土曜日の朝九時を過ぎた鶴岡駅は私の滞在したここ三日間では見られない数の、家族連れと思われる大人子供が集まって、その賑わいはさながら団体ツアーの集合場所のようだった。
私は初日のひもじさは別にして、食べ物のおいしい酒田・鶴岡滞在ですっかり胃の限界を超えて食べに食べ、昨晩消化不良で寝付けずに自宅から持参した胃腸薬を祈るように、これ以上胃がガスで膨れないように少量の水とともに胃に流し込むのだった。その時はすでにベッド脇のオレンジ色に光るデジタル時計は夜中の12時をまわっていた。
胃腸薬が効果を発揮するのを電気を消して暗くした部屋で、これ以上苦しさが増さないよう胃が圧迫されないように横を向いたりうつ伏せにならないようにしながら、硬めのホテルのベッドにずっと仰向けで、今後受けるはずとなる卵巣脳腫の手術では丸一日は寝返りも打てずにずっと仰向けで寝たままであることがこのようなものかと、それだけならけっこう慣れていると思いながら、自然に寝付くのを待つのだった。
翌朝起きたときにはやはり胃のむかつきが引き続きあったので再び胃腸薬を飲み、ホテルの朝食でホットコーヒーを二杯とこれから東京に戻るだけのエネルギー源として白パンを二つ食べた。
その後鶴岡駅へ向かうべくホテルを出た。そしてこの団体ツアーのような有様に出くわしたわけである。私はその喧騒に気圧されるように近くの駅の売店で、朝食でホットコーヒーを二杯飲んだにもかかわらず、二時間弱の特急いなほの旅が口さびしいものにならないようにと再びコーヒーを求めるのだった。ところが酒田でもそうだったように、ここ鶴岡でも外気の暑さに備えて冷たいコーヒーしかなく、胃腸の働きが悪くて胃を冷やしたくない私が欲しいとするホットコーヒーはここ駅の売店でもなく買うことを断念することとなった。そこで駅の外に何台も並ぶ自販機コーナーならあるかもしれないと、特急が来るまでまだ15分ほどあったので探しに出てみた。すると三種類ほどホットが用意されていた。肩身の狭いホットドリンクを、まるで鶴岡駅の今日の自分ではないかと重ね合わせてブラックを買い、再び喧騒の駅構内へと戻った。そろそろ改札を入ってホームに行ってもいい頃である。
ホームでは、それまで外にいたどうやら集団ではなく恐らく家族単位のそれぞれ別の小グループが、特急いなほの乗車口の前で列をつくって待っていた。そこでは列車に乗り込む楽しさが近づきより楽しさが増すようで、とりわけ子供たちは騒がしかった。もう小学校にあがっている子供も多いはずだが、しかし子供たちは何をしゃべっているかわからず、その多くの声はワーワーギャーギャーという喜びの雄叫びという名の奇声だった。
そしてその親たちは、特にお母さんは、子供たちに負けない大声でしゃべっているのだった。お父さんとの会話なのか、子供への呼びかけなのか、いずれにしろこちらも記憶に残るものはなく、ただその声の大きさだけが心に残った。
それは特急いなほに乗車後も変わらぬものだった。
鶴岡を出てあつみ温泉を過ぎたあたりから日本海が眺められるのだが、海岸沿いの海に浮かぶ岩には釣りをする中年を過ぎた男たちが、一つの岩にたいてい一人、まるで持ち場が決まっているように陣取って釣り竿をおろしていた。みな無駄な肉のない体つきをし、多くの人は帽子をかぶっているが顔は竿を持つ手と同様日焼けしていた。
この日の日本海の静けさのような釣り人の寡黙さとは打って変わって車内の家族連れの騒々しさは大名行列のような人目をはばからない堂々たるもので、これは都内でもここ山形でも変わらぬものだと気づいた。
それも村上駅で多くの家族連れが下車して、車内は平日に酒田に来るときにそうだったのと同じ静けさを取り戻した。それは窓の外の田園風景に似つかわしく、私はこの環境の方が落ち着くのだった。
その後すっかり沈黙した車内で、岩の上の釣り人はどれだけ魚を持ち帰るのだろうなどと思いながら新潟への到着を待った。
新潟駅に着いたのは午前11時をほんの少し過ぎたところだったので、新潟で数時間を使っても東京の家で待つ我が家の猫とは夕方には十分再会できると思い、東日本ぐるっとバスが一日乗り放題でることを利用して、一旦改札を出て新潟観光に出かけた。
と言っても新潟駅周辺で私が行ってみたかったのは萬代橋だけで、観光案内所でマップをもらって市内の見所を地図上で確認するまで新潟市のことは何も知らなかった。ただ、どれだけマップをくまなく見てあそこもここもと興味を持っても限られた時間からして萬代橋くらいしかまわれないだろうと、迷うことなく目的地に向かい歩くという選択肢を実行し始めた。
新潟駅を万代口から出た地点からのびる東大通りを1キロほど歩くと、川幅の広い信濃川にかかる御影石でつくられたという萬代橋が現れる。地元の人は静岡の人にとっての富士山と同じで、観光できた私とは違いこの橋を特別視する様子はざっと見た限り皆無だった。そしてそれは生活に追われる人にとって確かに当たり前のことだと思った。
しかし、川沿いのベンチではおじちゃんがベンチに背をもたせ掛けて川向こうを眺めていた。他にはジョギングする人も多く見られた。地元の人は当然のこととして気にもしないけれども生活の中に確実に組み込まれているこの光景は、川幅は大分狭いが東京の隅田川に似た趣だった。
この信濃川だけれども、昔は川幅が今の3倍あったというのだから人力で船を漕いでいた時代に信濃川がこの地域を分断するものとして厄介ものだったのはよくわかる。その後技術が進歩して橋が渡され、はじめは有料だったのが、その後利用量の増加と共に無料化され今に至るという。
新潟は人口80万人を超える大きな都市だけれども、萬代橋のかかる信濃川が、昔は時に不便を、そして今は街に落ち着きをもたらしていた。
その後乗車した上越新幹線トキは、往路同様二階建てで、二階の窓側席がすべて埋まっているとのことだったので、一階窓側席を指定した。
一階席は駅のホームから窓の向こうの車内を見下ろせるほど下方に位置し、実際に一階席の窓側に座ってみると、ホームが窓の下側とほぼ同じ位置にきていた。そのまま窓の外を見ると、ホームを歩く人の靴を見る感じである。
これほど一階は低かったのかと一階席を甘く見ていたのもつかの間、さらに酷いことにその後すぐ気づかされることとなった。
新幹線のレールをコンクリートの塀がずっと囲んでいるのであるが、一階席からだと塀の方が高くて田園が広がっているだろう景色も瓦屋根の家々もその向こうの山々も何も見えない。見えるのはくすんだねずみ色の塀と、上空の曇り空だけだった。悪いことをして刑務所にでも入れられた気分に陥るこの新幹線の一階席の旅は、往路で窓側二階席に座った私には思いもよらぬ経験で、塀の高さと一階席の比較などまったく気にしない想像力の欠如ぶりを苦々しく思うのだった。
しかし、長岡駅のホームで目線の高さにホームが位置した時、小さな石ころや埃の玉が方々に散っていることに気づき、我が家の猫はこれくらいの高さで毎日床近くを歩いていることを思うと気の毒に思った。けれどもよく考えればあの猫は、室内に出没するゴキブリを追っかけて仕留めるは夏になると力尽きてベランダに落ちてくる蝉を網戸を突き破って捕りに行くわで、それほど小石や埃にはデリケートではないと思い、ストレスになってないだろうと安心した。
ほんのつかの間見える田園風景や山の稜線をオアシスに思いながら塀に覆われた上越新幹線の旅を終えて、早く家にたどり着くのを楽しみにするのみである。