私が思っていたよりもずっとヨシズは快適で、葦の微妙に光を通す並びが竹林にいるような感覚を想起させ、以外に森林浴のようなリラックス効果をもたらすことがわかった。さらに、窓の上部から立て掛けるためか、ヨシズの掛けられた空間が部屋と続いて部屋の一部のように思われるらしく、部屋が広くなったように感じられるのだった。
そんな窓の向こうのヨシズに満足して数日過ごしていると、高幡不動尊のアジサイが見頃を迎えようとしていた。境内にはカメラを携えた参拝客が、レンズがアジサイにぶつかるくらいにカメラを近づけて、撮影に励んでいた。
すでに梅雨入りして空気はジメッとしている。そしてこれから夏を迎えるのだけれども、山内八十八ヶ所巡りの地蔵の頭には真っ赤な毛糸の帽子が被せられ地蔵たちはどこか周りの風景と一線を画し、どんなにアジサイが山を覆うように咲き誇っても、赤い帽子はその隙間から必ず存在をアピールするのだった。
我が家にやってきたヨシズとはまったく正反対の効果をもつように見えるお地蔵さんの頭の真っ赤な帽子は、それでもヨシズから出てくるような優しさがにじみ出ているのだが、それは作り手を思わせるという意味では同じだった。
我が家の猫は最近私から遠ざかり、何が原因なのか分からぬまま私はがっくり気落ちしていた。もしかしたら、毛糸の帽子を縫うような手間暇が足りないのかと、梅雨入りしてからジメッとした空気の中では離れている方が猫も快適だろうと判断しておろそかにしていた、猫を私の布団の上にいちいち連れていってあげるという行為を再会することにした。すると、ぱったりやめていた私の布団で寝るという行為を、なんとも速やかに受け入れ、想像を絶する手足の弛緩したリラックススタイルで寝続けるではないか。
やはり手間暇かけないと猫の心も離れていくものだと思いながら母から送られてきたコゴミを胡麻和えにすべく洗っていると、ハエのような虫が出てきて私の心臓を刺激するのだった。そしてまた一匹、次にまた一匹と。
遥々北海道からやってきたこの虫に故郷の懐かしさを思いながらも、人の移動距離もさることながら、同じく虫の移動距離もすごいものだと、こうして海外からもいろいろな生物が入ってくる実感をかみしめていた。
グローバルなんて言葉は死語になって構わないのにと、やや過激に偏った意見が胸中に湧いてくるのを感じながら、完全に光や風を遮るわけではないヨシズの曖昧さが、単純な作業の栄光の素晴らしさだと思った。隣に並ぶシャープのアクオスより、その出来の素晴らしさに私は感動している。