羽の艶の失せたクロヅルはそのせいもあってか、はじめは私の関心を全く引かなかった。私はそれよりクロヅルの隣のケージにいる、頭から首までの羽が抜けてそこから黒い皮膚をむき出しにした二羽の若いクロドキの、シャキッと立ち尽くす姿に美しさを感じていた。ところが、鳥のケージを一通り見て同じ道を折り返して来るときには、なぜか老いたクロヅルに目が止まり、クロヅルのケージの前にかかる説明を読み、クロドキより完全に羽が抜けきっていない頭から首、そして足の先までをじっくり観察するまでにクロヅルに心は傾いていた。
クロヅルの年は50歳とある。この動物園ではゾウのハナコの次に高齢で、長く生きてきた証のようにくちばしは曲がり、頭から首からボディの羽から、すべて毛羽だったように艶を失って老鶴であることはどこから見てもわかった。しかし、細い木の枝に似たかたちをした二本の足には錨のようなつま先がつながり、海に錨をどっかり下ろして船を固定するように、一本の足先で微動だにせず立ち続ける姿は年齢を感じさせなかった。
しばらくするとツルは一休み終えたようで、程なくして二つの錨を右、左、右、左とゆっくりケージの中の池の底に落としながら、上下の重なりのやや曲がったくちばしを水中に深く入れると、ゴクッ、一息ついてまたゴクッと3度4度にわけて水を飲み込んだ。そしてその合間には白い糞を出し、腰を震わせたかと思うと、それまで水を飲むことに使っていたくちばしを自らの羽の中にもぐらせて毛づくろいを始めるのだった。
私はこのツルの何気ないいつもどおりの営みの姿に、このツルが50歳の老齢であることを感じなくなり、ただ一つ一つの生命活動を続けて生きている姿だけを見いだすようになっていた。それはいたって大人しいものだけれども、すがすがしく生き生きとしていた。私はその後若い二羽のクロドキの前を通り過ぎるのだが、クロヅルの年季の入った営みを見たあとでは、ピカピカでほころび一つ見当たらない羽毛に覆われた二羽のクロドキは、まだまだ青臭くてそこにはまだ生き様のような重みを見出すことができず物足りなさだけを感じた。
その後、行きと帰りで違う印象を持つことになった鳥ゾーンを出て井の頭公園に入ると、朝から降りしきる雨で濡れたベンチは、それでも園内の売店や公園に来るまでに立ち並ぶ総菜屋などで買って来たと思われるランチを手にする人々で埋め尽くされていた。
私は駅に戻る際に、遠回りになるけれども散歩をしたい気分に押されて池の周りを一周してから帰ることにした。足下の土はぬかるみ思わず滑ってしまうのだけれども、そのスリルを楽しいと思うようにさせてくれる優しい木漏れ日があたりを包んでいた。私はこの目にも優しい木漏れ日をもっと浴びたくて日傘を下ろした。ほんのりまぶしい木漏れ日は、どこか老いたクロヅルを彷彿とさせた。