昨日の雨が上流から流れてきたようで、浅川の水位はいつもより深く、流れは急だった。それでも対岸にいる若者たちは丸みを帯びた石の敷き詰められた浅瀬を裸足で歩き、小石を川に投げ込んで遊んでいた。
私はいつもより急な流れをしばらく見つめてからおもむろに空を見上げた。まだ灰色がくすぶったような色をしていることにまた雨がくるのかと思ったが、その後視線を再び水の流れに戻した時にはつい先程より川の流れが急に感じて、雨雲のことは忘れてしまった。そして、ここに来る前に茶の間のテレビで見た札幌マラソンで走っていたランナーも、そばで見ればこんなふうに速く見えるもんだろうかと、子供の頃に見た、大会で走るマラソン選手が速くて驚いたことを思い出した。
そんなマラソン選手の面影をよそに、この水の流れを目で追ってみるも、水のかたちはみるみる変わるうえに他の水とも混じり合うのでどの水を追っていたのか数秒でわからなくなる。それでも下流のどこかに流れていくことは確かで、この確信がなにやら勇気らしいものを私にもたらしたようだった。
そういえば、マラソン選手のみならず他のスポーツ選手の活躍を見て、そこから勇気をもらうと人はよく言う。母も澤穂希のシュートシーンを何度も見ては感動したと言っていた。そういう選手たちの動きは水の流れのようにしなやかなのかも知れないと妙に納得すると、川の流れの周囲に生える草むらが目についた。
この草の中にも水は含まれている。上空の雲のなかにもこれから雨をふらせようかと待ち構えるように水はたっぷり含まれている。そして昨日の雨はこうして目の前をどんどんと多摩川へと流れている。私がこの一連のダイナミックなサイクルのなかで生活していることを今更ながら楽しく思っていると、二匹の犬が飼い主のおじさんに連れられて流れのそばにやってきた。
一匹はダックスフンドで、この犬は水が好きらしく、自ら流れの中に入りスイスイ泳ぎ始めた。もう一匹は柴犬で、こちらは川のなかに入るのを躊躇していたところを飼い主に足先でつつき落とされるようにして流れのなかに身を落としていった。水に入ることに好き嫌いがあるようではあるけれども、気温30度の外気のなかで涼を得た犬たちは、草木が根から水を吸い上げるように長い舌ですくうようにして水を飲み始めた。こうして犬の体内にまで水が取り入れられることに、水は世界中をまわっているのだなと、その活動の広さに私は一人感嘆していた。
この川の近くには公園があり、私はその後公園に足を向けて、木陰にヤブランが群生している様子に目をみはった。その極楽浄土への誘いのような紫の集団は他の植物が生える隙を与えないような圧巻ぶりで、私はそのヤブランの意気込みに驚いた。そしてこのみずみずしいヤブランのなかにも犬の体内同様水が取り入れられていくのが、札幌マラソンのランナーたちが汗を流しては給水所で水を得る姿と重なるのだけれども、ヤブランは選手たちとは違って涼しい顔をしていかにも余裕があるように見えた。
それは公園の向こうに建つ家の敷地で、そこの家の猫がゴロンとリラックスして昼寝している姿のように私には見えた。そしてそれは何の変哲もないどこにでもある日常だった。