく人の往来は少ないものの、標準語を話す駅員にさらにホッとした。
新幹線が徳山を過ぎて広島に入ると、大都市らしい光景が始まりようやく私は生きた心地がしたものだった。新大阪からはそれまで晴れていた空が曇り始め、京都では雨が降っていた。これだけ移動すると天気も変わるが、東京に近づくにつれて私の安心感はみるみる強まった。
私は新幹線に揺られながら、津和野のようなアットホームな町は、誰かと来るほうがいいのかもしれない、と振り返った。それでも、チェックアウトしようとホテルのフロントに行くと、昨日永明寺で会った外国人女性が元気そうに店員さんと話していて、こちらは一人で津和野をまわってもへっちゃらのようだった。
私はまだまだ鍛錬が足りないのかもしれない、と思い知らされる津和野の旅だった。