うっかり窓を開けたままベランダの葦簾の位置をなおした際に部屋の中に侵入したハエほどの大きさの虫を小気味良く追いかけて、放っておいたらいつまでも気づかない虫の居所を私に教えてくれる我家の猫を、年をとってもやはり猫は猫だなあと関心しながら、節電のために車両の電気が消された多摩都市モノレールに揺られて多摩動物公園へと向かった。
先日までの暑さにすっかり身体がついていかず、今日は曇り空で気温も下がり過ごしやすいくらいなのに、汗をかくわけでもないけれども動物園の坂を歩くといささかのどが渇く。身体の調節機能が随分衰えたものだと思いながら、とはいえこの中途半端な気温の中で倒れたくもないと思い、水をがぶ飲みしていつも足を運ぶトラ舎まで緩やかな坂道を上っていった。
そこにはイエネコとは似ても似つかない母トラと母トラの半分くらいの大きさの子トラ二頭が、じゃれ合いながら日中の時間を過ごしていた。トラスペースの前に設けられたベンチに腰を下ろしてじっくりトラたちを見ていると、トラたちは観客を楽しまさせるように優雅に走ったり台に飛び乗ったりするのだけれども、それは我々が勝手に喜んでいるだけなのだろうと思いなおして、トラの優雅な姿と動きに見入っていた。
人の営みとは遠い存在に見えるこのトラたちの動きは、私の脳に普段と違う刺激をもたらし、私にとっては大きな喜びの感覚をもたらした。その喜びの大きさはイエネコとトラのサイズくらいに日常とかけ離れたもので、小旅行に行った気分になった。
しかし、動きすぎて暑くなったのか、母トラはお風呂のようになっている水溜りにザブンと浸かり始めた。そして数分後に水から出たときの動きはさらにシャープで優雅だった。
その後子トラたちも水の中に入りじゃれていたが、トラたちが水で涼み始めた頃には木陰のベンチに座る私の身体も大分熱がとれてきたところだった。
身体が冷えてきたところで見に行ったユキヒョウはトラよりはるかに至近距離で見ることができ、面構えからしてイエネコと違うと、これではうちの猫はやられるぞ、そして私も、と思いながら、ボディと同じくらいの長い尾をもつユキヒョウが右へ左へと歩きまわるのを見ていた。
ユキヒョウの、私の日常にはない刺激をもたらす動きに、トラと同じ感動があるのを感じ、なにがしか自分の中の野生の可能性に気づくのだった。
しかし、鏡に映る自分を見るまでもなく、その辺を歩く親子連れを見て、やはり人間は今更言うまでもないほど運動能力が著しく退化して、この動物たちのなかで檻に囲まれることなく生きて行けるわけがないと実感させられた。
へんてこりんな家を立てて稲作などというものをやりながら、米をネズミの害から守るべく猫と暮らせることが、私の持ちうる最高の喜びのようである。