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2011年5月31日火曜日

善光寺

東京駅から長野新幹線あさまに乗って車窓を楽しむこと2時間弱、長野駅に着いた。新幹線は上野、大宮を過ぎると線路沿いに急に水田が広がり始め、その向こうには住宅地が続く。しばらくして今度は畑だなあと思うと、高崎駅があらわれる。

次の安中榛名駅の手前で急に山の中に入り、内陸へ内陸へと向かっていることを実感することとなる。そして長いトンネルを抜けるとスキー場やゴルフ場のある軽井沢に着く。そうかと思うと、山間に水田のある美しい景色をつくる佐久平駅に。次はさらに水田の多い上田でとまり、再び長いトンネルを抜けてようやく終点の長野に着く。

長野駅に着くと、早速善光寺へ向かった。

善光寺駅口に降りて善光寺表参道である中央通りを北上すること1、5キロあまり。ゆるやかな上り坂沿いにはお土産物屋さんやカフェや食事処が軒を連ね、修学旅行生がいくつもの集団をつくって賑やかに歩いていた。

境内に入り、それまで遠くに見えていた仁王門が間近に迫った頃には、辺りは厳かな雰囲気が漂うようになる。それでも修学旅行生たちは騒がしいのだけれども、年配の方々が増え、境内をゆっくり歩いて散り際のサツキを愛でているのだった。

巨大な仁王門の左右をかためる風神雷神の筋骨隆々ぶりを頼もしく思いながら門をくぐると、今度は山門が現れる。高さ20メートルあるこの門内を、今はちょうど見学できるということで、拝観料500円を払ってこの堂々たる桜門に入ってみた。

すると急な階段を上ることとなり、上った先には文殊菩薩騎獅像が安置されていた。この知恵の菩薩に手を合わせた後、三門から境内を眺めてみるのだけれども、長野市街地方面と向こうの山まで見渡せる、素晴らしい景色だった。そして山門の急な階段を注意深く下り、今度は本堂へと向かった。

本堂では、まず外陣で目に付く撫で仏であるびんずる尊者をなでなでしてその神通力にかけ、その後再び拝観料500円を払って内陣へと向かった。

内陣のあのなんともいえない幽玄な雰囲気はなんなのだろうかと上下左右キョロキョロするも、やはり一面幽玄で、随分いいムードなのだった。そのムードのなかでお焼香を終えると、今度は恐るべき戒壇めぐりが待っていた。

お戒壇めぐりは本尊が安置されている下の真っ暗な回廊を通って極楽の錠前なるものを探り当てて本尊と結縁する道場だそうだが、それどころの話ではない。本当に真っ暗で何も見えないなかを、一体何分歩いたのだろうか。たいした距離ではないと思うが、なにせ右も左も前も後ろも見えないので、幽霊屋敷どころの怖さではない。そんな回廊を、右手でなんとか木の壁を伝いながら、怖くてどんどん腰が引けて姿勢が低くなりながら、いつの間にかカバンを身体の前に突き出して前面になにかないか確認しながら、恐る恐る進むのだった。そしてようやく出口の薄明かりが見えたときには極楽の錠前のことなど頭からすっ飛び、安堵感におそわれるのである。

善光寺参りの醍醐味はお朝事などとパンフレットには書かれているが、戒壇めぐりで腰が抜けた私に明日の早朝お朝事に訪れるのは不可能だろうと思われるのだった。

ところで、牛に引かれて善光寺というが、私は何に引かれてこの善光寺にやって来たのかとふと考えた。

私には学生時代に一緒だった長野出身の友人がいる。その友人は現在山形で暮らしていて、東日本大震災の際は一度はライフラインが寸断されるという経験をした。私は大地震の前に、その友人を訪ねようと東北新幹線に乗るべくJR東日本の株主優待券を金券ショップで買っておいたのだが、その数日後震災に見舞われ、その計画が流れることとなった。東北新幹線は不通となりJR東日本の株主優待券はもう金券ショップも買い取ってくれず、山形を訪れることができぬまま有効期限が迫る日々が続いた。私は結局彼女が住む山形ではなく、彼女の故郷の長野を訪れているのだった。その友人が仕事で長野勤務だった頃、一緒に夜な夜な善光寺を訪れたことを思い出す。

いずれ山形も訪れようと思う。
高崎の手前あたり

安中榛名


軽井沢付近

水田の多い上田

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善光寺仁王門

牛に引かれて善光寺

山門

山門からの景色

サツキの咲く善光寺境内

本堂

2011年5月30日月曜日

台風と猫

北海道のオホーツク沿岸の中央部に上湧別という町がある。東京に来るまでの18年間を北海道で過ごした私だが、今日、母が上湧別のチューリップ公園に行ってきたとメールで知らせてくるまで全く知らない町だった。この町はサロマ湖にほど近く、国内でも有数のチューリップの名所とうたわれる100品種以上を揃えたチューリップ公園があり、都内より一月後れて今、チューリップの見頃を迎えているようである。

私がいる東京はというと、私を追い込むかのように異様に早い梅雨入りと台風2号に見舞われ、連日強い雨だった。

雨に打ちひしがれるのを恐れるように家にこもってアスファルトを叩きつける雨を時々眺めては、まだまだやみそうもないとため息をつき、部屋の空気を入れ替えようと窓を開けた。すると、相変わらず我家の猫はベランダに出ようと窓際に歩み寄るも、風の冷たさに気おされたようで、窓辺で立ち尽くしたまま外を眺めることに決め、雨に濡れるのを嫌がるようにそれ以上外ヘは近づかなかった。

猫とは反対に、夫はこの雨に触発されてか近所の市営プールへと運動しに行くと言い始めた。そして数時間して帰ってきた時には、芋の子洗いだったとブツクサ文句を言う始末である。土日はいつも混んでいるものだが、雨でどこにも行けない子供たちがプールに集まったのかも知れない。次いでに夫のようなおじさんも。

私は雨の中を散歩に出かけた。

歩き始めてすぐのところにある橋のたもとでは、50センチほどの段差を茶色く濁った水が勢い良く流れ落ち、深みにはまった水は再び浮上し何度も大きな波を弾ませながら下流へと流れていった。いつもは身近なちょっとした自然としか捉えてなかったこの川も、こうしてみると大自然のただ中に投げ込まれたような感じを抱かせるのだった。

上流からはひっきりなしに空のペットボトルが流れてくる。ここの川原でもそうであるように、川沿いの至る所でバーベキューなどをした際にそのまま放置されたものが、水が増えて流されてきたものだろう。他にも、川の水が茶色いために目立たないが、折れた木の枝がたくさん水に混じっている。中には太い枝もあり、それはさすがに遠目で見る私にもはっきり流れ行くさまが追えるのだが、段差のところで一気に滝壺に吸い込まれたかと思いきや、数秒後に浮上し、水の動きをそのまま体現しながら二度、三度と同じ地点で弾むような動きを見せ、その後は何にも邪魔されることなく下流へと流れていくのだった。

私はさまざまなものが流れ行くさまを珍しく思い好奇心に駆られ、土手から下りてもっと近くで見られるようにと川の流れに近づいて行った。間近で見る流れは遠目で見るのと臨場感の点でそれほど変わるものではなかったが、水の中には本当に多くの枝や葉が含まれていることがよりはっきりと確認できた。そうしているうちに、橋の上になにやら人影がいるのが目に入った。透明のビニール傘をさす仕事帰りのようなスーツを来たおじさんが、歩みを相当に遅くしてこちらを眺めているのである。

そのおじさんは、私が小柄でオレンジ色の派手なジャージの上着を着ていたので子どもが遊んでいるとでも思い、川に落ちるのではないかと心配しているようにも見えた。あるいは、トチ狂った大人が妙な好奇心をもって川を覗いているのを、川に落ちるのではないかと心配しているようにも見えた。私はそのおじさんの様子に素早く反応して川から遠ざかり、土手の上へと戻った。するとおじさんは真っすぐ前に向き直り、普通に歩き始めるのだった。

暴風雨を前に窓際で立ちすくむ猫の行動は、模範的で正しいように思える今日この頃である。

2011年5月28日土曜日

神代植物公園のバラ、北海道のウド

花びらに雨粒をたくさんのせて、神代植物公園のバラたちは満開に咲いていた。花びらはとてもみずみずしく、雨粒は花びらに吸収されることなく楕円形をつくっていた。それも、風が吹いたりやや花びらに手を触れて傾けたりするとさらっと流れゆくのだけれども、それでも半分くらいは残り、バラに光沢を与えていた。

以下神代植物公園のバラ画像。





この中のベンチに座って写真を撮る人は多い





二日前に湯掻いて窓辺で干し始めたヨモギはほぼ乾燥を終え、水を含んでいたときの半分くらいの見た目になった。ウドや菜の芽なども炒めて食べ終えたちょうど今、再び北海道在住の母が山菜を採取し送ってくれた。

ウド、コゴミ、タランボの芽、その他諸々入っていたが、今回最大の目玉はウドである。

つい最近別府でアルゲリッチの公演に行った際、6月5日が誕生日のアルゲリッチが70歳になることを祝って、6月が誕生月である赤いバラ70本をステージ上で主催者から(だと思う)手渡され、抱えきれないほどのバラの束にアルゲリッチの顔が隠れるほどだったが、今回母から送られてきたウドは、それに匹敵する量である。

バラなどの可憐な花ではなく、身体に染み入る山の息吹満載のウドの束を誕生日にもらうのもなかなか粋かもしれない。

2011年5月27日金曜日

バラとハト

去年、神代植物公園のバラ園に来たときも雨で肌寒かったが、今年も小雨がパラつき寒かった。

湿度が高いとバラは強く香るとニュースで聞いたが、去年も雨だったので、バラ園一帯を覆うこの香りは、雨がもたらす湿度のために強いのかは去年と比べてもよくわからない。しかし、その香りは入園直後により強く実感し、次から次へとバラを見て歩くと共に、香りを放つバラのそばでしか香りを実感しなくなる。

品種が豊富であまりに色彩豊かな園全体を見渡そうと、小高いところにあるテラスに移動してみた。すると、はじめは圧巻のバラ園の方方を見渡すも、やがて足下をウロウロする二羽のハトに目が行き、二羽のハトは、何かの拍子に同時に羽ばたいたかと思うと、再び着地して互いにつかず離れずの距離をウロウロしているのだった。そしてその歩みを何の気なく追ってみると、ここのテラスで人間が食べながら落としたと思われるお菓子のクズやパンのクズをついばみ始めるのだった。おかげでその辺りの床はみるみるきれいになり、少なくとも大きめの食べ残しは一掃された。

夫は都心のとある横断歩道を渡っているときに、数ある人の頭の中から、恐らくひときわ大きくて安定感があると判断されたのだと思うが、ハトに踏み台に選ばれ大いに憤慨していたことがあった。また別の際には、ハトにフンを落とされ激高していたこともあった。しかし、ここ神代植物公園のバラ園のテラスでは、ハトは人が散らかしたあとの掃除人となっている。

そんなハトの姿を夫にも見せて、幾多の経験でもつに至った彼のハトへの偏見をぬぐい去ってもらいたかったけれども、残念ながら彼は大阪に、80歳になる知識人を生業とするおじいちゃんをビジネス相手に日帰り出張に出かけた。帰ったらこのことを伝えてあげようと思う。

それにしても、福島原発の真相やら嘘やら本当やらが日々ニュースで流れ続けるなかで、バラ園は北海道か関西にでも行ったような別世界である。

夫は大阪という別世界からお土産にきんつばを買って帰ってくるという。そんな夫は福島原発についての処理に不満爆発の毎日だが、80歳のおじいちゃんとの仕事がその不満を少しでも解消することに結びつくことを期待したい。

2011年5月26日木曜日

ヨモギへの挑戦

山菜と格闘すること数日、今回はヨモギに取り組むことに。

遥か遠く北海道にいる母の指示では、たっぷりのお湯でゆがく、アクが出るので何回か水をかえてしっかり絞った後風通しの良いところで干してカラカラにする、すると何年でももつ、とのことだった。

さあ、私がやるとどうなることやら、、、。

昨日下茹でしすぎて煮崩れしたフキを再度アクを取るために水に浸しておいた、我が家では一番大きな鍋である圧力鍋からフキを取り出し、いつかの調理のために多くを冷凍庫に保存し、すぐ調理する分だけを脇に寄せ、空いた鍋にたっぷりと水を入れてガスコンロにのせ沸騰するのを待ち、沸騰してきたところでヨモギを一気に入れた。

しばらくすると、みるみるうちにお湯が緑色になってくる。それはきれいな透明感のある緑色で、染め物にでも使いたいと思えるものだった。きれいに染まったそんな緑色のお湯を、捨てるのはもったいないと思いながらヨモギをザルにあける。すると同時にメガネを曇らせる湯気を上げながら、緑色のお湯は排水菅へと流れこむ。

海は緑色に見えるけれども実際に汲みとってみると海水は透明なのに比べ、本当に緑色に染まった水というのは、流れ行くさまを見ると、とても貴重に思えた。

次に何度か水を変えてヨモギのアクをとり、しっかり絞った後は、窓が開いて網戸状態になっている窓際に持っていって乾くのを待つべく、新聞紙の上にまんべんなく平にヨモギを並べ始めた。すると、我家の猫がやってきて、最初は私の作業に興味をもって近づいてきたのかと思いきや、こともあろうか、なんと私の目の前で網戸を破ろうと網を鼻でつつき始めるのだった。

私はすかさず猫を抱えて、鼻ピン10連発を食らわせるのだが、猫はそれが致命傷を負わせないどころか大して痛くもないことを長年の経験で学習してしまい、首をすくめてお仕置きが終わるのを甘んじて待ちつつも、決して凝りてはいないのだった。私の部屋の網戸でなければ破っていいものと、いつの頃からか勝手に決めているのであるからしょうがない。

猫の要求に応えるべく私は網戸を開けて猫をベランダに出してあげた。するとごみの日を待つダンボールの束の上に猫は陣取り、頑なに座り込むのである。それはここに居たいという意思表示なのか、外の世界が怖いからしゃがみ込んでしまったのか私には区別がつかなかった。

ベランダで干したほうが風通しがよくてヨモギも早く乾くかと、私はヨモギを携えベランダに出た。そして再び新聞紙を広げて平らにヨモギを並べた。すると、思っていたより風が強くて新聞紙がパタパタとはためくではないか。これではヨモギが乾燥したあかつきにはきっと風に飛ばされてしまうだろうと、再び新聞紙ごとヨモギを部屋の中に戻し、その後はしばしダンボールの上の猫と戯れることにした。

この強い風が猫には気持いいようだった。ところがよくよく観察してみると、ダンボールの端に爪を立てて飛ばされないようにしっかとつかまっているではないか。飛ばされるような軽さでは全くないのだけれども、なにがしか外の世界に不安があるのかもしれない。そしてそれでも部屋の中にはないこの開けた空間が心地いいのかも知れない。

しばらく二人でそんなベランダの世界を楽しみ、揃って部屋に戻ると、網戸の向こうから風が吹いてくるたびに、その手前に平らに並べられたヨモギの青臭い清潔な香りがこちらまでやってきて、春の収穫の喜びをもたらしてくれた。

猫は見向きもしないけれども、海の緑に負けないヨモギの緑は、あれだけアク抜きしてもまだまだ健在なのだった。

2011年5月25日水曜日

続・フキの皮むき

空からは晴天の気配がするも、道路には水溜りが残っていた。数日前に比べて一気に気温が下がったなかで、昨日生のまま皮を剥いてそのかたさに爪が割れるかと思うほどの痛い目にあい途中で断念したフキの皮むきを再開することに。

先日の教訓を生かし、今回は残りのフキをまず塩ゆでした。そしてその後皮を剥くのだけれども、あれだけかたいフキが煮崩れするほどに、下ゆでの段階で長時間茹でてしまって、その後母から、味付けの際は「だし汁を加えて煮ること、煮過ぎも不足も☓、香りよくしゃきっと味よく」とのメールが送られてくるも、すでに煮過ぎて手遅れとなってしまった。昨日嫌というほど味わったフキのかたさに必要以上の警戒心をもってしまい、必要以上に柔らかく煮る結果となった次第である。

実はフキを長々と似ている間に部屋のモップがけをしていたのであるが、我家の猫は、私があっちの部屋もこっちの部屋もとモップをかけていると、やはりここでも参加型の積極性を見せ、自らもダッシュをしたり、爪を勢い良く研いだりと、活発な姿を披露するのだった。しかしその活発さは老体には堪えたようで、その後グーグー寝息をたてることとなる。

猫が寝ている間に、茹で過ぎたフキの皮を剥こうと流れる水道水のなかでフキを手に持ちゴシゴシこすってみる。するとハラハラと皮がめくれ落ちるではないか。そして昨日手にガッチリついて洗っても洗っても取れないフキのアクまでもが、数十本のフキに同じ作業をしているうちに8割がた落ちていった。ずいぶんうまく出来ているものであると関心してしまうほどである。

この後は砂糖と醤油で炒めて食べるつもりだ。

このフキは北海道の某小学校奥で摘んだというもので、同じく某温泉近くで摘んだというコゴミも母から送られてきた。他にもヨモギやルバーブ、ニラ、ネギ、アスパラ、菜の芽、ウドが入っていて、私はアスパラを生のままバリバリ食べながら、フキの失敗はなかったこととして、手始めにとコゴミの胡麻和えをつくった。

フキの失敗を挽回すべく、コゴミの胡麻和えはうまくいった。とはいえ、まだまだ山菜の奥深さを捉えることができていない身である。他の食材もあなどることなく調理にチャレンジしたい。

2011年5月24日火曜日

フキの皮むき

持病が悪化しつつも、北海道の母が送ってくれた水辺でとれたというフキの皮むきを始めた。

北海道のフキといえば足寄町のラワンブキを思い出す。去年の10月にラワンブキのメッカである足寄町を車で通過したとき、人の背丈ほどもあるラワンブキが水辺に群生しているのを見て、野生のご馳走の威力に目を覚まされた記憶がある。そして、地元の人は一日中フキの皮を剥きを続けるという。

私は、ラワンブキよりもっと小さくて細いフキを30本くらい剥いたところで爪がはがれるかと思うほど手が痛くなり、あと半分くらいの束を残したままダウンした。貧弱なものだとの実感だ。

ところが、フキの皮むきを始める前に一度おざなりに読んだ、荷物に同封されていた母の手書きのメモを読んでみると、一度塩ゆでしてから皮を剥くとある。生のまま皮を剥いたからこんなにひどい目にあったのか、、、。残りの半分は塩ゆでしてからと心に決めた。

山菜はアクが強いものが多いが、フキのアクの強さは皮を剥いていてつくづくわかる。みるみる手にアクがこびりつき、指紋のところが黒くテカテカになる。においも色も、石鹸で洗っても洗ってもとれない。何日後にとれるのか見物である。

フキの皮むきを断念してベランダの外に目をやると、近所の家の玄関や庭にはいつの間にかバラが咲き誇って、時にその香りが風にのって私の鼻元までやってくる。

私がバラに気を取られていると、我が家の猫はなんだなんだといつものように好奇心を奮い立たせて自らベランダに出て、参加型の姿勢を積極的に見せてくる。しかしこの猫も、昔は大好きだった紅鮭に14歳の今は全く興味を示さなくなった。以前はテーブルに鮭がのると、必ずそろりそろりと手を伸ばし、爪を食い込ませては引き釣り寄せて、くわえて持って行っては私に鮭を取り上げられ、私は猫の歯型のついた鮭を食べることが日常茶飯事であったのに、今は全く興味なしである。嗅覚が衰えたためか、毎日のゴハンにも、出したての新鮮なゴハンでないと食いつきが今ひとつである。

それでもフキの皮を剥く私を後ろから見守ってくれる力強い味方なのだった。

2011年5月23日月曜日

上空からの景色 大分~羽田

別府から空港行きバスに乗って一時間。晴れ渡る大分空港に着いた。その後私はスカイネットアジアの運航する飛行機に乗り、大分から羽田へと空の旅に出た。その時の画像である。

豊後水道を越えて四国に入ったところ。
宇和島辺りが写っているのではないかと思われる。

徳島上空に来たと思われる。


徳島と淡路島を結ぶ大鳴門橋が見える。

これから紀伊山地へ

渥美半島の先端が見えてきた

ようやく房総半島まで来た模様

房総半島上空を飛ぶスカイネットアジア


飛行中のほとんどの時間を、雲に遮られることなく海や陸地を望むことができた空の旅だった。

東京に戻ってきた翌日、大分に来る前に家の近くの公園のベンチにいた薄い緑色の小さな虫がまだいるか気になり、様子を見に行った。するとあれだけ無数にいたはずの虫たちがすっかりいなくなっているではないか。

いろいろ調べたところ、あの虫たちはアブラムシではないかとの推測がたった。そしてそれが当たっているならば、ものすごい繁殖力らしい。そのため、結局人の手により除去されたようで、今は私の中に、この「除去」という恐ろしい言葉の響きだけが残ることとなった。

2011年5月22日日曜日

別府タワー

別府で宿泊したホテルからは、夜になると燦燦と輝く別府タワーのアサヒビールのネオンがずっと見えていた。竹瓦温泉入浴後まだ時間があったので、距離も近くちょうどいいと別府タワーに行ってみた。

17階の展望所からは、別府市を四方見渡すことができる。私は別府湾の方に設けられたソファに腰を下ろし、しばし海を眺めていた。

左右に陸地が迫り出し湾をつくることとなったこの地形は、この日は波が静かで、近くには白茶色の砂が輝くビーチがある。別府には、私がざっと見たところ、大企業の全国展開しているようなホテルはそうそうない。どちらかというと、古びた温泉旅館やホテルを何とか維持しているように見える。大分第二の都市としてはとても小さく思え、大分が全国的に影が薄いのがわからないでもない。泉質でいえば北海道のお湯の方が好きな私は、アルゲリッチ音楽祭がなければそうそう別府には来なかったと思う。音楽祭の仕掛け役である伊藤京子さんがアルゲリッチを非常に信奉し、並々ならぬ努力でこの音楽祭を開催するに至り、十数年続けていることをありがたく思う。

駅からの大通りを歩いているとショパンの曲が流れていて、さまざまな街の喧騒に紛れてはっきりとは聞こえないものの、恐らくそれはアルゲリッチが演奏しているものだと思うが、私が宿泊したホテルの従業員の方々などは、アルゲリッチ音楽祭に関心などないように見える。ところが公演会場であるビーコンプラザに行ってみると、そんなおばちゃんたちがアルゲリッチTシャツを着てスタッフとして働いていて、別府市民にもそれなりにアルゲリッチが浸透しているのかとも思えた(若いスタッフの方がはるかに多いが)。

東京では考えられないが、ホテルの食堂のおばちゃんなどは、平気で大声で日常会話をしている。地獄めぐりをしていても、そのような本当にのどかな光景がいたるところにある。そして、大分空港行きのバスを待つ北浜バス停の前には、恐らく観光客を拾うためと思われるが、別府の市街地では見たことのないスターバックスがあるのである。全国展開するチェーン店はこのようなところにしかないのが別府の実情である。

私にとってそんな別府の最後を、タワーの上から一望できたのは良い記念になった。また来年アルゲリッチ音楽祭に来て、今回行けなかった別府八湯に入りたいものである。
ビーコンプラザのアルゲリッチの垂れ幕


別府タワー展望所から
南側

こちらは北側

2011年5月21日土曜日

竹瓦温泉

別府八湯の一つである別府温泉を引く竹瓦温泉は別府駅から海方面に向かって歩いて10~15分くらいのところにある市営温泉である。入浴料は100円で、砂湯は1000円だ。

私は今回温泉の方だけ利用させてもらった。

この日も朝起きてホテルの部屋のカーテンを開けた途端に、東京の真夏のようなすさまじい強さの太陽光が顔を突き刺してきて、一瞬顔を背けるほどだったが、東京とは違い、ここ大分では今の季節でもこれが普通なのである。そして3泊してもう慣れてもいいくらいなのだが、私はまだまだのようだ。

この日は午前中のみ観光してそのまま空港に向かうために、大きな重い荷物を背負ってホテルを出ることになった。目的地は先ほど取り上げた竹瓦温泉である。

竹瓦温泉には9時半に到着した。因みにこのあたりの商店街は先日も載せたが猫出没地帯で、今回も4匹ほどおはようの挨拶をさせてもらい、私にとってすがすがしい朝となった。

竹瓦温泉の建物は唐破風造りというもので、古くからの温泉街である別府とはいえさすがにあたりは近代的な建物が建ち並び、この唐破風造りは異彩を放っていると言える。そしてその効果は、この風情のある建物を見ると、自然と中に入って温泉にでもつかっていくかと思えるものなのだ。

靴を脱いで番頭さんに100円払って店内を見渡すと、木で埋め尽くされた天井と床に挟まれ、柱も椅子も机もすべて木で、壁の白は白漆喰ならいいのだけれどなどと、温泉の雰囲気満点の室内に安らぎを得た。そして女湯へと向かった。

女湯には他に一人しか客がいなかった。地元のおばちゃんのようで、石鹸使用禁止とかいてあるのだけれども、旅行で来たの?どこから?石鹸使うなら貸してあげるわよ、東京は地震で大変だったんでしょ、と気さくに話しかけてくれるのだった。そして私がお湯を熱そうにしていると、本当は源泉掛け流しが私は好きなのだが、水をジャンジャン入れてくれる配慮までしてくれた。市民一丸となって観光に力を入れているのか、このおばちゃんがたまたま親切なのか、底知れぬ別府市営温泉である。

そんなおばちゃんもまもなくいなくなり、わりと大きな湯船に私は一人残ることとなった。天井が高く、浴場の内装もロビー同様木目なので、すぐそばに海があることを忘れる山の雰囲気だった。お湯が熱いために結局5分くらいしか入っていなかったのだが、ここまで重い荷物を背負って歩いた疲れは一気に取れて良かった。

観光客は砂湯を多く利用するようである。私が入浴を終えると、外国語を話す若い人ら数名が砂湯から出てきた。そしてその後もやってくる日本人観光客も、やはり砂湯へと行くのだった。そこで私もチャレンジと思ったが、もう湯疲れしているのでやはり断念した。
竹瓦温泉

ちょっと遠くから見る竹瓦温泉

竹瓦温泉近くにいた猫

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2011年5月20日金曜日

アルゲリッチ音楽祭

温泉巡りに明け暮れた感のある由布院・別府散策であるが、今回別府に来た最大の目的は、アルゲリッチ音楽祭のチェンバーオーケストラ・コンサートに行くことである。

そしてようやくその日はやってきた。

会場であるビーコンプラザは別府駅から歩いて別府公園を抜けたところにある。緑豊かなこの公園を歩いていると、おじさんに連れられ散歩している猫が木によじ登り、落ちそうになってニャーニャー鳴いているのに思わず注意を奪われた。まだ子供っぽさの残るその猫はアメリカンショートヘアだと思うが、おじさんは自慢気に懸垂状態に陥ったその猫をあやしていた。そんな光景を後にビーコンプラザに着いたのは18時。もうすでに多くの人がロビーをウロウロして、売店に並んだり、ポスターを眺めたり、椅子にじっと座って開場時間を待っていた。

私は小さい頃自ら好んでピアノを習っていたが、練習に使っていた家のピアノは母が結婚前に幼稚園教諭を務めた際に、最初にもらったボーナスで買ったという代物だった。結局5年くらい習った後にピアノの先生のヒステリーが嫌になって習うのをやめたけれども、おそらく自分が習ったこともあって親しみがあり、今でも楽器の中では特にピアノが好きな私は、なかでもアルゲリッチ贔屓なのだった。

話をコンサートに戻す。

公演が始まり、最初に演奏されたのはB.ブリテンのシンプル・シンフォニーだった。この曲にはピアノ部分がなく、アルゲリッチはまだステージにいない。オーケストラは演奏旅行に慣れきってダレていることがままあるが、ここでもオーケストラはまだまだ肩慣らしといった雰囲気だった。

次の曲はアルゲリッチがピアノを弾くショパンのピアノ協奏曲第一番である。この曲が公演の目玉であるのは言うまでもない。ほぼすべての観客はアルゲリッチ聴きたさに来ているので、アルゲリッチがステージに現れると当然拍手は大きかった。そして彼女の演奏は、彼女の最も素晴らしい演奏だったとは思わないが、十分拍手にこたえるものだった。

先ほどまでのオーケストラの緊張感のなさはどこへ行ったのか。それはまるで主役のない演奏だった。ところがアルゲリッチがステージに現れると、その存在感の重さ、音楽へのストイックさが団員にも十二分に伝わるようで、ようやく本物の演奏が始まった。アルゲリッチのピアノのみならずオーケストラもアルゲリッチに引っ張られて音色にキレが出てきた。そして協奏曲は、ユーリー・バシュメットの指揮が存在しないように感じられるほど、アルゲリッチのものだった。CDではいつも聞いているのだが、こんなに潔くピアノを弾く人を初めて見たと私は思い、それは絶大な喜びとなり、他の観客も大いに感動しているようだった。

私の後ろの席の女性数人組みはアルゲリッチの出番が終わると、公演の後半部分が残っているにもかかわらず、ああ、もう終わっちゃったね~と何度もつぶやきあっていた。しかしそのわりに、ちゃんと後半部分も着席して、ブルッフのコル・ニドライとチャイコフスキーの弦楽セレナードを聴いていた。そして本当に曲目すべての演奏が終わると、本当に終わっちゃったね~、と音楽祭の終焉を惜しんでいた。

アルゲリッチは6月5日に70才の誕生日を迎える。そのために、全演奏が終わってアルゲリッチが再びステージに現れたとき、いつの間に準備されていたのか、上階の観客席の隙間にラッパ奏者が並んでハッピーバースデーの曲を奏で始めた。ステージ上にいるアルゲリッチはびっくりしていたが、実はこの日は私の誕生日だったので、一人別府で過ごす身である私は自分のことのように勝手に喜んでいた(私のためにラッパを吹いてくれたわけではもちろんないが)。

オーケストラは桐朋学園オーケストラにモスクワ・ソロイスツ選抜メンバーが加わったもので、アルゲリッチとの腕の差は雲泥であったが、とても良い思い出となるコンサートだった。

2011年5月19日木曜日

地獄めぐり・続き+鉄輪温泉

先日行けなかった龍巻地獄と血の池地獄に行こうと、朝の9時ごろホテルを出た。やはりこの日も日差しは強く、通りには日傘をさして歩く姿が多数見られた。

龍巻や血の池地獄は日豊本線の亀川駅から歩いて行ける距離とのことで、一時間に1~2本ある各駅停車に乗り、別府から亀川へと向かった。

途中には別府大学駅というのが一駅だけあるのだが、それまで教科書を広げて乗車していた学生さんたちがごそっと降りて行った。そしてその学生たちが座っていたのはバスの一人シートのように座席が一つ一つ分けられているもので、随分豪華な通学ではないかと思った。しかもUVカットガラスである。

海側にかすかに別府湾が見張らせるところを日豊本線は走っている。私が泊まった別府のホテルは駅の目の前にあるため、ひっきりなしに電車の往来の音が聞こえ、夜になって別府湾の方を見渡すと、海と空の境目はなく真っ暗になる。そしてその真っ暗な中に、赤と緑と青の宿を示すネオンが浮き上がっていた。そんな昨日の日没後を思い出しながら、亀川駅を降りて地獄めぐりを再開することに。

駅から歩いて行ける距離とはいえ、緩やかな坂道を日差しを遮るものがないまま25分ほど歩くのはなかなかな体力の消耗だった。そして、地獄まではいたって普通の民家や病院が並び、その向こうには山が迫るだけで、特に目につく面白いものはない。昨日も大分歩いて疲労がたまっているために、思考力は著しく低下し、ただの国道歩きにしか思えない25分となった。

そしてもうこれが続くのは嫌だなあと思った頃、龍巻地獄の看板が見えるのだった。ようやく着いたとホッとして入場すると、ちょうど間欠泉が噴き上がるところだった。ラッキーである。一度噴き上がると30~40分待たなければならないので、私はこの噴き上がる間欠泉を食入るように7分ほど見続けるのだった。

この間欠泉は、まっすぐに勢いよく湧き上がり、それがしばらく続くと(龍巻地獄のは6~10分ほどらしい)それが止むことをにおわせるほどに勢いをやや弱め、一気にとまる。なんだか、こんな一生がいいなあと人生の見本のような噴出だった。

その後すぐ近くにある血の池地獄へと移ることに。

血の池地獄は「血」というだけあって、赤い粘土が煮えたぎった池がある。それは蒸気までが赤みを帯びていて一見恐ろしいさまではあるが、この温泉成分は皮膚の病気に効くという。

私はここの足湯にしばらくつかって亀川駅から歩いた足の疲れを癒したが、別府で初の酸性の湯は足をすっきりさせてくれたと思う。

地獄めぐりをするほとんどの観光客は団体かカップルで、一人で歩いているのは私以外ほとんどいない。先日、どこの地獄でのことだったか、受付に誰もおらず、仕方ないので勝手に入って店員さんを探していると、向こうから作業着を着た男性が歩いてきた。私が切符を差し出すと、ごめんなさいね、どこからいらしたの、お一人?(私)はい、一人です、東京から来ました、と言うと、そう、東京の人って感じよと、オネエ言葉で話しかけられるのだった。東京の人って感じって、どんな感じなんだろうと、この言葉に少々悩まされてしまった。

ところがである、夫のお母さんという人は一人旅ができない(できないわけないのだが、ラジカセ犬状態で、できないと思い込んでいる)とよく言っていることを思い出すと、一人旅は珍しく、団体観光客の光景は特に地方では当たり前なのかもしれない。私が道内で高校生だったとき、同級生で東京からやって来た人が、マックなどに一人で入店するとジロジロ見られて驚いたと話してくれたことがあった。今はさすがに私が故郷に帰って一人で入店してもそんなことはないが、20年くらい前は、数十万の人口を抱える中核都市であるにもかかわらず、とてつもない村社会の色をもっていたのだ。そしてそれはあながち過去形ではないのかもしれない。

由布院も別府も、観光客がよく通るところは外交的で明るいが、二つ三つ通りを違えると、地元感あふれる人間関係が見えるような日常が繰り広げられている空間になる。そこでは後期高齢者でなければ独り身の人などいないような空間で、独特の同調圧力を感じる。自律より協調性、活発であることより忍耐が求められる世界だ。その圧力は、時に安心感でもあるのだろう。

たまに通りに現れるおじさんやおばさんたちはよほど朗らかか、さもなければドストエフスキーの小説に出てくるような表情も思考も固まった様子で、狭苦しい世間ですっかり意固地になったと思える人も珍しくない。そしてこれと同じような世間で生きる夫の母は、村社会の不文律に反すると「生きていけへん」と頑なに主張する。そしてそう言いながらも60過ぎまで生きているのだった。

いろいろあったが(特別なことはなにもない)なにはともあれ無事別府地獄めぐりが終了した。別府は山から海にかけてある街で、どこを歩くにもある程度の坂道は覚悟せねばならない。そのため思った通り足が筋肉痛になったが、海と山のある眺めは私が最も好きな風景の一つなので、歩ける限りまた歩こうと思う。

龍巻地獄の間欠泉
つつじ庭園がある

血の池地獄

その後、血の池地獄から路線バスで鉄輪へと向かった。

鉄輪には「ジモセン」と呼ばれる共同浴場が多数あり、無料の足湯や蒸湯などもある。先日巡った6地獄の下方に位置する鉄輪温泉エリアに、これまた日差しの強い昼日中に突入した。

バス停の近くの観光案内所には観光客がごった返して、外国人相手に英語を駆使する職員が大変そうだった。隣の足湯と足蒸湯は7割りほど埋まって、私も帰りに足蒸湯なるものに挑戦してみたのだが、あまり効果が感じられず、結局液体の足湯に移動してしまった。

この隣にははじめに見ることとなるジモセンの「上人湯」がある。私はそこを素通りしていでゆ坂を下り、筋湯通りに入って「すじ湯」に入った。パンフレットに源泉かけ流しとあったのでここに決めた次第である。

すじ湯には二人の地元のおばあちゃんがいた。私が観光客であることを人目で察知したおばあちゃんは、熱ければあそこの水を足すといいよ、でも今ちょうど良い湯だよ、と教えてくれた。その後長寿について語り合っているらしい二人が出て行き、私は一人湯船を独占することとなりのびのび浸からせてもらった。入る前に賽銭箱に100円入れて入る温泉は都会にはない風情だった。

一風呂浴びて疲れも癒えたところで、今度は鉄輪銀座通りからいでゆ通りに出た。そして鉄輪銀座は猫銀座でもあることに気づくこととなった。なにかとご近所トラブルになる猫や犬であるが、ここ鉄輪銀座の猫たちは程よく私を警戒し、ほどよくリラックスしているようだった。その余裕のさまは、ほどよく温泉にもつかっている効果なのかもしれない。

平日ということもあり、観光案内所付近以外はそれほど混んでいない鉄輪界隈。外国人観光客が来てくれることが私の故郷である北海道にとってもとても重要なことなのだが、福島原発が爆破して以降、別府でも外国人観光客は少なくなって困っているのではないかと危惧するものがある。

日本で暮らす日本人にとって福島や東京から北海道や九州は、ほとんど原発の脅威を感じることのない距離とされるのだけれども、外国の人にとっては十羽一からげに「日本」であるようだ。厳しい現実である。

それでも至るところにポスターが貼ってあるアルゲリッチ音楽祭の総裁であるアルゲリッチ本人は5月8日に別府入りしたそうで、一安心だ。東京でのイベントはキャンセルしたそうだが、大分には来ている。

別府には、別府八湯と言われるように八ヶ所の温泉郷が集まっているが、今回は別府温泉と鉄輪温泉しか行けなかった(しかも別府温泉はホテルの大浴場)。他の温泉郷もいずれまわってみたいと思う海と山に挟まれた別府である。

鉄輪の猫

こちらも

三毛ちゃんも参戦

そして去っていく

またまた猫

すじ湯

こんな湯船

2011年5月18日水曜日

別府の地獄たち

別府に昼ごろ着いて、午後は地獄めぐりをすることに。

別府の地獄たちは駅からバスで30分くらい北西に行った山側に密集している。と言っても、私がこの日行けたのは6つの地獄で、他の2つの地獄は数キロ離れたところにある。

私はかまど、鬼山、白池、山、鬼石坊主、海地獄の順にまわったのだが、いずれの地獄も観光客が楽しめるように趣向をこらしている。

私はかまど地獄で足湯につかり、鬼山地獄のワニに恐れおののき、白池地獄の熱帯魚のトロピカルさに憧れ、山地獄の動物たち、特に日本で唯一年中温泉につかっているというカバをうらやましく思い、鬼石地獄の沸騰する泥には恐怖におびえ、海地獄の庭園美を喜んだ。

地獄で飼育されている南国の動物たちは寒さに弱いために、温泉熱を利用して暖かい環境がつくられているという。我が家の東京の部屋も温めて欲しいものだ。

とてもコンパクトに位置しているので、この6つだけなら早足だけれども半日でまわることができた。

かまど地獄
すごい湯気
この地獄には飲泉所があったが、
100度近い熱湯はまったく飲めたものではなかった

鬼山地獄


こんな色のところも

鬼山地獄のワニ
本当に怖かった


白池地獄

山地獄のフラミンゴたち

気難しいサル

山地獄

花嫁衣裳のように羽を引きずる孔雀

露天につかるカバ

鬼石坊主地獄


庭園美のある海地獄

コバルトブルー


熱帯性のハス

海地獄からの池