昨日出かけた早朝散歩が清々しかったので、今日も目覚ましを5時にセットして早朝散歩に出かけた。
昨日より15分ほど早く外に出るとまだ暗く、それでも散歩をする人はちらほら見かけるものの、明るくならないとだめなのか犬を連れた人はいない。昨日よりやや静かな道のりを私は橋の方へと向かい、昨日と同様日の出を求めて東側に続く土手を歩き始めた。
すると数分して身体が温まって来たのを感じる頃、太陽の面影である薄光が雲の向こうから出てくるのがはっきり感じられるようになった。その後薄赤い光の中心が見えてくると、これを肌で感じるために散歩に出てきたことをひしひしと実感し、私の満足感は頂点に達した。
と同時に、私は昨日と違う柄をした猫、しかし姉妹なのか昨日の猫と似た体型と顔をした猫が土手の下からけもの道を通って上がってこようとするのを見かけた。しかし、私が猫のほうを見て立ち止まると猫は警戒して立ち止まる。私は猫の活動の邪魔をしても悪いと思い、顔を出してくれた太陽を地球の動きを感じながら眺めた。
それにしても、地球が球状で一定方向に回転しているとはこんなにもよくできた話なのか。そしてこのよくできた話も、すべては人類が生まれる前よりあった太陽と地球のおかげなのだから当たり前なのにとおかしく思いながら私は散歩を進めた。すると、向こうからほっそりしたおばあちゃんがなにやら急ぎ足で私の方へと向かってきた。
この物々しい感じはなにかと思ったが、おばあちゃんは私を素通りしてやや進んだところで早足を止めると、猫が上ろうとしていたけもの道の上のほうにゴハンをサラサラっと置いて去っていった。やはり昨日の猫を西側に突き動かしていたのはこのゴハンかと私は合点がいった。そして先ほど見た猫の狙いもゴハンだろうと推測した。
それを確かめるべく、私はおばあちゃんが去った後にけもの道の方へと戻った。すると、やはり猫はゴハンのところに来ようとしていたところだった。私を見るとまた猫は警戒してしまうので私はさっさと立ち去ったものの、太陽と地球の関係に劣らぬ人と猫のいい関係を見た気がして、早起きして良かったと重ねて思った。
早朝散歩を終えて一眠りすると、目覚めた時には散歩の時とは違う晴天が窓の外に広がっていた。一眠りしたもののまだ首の後ろ辺りに寝不足の疲れを感じながら、今日は夫の誕生日なので以前よく行っていた家からさほど遠くないフレンチレストランに夫と共に顔を出した。このレストランで2年ぶりとあるランチだった。
一軒家を改築して夫婦で営んでいるこのレストランは、手頃な値段でコース料理を楽しませてくれるところで、ソムリエをしている奥さんは私たちのことを覚えていてくれて、ずいぶん来ないものだから引越しでもしたのかと思ったと言っていた。クリスマスの時や、そしてつい最近も招待のハガキが家に届いていたのに、ずっとご無沙汰していたのである。
高脂血症を心配して食事制限をしている夫も、この日は解禁日でコース料理を食べ尽くし、ご満悦だった。以前と変わらぬ美味しさに私も満足だった。レストランという仕事を続けているからこその再会に、日の出の頃に太陽と再会するのとは違う人間社会らしさを感じながらフレンチレストランを去ると、私はその夕方に、再び太陽を求めて橋の西側に伸びる土手を散歩した。
川沿いの土手の下ではものものしい台風の爪痕が残っていた。草は風の向きに一斉に倒れ、直径40センチほどの木までが草と同じ方向になぎ倒されて、木の根ごと土から引き剥がされていた。私はその姿に自然の猛威を感じた。と同時に、数メートル離れた地中に根を残して生き延びる別の木の下でヒガンバナが数輪、風で倒されることなくまっすぐに咲いているのが不思議でならなかった。
二日連続の早朝散歩は私の身体に負担なようで、倒れた木を見る頃には私はよれよれだった。そしてその翌日には前々日からの睡眠不足を補うかのように昼まで寝続けることとなり、細くてもたくましく咲くヒガンバナのようにはいかず、早朝散歩を日課にするという私の夢ははやくも消え去った。
それでも私の中では日の出のエネルギーが信仰のようになにか強いものをもたらすことは確固たる事実だった。そしてそれはいつの日か再び私を早朝散歩にトライさせるのだった。