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2011年11月10日木曜日

旅立ち

秋が深まると、暑さに喘いで窓を開けることもなくなった。おかげで、新たに家が建ったり、公道のどこかが修理されたりするために止むことのなかった工事の音も、夏の頃よりは気にならず、機械音に眉をひそめて窓辺に立ち尽くすこともなくなった。

こうして静けさが守られる部屋の中では、コタツが登場して数日前から活躍を始めたところである。我が家の猫が自由気ままに出入りするそのコタツに私は今入り、静寂が保たれるまま横になって休んでいた。

窓からさす日差しは、こうして寝ていると眩しいのだけれども、読書するにはやや暗い。私はこの按配の明るさの中で筋肉の疲れを感じ、その感覚は徐々に内臓の疲れへと移るのを感じていた。そして、こうして疲労困憊することにすっかり神経が向いたところで、ふと始まる外の工事の音がまるでなにかの攻撃のように耳を襲ってくるのだった。

しかし、家のなかは防空壕に身を寄せるよりもはるかに快適で安心していられて、私はそれらの音に無関心だった。そして、コタツの傍らにあった花図鑑を見ては、近くの公園ではこの花が咲いているだろうか、あの花が咲いているだろうかと考えるとすっかり楽しくなり、疲れた筋肉と内臓をおしてでも外に出たくなった。

猫が縁側で寝るときに外の方を向いているように、老人が窓辺の椅子に腰掛けてくつろぐときに目は閉じられていても窓の向こうを向いているように、こうして私の意識は常に外に向いているのだった。

それでも、恐らく内臓の疲れはそこから来るものだと思われるが、外にばかり意識が向かうおかげで身近なところがおろそかになるストレスは相当なもので、自分のお粗末さに一つ、また一つと気づくにつれて外の花への興味は減退した。

それは猫の毛をブラッシングすることから始まり、冷蔵庫のなかの食べ物を片付けるという些細なことだったりするのだけれども、身近なところのいろいろなものが整理されるにつれて、不思議とうまい具合に外の世界の人間関係のストレスまでもが整理されていくのだった。

そしてそれは、バラ花壇が念密な計算の元に人の手によって整えられていく姿よりも、紅葉を終えた木々が見せる寂しく寒そうな姿に似ていた。しかし、閑散とした私の周囲では、失われていくものがある傍らで、それが来期への備えでもある予感がうっすら顔を見せているのである。

そのために、老人が来世への旅立ちの準備をするようなはかなさを抱えつつも、私の整理整頓はまばゆいばかりのスピードで進でいくのだった。