札幌夏祭りのビアガーデンはベンゾジアゼピン系の薬の断薬を試みている私には無縁のものである。昨日の円山公園からの帰り道でも、大勢の客が賑わうなかを何本ものビールジョッキを手品のように起用に客の元へと運ぶ店員たちとすれ違うように素通りして、雰囲気だけ楽しんだ。
今日の大通り公園は昨日の夜が嘘のように静まりかえり、ベンチにはお年寄りが、一つのベンチに大抵一人ずつ、時折その秩序を壊すように観光客がベンチの空いたスペースに分け入り地図を広げて札幌の街を目で追っているのをよそに腰掛けていた。どの老人も寡黙で、その多くは噴水や花壇を見ているようにも見えるが、実際には空の向こうを覗いているのかもしれない表情を浮かべている。
この、活動が著しく低下した老人たちに比べ、昨日の夜のビアガーデンの若い店員たちの働きぶりは働きアリのようだったと回想し、それにしてもあの店員たちは、客に負けず劣らず楽しそうだったなあと思い返した。店員同士の仲間意識が笑顔を増やす理由なのか、ベンチに座る老人たちは多くが一人のためもあるだろう、笑顔はそうそう見られない。
それが札幌資料館近くの滑り台のようになっている遊具やプールのように水のたまっている遊具のあたりでは、未就学の子供たちがはちきれんばかりの奇声をあげて、そのエネルギーをもてあますように遊んでいた。
私はそこからやや北西に向かって歩くと、知事公館に行き当たった。さらに道路一本はさんで西側には北海道立近代美術館がある。私は美術館の方に用があったのだけれども、大木の向こうの芝生に誘われて知事公館へと足を踏み入れてみた。
そこは誰でも無料で入れ、東京でいうと皇居のようなところだとの印象を受けた。だが、皇居と違い入場客は格段に少なく、平日の今日などは両手で数えられるほどだった。
私はハルニレやスギの木の肌が柔らかくほころぶのが面白く、サクラの木の肌の硬さに花とは似つかわしくない印象を受け、木の葉がふんわり降り積もる足元を楽しんだ。そして、敷地内にある三岸好太郎美術館までは行かずに引き返し、公館の中に入ってみることにした。
昨日に続き今日もなんだかんだと歩いてばかりの私の足は相当に筋疲労を起こしていた。そのため二階へ上る階段もきつかったが、白樺の木をひく馬の置物などがあるのをいかにも北海道らしい部屋だと思いながら、この足では三岸好太郎美術館に寄るのをやめたのが正解だったと考えた。
その後行った本来の目的地である北海道立近代美術館は思いのほか人が多く、それは私が札幌で経験したなかでは一番の人だかりだった。札幌の人がとりわけ美術を愛好する理由を私は知らないし、先月札幌を訪れた際に行ったキタラホールでのクラシック公演では最上階の席は空席だらけだったのを思うと、紫禁城の品々を展示するというこの展覧会が、なぜこれほど人気なのか理由がわからない。
ところが、展示室に入ってすぐのところのパネルを読んで、それが池田大作のあいさつ文であることを知りようやく合点がいった。
展示室内はおばちゃんたちのオンパレードだった。これは東京の国立や都立の美術館でもおなじだけれども、まさか札幌でも経験するとは予想外で気おされもしたし、私がこの人たちの年齢になるにはもうあっという間の期間を過ごすのみだと想像した。東京では都心部の方が私の住む東京西部に比べて放射線数値が高いために都心に出て美術館に行くモチベーションがグンと下がり続けたために、その代わりに札幌で美術館にでも行ってみようと来ただけだったのが、思わぬ展開である。
その後気分を一新しようと東西線で中島公園に行った。先月いた猫たちとできれば再会したいとの思いが私にはあり、私は猫がいたあたり、豊平館の向こうの芝生の方に行ってみた。すると、6匹くらいいた猫が一匹もいない。昼間の暑さを逃れるためにどこか木陰で休んでいるのかとあたりを探してみるが、やはりいない。
徐々に猫の安否が疑わしくなって私の心がざわついてきた頃、一匹のオス猫が私の目の前をゆったりゆったり歩いていった。やはり生きていたかと私は嬉しくなった。そしてその猫が出てきた方を見てみると、もう一匹の猫が妙に威厳のある雰囲気でいきり立つようにしゃがみこんでいるのが確認できた。
顔の雰囲気からいってメス猫に見えるのだが、妙に重々しい。どうしたものかとそばによると、そうだったのか、小さなネズミの亡骸が猫の目の前に横たわっていたのである。猫はそのネズミを誰にもやらんぞとの意気込みで仁王座りし、狩の余韻にひたっているのだった。
私は猫が生きているのを喜んだ直後に猫によるネズミの死を見せられ、この生と死の交錯に戸惑い、生存競争の厳しさを思い知らされるのだった。それでも私は目の前に横たわるネズミの死に少なからずショックを受けながらも、猫が生きていたことが嬉しい生粋の猫好きなのだった。
こうして私の中の数少ない絶対的なものを再確認でき、中島公園まで足を引きずってきて良かったと、ネズミの冥福を祈りながら思った。