立川でmri検査を受けた後近くの昭和記念公園に行こうと、一駅電車に乗って西立川へ向かった。
昭和記念公園は西立川駅を降りると目の前で、門をくぐると秋の日差しを反射した大きな池が広がっていた。それはいかにも秋の公園らしい印象だった。この光景にmriの記憶がやや遠のくのを感じながら、私は池の左側の道を通って以前猫を見かけた日本庭園へと園内を1キロほど歩いた。
途中には、先日津和野で見たのと同じく黄金色の葉をつけたイチョウの木があちこちで目立っていた。私は数百メートル歩いて身体が熱くなってきたところで、大きなイチョウの木の前にあるベンチに腰を下ろして一休みすることにした。隣に立つイロハモミジがほどよく日差しを遮ってくれるところである。
イチョウの木からは、風が吹くとパラパラと葉が流れ落ちる。なのに大量の葉を抱えるイチョウはそのボリュームを一向に失うことがなく、そこには一人の人とじっくりかかわるような安心感が見出せた。
木の周囲では、老人が御座を広げて鼻歌を歌い、まるで私と同じ心境を味わっているようだった。その老人もしばらく後に帰途にたつのだが、その際に荷物をきれいにまとめて芝生の上が跡形もなくなるさまは、風が吹くたびにどんどんイチョウの葉が落ちるのと同じく一瞬のことだった。
そんな一瞬の変化が園内のあちこちで起こっていた。そして、葉が落ちても落ちてもまだ葉を抱え、イチョウの木は生命の象徴のように空に向かって聳えていた。
ずっと吹き続ける風に身体も冷えてきたので、私の体温を奪ってようやく温まってきたベンチに名残惜しさを感じながらも、私は腰を上げて日本庭園へと向かうことにした。
日本庭園は、紅葉の季節は特に人気があるのか、わりと人が多かった。
雪吊りの松を望む方には、絵葉書におさめたような美しさがずっと続いていた。多くの人がその景色の前で立ち止まるのだが、それは私を包み、私を守り、私自身でもあると思える自然の木の連続だった。
しかし、台風などでその中の一本が根元から倒れ落ち、その安定感を失った挙句にそれが原因で私を苦しめることになると思うと、心の平静を保つのは難しかった。それでも、一度つくった傷がいつか治るように、その木がこれまで毎年落ちていった葉と同化する頃には私の傷も癒えるのだろうとも想像できた。
ゆったりと東屋のベンチに座って、今日も多くの人が温泉につかるように何かを癒して、ある人はその光景をカメラに収めて、ある人はスケッチして帰っていく。
日本庭園を出るところで以前見かけた猫とばったり出くわしたのだが、mriの緊張もすっかり解けて、猫との再会にホッとして、とてもいい散歩だった。