夫は、さすがに夜の7時半くらいのラッシュ時は京王線の混雑もこれまでと変わらないと言うが、昼時の京王線は今日もガラガラだった。
漢方の名医と言われる人から、神経が疲れてるから考えることを意図的にやめるようにトレーニングするんだよと言われたのをいいことに、、窓の向こうに晴れ間の広がる電車の中ではひたすらぼーっと過ごして新宿駅に着くと、今度は中央線に乗り換えた。京王線に比べて中央線は、特に新宿駅での乗り換えとなると、このホームに一体何百人立っているのだろうと思わせる人混みだけれども、ラッシュをとうに過ぎたこの時間帯は、乗り降り時のドサクサを別にすれば車内は立っていてもまだゆとりがある。
中央線の上りの終着駅である東京駅で電車を降りると、とても長い下りエスカレーターが乗客を待ち構えている。じっと立ちながらエスカレーターが終わるのを待つ人らをよそに、私は何の気なくその右側を一段の隙間もなくドンドンドンドンと先を急ぐように降りゆく人らに混じって八重洲中央口に向かうと、必ずどこかが工事中の東京駅らしく、この日も相変わらずすっきりしない内観は、柱の次にまた柱と迷路のように出口までは入り組み、初めて来る者を敢えて迷わせるかのような様子だった。それでも人々の歩みは早く、首をキョロキョロまわしながら必死に案内板を見て歩くのは、ゴロゴロとキャリーバッグを引く観光客くらいのものだった。
八重洲中央口を出て八重洲通りをまっすぐ行ったところにあるブリジストン美術館で、私はその後すばらしい絵と対面することとなる。
そのうちの一つがレンブラントの『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』や『説教するキリスト』なのだが、これらの絵の前に立つと、絵の中の情景が他人事とは思えないほどの吸収力で私は絵の中へと導かれるのだった。それはその後すぐに対面することとなるコローの絵でも同じだった。
私の内にも存在する、よく言われるところの都会の孤独感はこれらの絵の前に立った瞬間に息を潜め、私は絵のなかの人々と手を取り合った。私はこうして美術館の良さをひとしきりかみしめた後、漢方医の言う神経の疲れを実感し始めたようで、他の絵の前をおざなりに通り過ぎたまま美術館を出た。
再び熱中症が騒がれるほどの残暑の中を歩くのは確かに快適ではない。そういえば漢方医も、私のお腹をポンポン叩きながらまだ夏ばてが残ってるよと言っていたな。
自分ができないことは考えないこと、昨日と明日のことは考えないこと、とのこの医師のアドバイスは現実的でなかなかありがたかった。今回の診察では人生が楽しくない舌をしているよと言われたけれども、次回は少しは楽しんでいるようだねと言われるようになっていたいものである。