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2011年6月30日木曜日

棍棒か刀か

暑い最中、ガラガラの電車に乗り込みオペラシティにあるIççに行ってみるも、休館中でがっくりし、それならばとオペラシティから歩いて5分ほどの住宅地にひっそり位置する刀剣博物館に行ってみた。

ここには大戦後、駐留軍に没収されずに済んだ日本刀の数々が収蔵されているのだが、今は現在日本各地でつくられている日本刀が展示されていた。因みに、日本刀の保存には先日酒田市に行った際に立ち寄った本間家の一人である本間順治氏も大きく関わったらしく、入り口のところに像が建てられている。本間美術館以外にもこの家の人々はいろいろやっているようだ。

入館して二階に上がると、日本刀の新作が展示ケースの中でキラキラ輝いていた。鉄の美術品というにふさわしいこの美しさは、その刃文がとりわけ目立ち、しかしその武器としての意味合いや切れ味を思うとやはり絵画のように楽しく見ているわけにもいかない気分になり、私は金持ちの家で虎の剥製を見るのと同じような心境になっていった。

マッチョな日本の美術に浸った後博物館を出ると、まだ16時前だというのに辺りはすっかり薄暗く、その原因をつくっている雲からは小雨が降ってきた。おかげで初台に来るときの猛暑はややおさまり、私の帰宅は少なからず楽なものとなった。

通りでは、太陽にすっかり水分を奪われた枯れかかったアジサイがちらほら見られ、アジサイには酷な暑さだと思った。そしてそれは人にも堪える暑さのはずなのに、それでもオペラシティの前の交差点で交通整理を続ける警官がとてもタフに見えるのだった。

刀ではないが、棍棒をさしているだけのことはある。

2011年6月29日水曜日

中国とペスト

コンクリートやアスファルトは雨などで放射性物質が洗い流されやすいが、草むらや茂みなどにはそのまま残ってしまう。この悲しい事実のために、福島原発から放射性物質がばら撒かれるまでは私が都内で数少ない楽しみの一つにしていた大名庭園を含めた公園めぐりが、すっかりよそよそしく縁遠いものとなってしまった。しかしそこまで放射性物質を気にしていない人の方がはるかに多いようで、花見や芝生でのごろ寝を楽しむ姿を方々の公園を横切る際にしばしば目にするも、その光景自体も遠い存在に感じられることに、大地震後もう30年くらい生きたような感覚に陥りながら、まだ6月だというのに我慢ならない暑さのなかを、新千歳行きの航空券を引き取りに旅行代理店に行くべくすでに太陽の熱を含んで熱い玄関の扉を開けて外に出た。

一日のうちで最も暑いこの時間帯は小学生の下校時間が重なるために、向こうからは小学生のバラバラに歩く波がやって来た。小学生たちもさすがに参ったという顔をしているが、友達同士で歩いている子供らは、それでも人生の楽しい時間を、子猫のじゃれあいのようにピョンピョン跳ねながら、互いに遊びの的となって送っていた。

都内に残された数少ない緑が私の昼寝のベッドとならなくなった今となっては、地方に旅に出るたびに汚染されていない緑がこれまで以上に貴重に感じられありがたみが増すのを、劇的に効果を発揮する新薬と出会ったように喜ぶのだが、新薬が高価で長期間の服用に経済的不安を感じるように、数日も経てば再び東京に戻ることを、家に帰る楽しみと共に、放射性物質のストレスを常に抱える生活が戻ることに不満に近い不安を感じるのだった。とはいっても、さすがにとうの昔にそんなことは覚悟ができているのである。そんな覚悟の元、日傘でなんとか直射日光を遮り、サウナのような大気につつまれ旅行代理店への歩みを続けた。

代理店の人はいつもどおりに忙しそうで、私が抱える不安などまったくもって生活の中にないようだった。10年20年後の発病より今現金を得ることが先決なのだからそれもそのはずである。

私はもっと手軽に放射性物質の恐怖から自分をごまかしだまし続けられると思っていたが、現実には自分が思っているよりよほど強く失われた大地を憂いているようなのである。それでもそこでの生活は実現を続け、それは船旅のように一時的なものならばいいのだけれども、船旅にしては長すぎる年月であることもよくわかっている。そして、たとえこの汚染された土地を離れたところでこの苦痛から完全に開放されることもないこともまたわかっているのである。

そんなたどたどしい人生のなかでも、一息つくために夏の暑さを逃れるべく北国への航空券を買っているくらいだから、旅行代理店に来る途中で出くわした小学生たちにもまだまだ負けない行動力があるのかもしれない。

最近読んだカミュの『ペスト』が大戦後のフランス他各国で受け入れられ求められたように、今の日本ではレディ・ガガが大衆の心を掴んで引き止めてくれるのかと思いながら、代理店内で手続きを待つ椅子の隣に座るおじさんが、ずっと中国語を声に出しながら勉強しているのを聞いていた。このおじさんは、この夏中国脱出を図るのだろうか。

2011年6月25日土曜日

トラとユキヒョウ

うっかり窓を開けたままベランダの葦簾の位置をなおした際に部屋の中に侵入したハエほどの大きさの虫を小気味良く追いかけて、放っておいたらいつまでも気づかない虫の居所を私に教えてくれる我家の猫を、年をとってもやはり猫は猫だなあと関心しながら、節電のために車両の電気が消された多摩都市モノレールに揺られて多摩動物公園へと向かった。

先日までの暑さにすっかり身体がついていかず、今日は曇り空で気温も下がり過ごしやすいくらいなのに、汗をかくわけでもないけれども動物園の坂を歩くといささかのどが渇く。身体の調節機能が随分衰えたものだと思いながら、とはいえこの中途半端な気温の中で倒れたくもないと思い、水をがぶ飲みしていつも足を運ぶトラ舎まで緩やかな坂道を上っていった。

そこにはイエネコとは似ても似つかない母トラと母トラの半分くらいの大きさの子トラ二頭が、じゃれ合いながら日中の時間を過ごしていた。トラスペースの前に設けられたベンチに腰を下ろしてじっくりトラたちを見ていると、トラたちは観客を楽しまさせるように優雅に走ったり台に飛び乗ったりするのだけれども、それは我々が勝手に喜んでいるだけなのだろうと思いなおして、トラの優雅な姿と動きに見入っていた。

人の営みとは遠い存在に見えるこのトラたちの動きは、私の脳に普段と違う刺激をもたらし、私にとっては大きな喜びの感覚をもたらした。その喜びの大きさはイエネコとトラのサイズくらいに日常とかけ離れたもので、小旅行に行った気分になった。

しかし、動きすぎて暑くなったのか、母トラはお風呂のようになっている水溜りにザブンと浸かり始めた。そして数分後に水から出たときの動きはさらにシャープで優雅だった。

その後子トラたちも水の中に入りじゃれていたが、トラたちが水で涼み始めた頃には木陰のベンチに座る私の身体も大分熱がとれてきたところだった。

身体が冷えてきたところで見に行ったユキヒョウはトラよりはるかに至近距離で見ることができ、面構えからしてイエネコと違うと、これではうちの猫はやられるぞ、そして私も、と思いながら、ボディと同じくらいの長い尾をもつユキヒョウが右へ左へと歩きまわるのを見ていた。

ユキヒョウの、私の日常にはない刺激をもたらす動きに、トラと同じ感動があるのを感じ、なにがしか自分の中の野生の可能性に気づくのだった。

しかし、鏡に映る自分を見るまでもなく、その辺を歩く親子連れを見て、やはり人間は今更言うまでもないほど運動能力が著しく退化して、この動物たちのなかで檻に囲まれることなく生きて行けるわけがないと実感させられた。

へんてこりんな家を立てて稲作などというものをやりながら、米をネズミの害から守るべく猫と暮らせることが、私の持ちうる最高の喜びのようである。

2011年6月22日水曜日

葦簾の向こう

酒田鶴岡から新潟を経て4日ぶりに都内の自宅に戻ると、夫の通勤着が長袖シャツから半袖に変わっていて、東京がそんな暑さになっていたことに、夏至が近づいて日が長かった日本海側の稲作風景を思い返した。旅の最中はほとんど外を歩いて名所旧跡を訪れていたので私の顔は日焼け止めを塗っていてもそれなりに日焼けし、手の甲は服が覆っていない部分がすっかり浅黒くなっていた。

我が家の猫は私の日焼けにはまったく興味がなく、私が4泊ほど家を留守にしたことを案の定心底恨んでおり、家に戻った私を見る目がとても険しかった。そして私が留守のあいだは夫が担当していた、好酸球性肉芽腫という病気のために服用しているステロイド剤と漢方薬を飲ませる段に至っては、口に入れてもその都度吐き出すという嫌がらせを10度以上繰り返し、恨みの意志を明確に現すことをやめないのだった。

これでは飲ませられないと、私は一旦断念してまた後で飲ませることにし、荷物の片付けは明日でもいいからと考えて座椅子に座って一息ついて夫を見ると、こちらの方は相変わらず家に置いて行かれた寂しさでまたもや若干太り、それは見てすぐわかる程度のものだった。しかし悪玉コレステロール値を低下させる食生活は変えていないと言い、東電への怒りをブツクサぼやいていた。

東電のおかげで窓の外に立てかけることとなった葦簾は暑くなってきた日差しを程良く遮り、酒田鶴岡へ向かう前より存在のありがたみを十分認識できるほどの効果を発揮し始めた。平和で便利な時代を30年以上生きてきた身からすると、こんな場末感漂う首都東京は長きに渡る不況に追い討ちをかけた真っ暗感があって切ないものだが、幸か不幸か私個人はもともとあまり景気よく生きてきたわけでもないので違和感はあまりない。

なぜ白虎隊が結成されないのかと呪文のように唱える夫を横目で見やり、私も福島の人の大人しさには驚かされていたので、福島原発がもたらした現実の厳しさを考えると、今後何がしか起こってもおかしくはないとふと思った。

我が家の猫が私に向ける怒りを思うとやはり福島の人は大人しいと思いながら、猫にブラッシングを施して冬毛をブラシいっぱいにとってご機嫌がよくなったところで、もう一度猫に薬を飲ませることにチャレンジした。

すると、今度は薬をすんなり飲んだ。機嫌が直ったようだ。機嫌が直らないほどの怒りをもたれることは決してしたくないので、私はこの瞬間いつもホットする。そしてやはり旅は4泊くらいがいいとこだと猫の態度を見て実感したのだった。

知人友人に電力会社の人がいたりして世の中厄介だと思いながら、猫の傍らで、白虎隊の呪文を唱える夫を横に、葦簾の向こうを眺める東京の生活が再び始まった。

2011年6月20日月曜日

猫の目線とトキ一階

土曜日の朝九時を過ぎた鶴岡駅は私の滞在したここ三日間では見られない数の、家族連れと思われる大人子供が集まって、その賑わいはさながら団体ツアーの集合場所のようだった。

私は初日のひもじさは別にして、食べ物のおいしい酒田・鶴岡滞在ですっかり胃の限界を超えて食べに食べ、昨晩消化不良で寝付けずに自宅から持参した胃腸薬を祈るように、これ以上胃がガスで膨れないように少量の水とともに胃に流し込むのだった。その時はすでにベッド脇のオレンジ色に光るデジタル時計は夜中の12時をまわっていた。

胃腸薬が効果を発揮するのを電気を消して暗くした部屋で、これ以上苦しさが増さないよう胃が圧迫されないように横を向いたりうつ伏せにならないようにしながら、硬めのホテルのベッドにずっと仰向けで、今後受けるはずとなる卵巣脳腫の手術では丸一日は寝返りも打てずにずっと仰向けで寝たままであることがこのようなものかと、それだけならけっこう慣れていると思いながら、自然に寝付くのを待つのだった。

翌朝起きたときにはやはり胃のむかつきが引き続きあったので再び胃腸薬を飲み、ホテルの朝食でホットコーヒーを二杯とこれから東京に戻るだけのエネルギー源として白パンを二つ食べた。

その後鶴岡駅へ向かうべくホテルを出た。そしてこの団体ツアーのような有様に出くわしたわけである。私はその喧騒に気圧されるように近くの駅の売店で、朝食でホットコーヒーを二杯飲んだにもかかわらず、二時間弱の特急いなほの旅が口さびしいものにならないようにと再びコーヒーを求めるのだった。ところが酒田でもそうだったように、ここ鶴岡でも外気の暑さに備えて冷たいコーヒーしかなく、胃腸の働きが悪くて胃を冷やしたくない私が欲しいとするホットコーヒーはここ駅の売店でもなく買うことを断念することとなった。そこで駅の外に何台も並ぶ自販機コーナーならあるかもしれないと、特急が来るまでまだ15分ほどあったので探しに出てみた。すると三種類ほどホットが用意されていた。肩身の狭いホットドリンクを、まるで鶴岡駅の今日の自分ではないかと重ね合わせてブラックを買い、再び喧騒の駅構内へと戻った。そろそろ改札を入ってホームに行ってもいい頃である。

ホームでは、それまで外にいたどうやら集団ではなく恐らく家族単位のそれぞれ別の小グループが、特急いなほの乗車口の前で列をつくって待っていた。そこでは列車に乗り込む楽しさが近づきより楽しさが増すようで、とりわけ子供たちは騒がしかった。もう小学校にあがっている子供も多いはずだが、しかし子供たちは何をしゃべっているかわからず、その多くの声はワーワーギャーギャーという喜びの雄叫びという名の奇声だった。

そしてその親たちは、特にお母さんは、子供たちに負けない大声でしゃべっているのだった。お父さんとの会話なのか、子供への呼びかけなのか、いずれにしろこちらも記憶に残るものはなく、ただその声の大きさだけが心に残った。

それは特急いなほに乗車後も変わらぬものだった。

鶴岡を出てあつみ温泉を過ぎたあたりから日本海が眺められるのだが、海岸沿いの海に浮かぶ岩には釣りをする中年を過ぎた男たちが、一つの岩にたいてい一人、まるで持ち場が決まっているように陣取って釣り竿をおろしていた。みな無駄な肉のない体つきをし、多くの人は帽子をかぶっているが顔は竿を持つ手と同様日焼けしていた。

この日の日本海の静けさのような釣り人の寡黙さとは打って変わって車内の家族連れの騒々しさは大名行列のような人目をはばからない堂々たるもので、これは都内でもここ山形でも変わらぬものだと気づいた。

それも村上駅で多くの家族連れが下車して、車内は平日に酒田に来るときにそうだったのと同じ静けさを取り戻した。それは窓の外の田園風景に似つかわしく、私はこの環境の方が落ち着くのだった。

その後すっかり沈黙した車内で、岩の上の釣り人はどれだけ魚を持ち帰るのだろうなどと思いながら新潟への到着を待った。

新潟駅に着いたのは午前11時をほんの少し過ぎたところだったので、新潟で数時間を使っても東京の家で待つ我が家の猫とは夕方には十分再会できると思い、東日本ぐるっとバスが一日乗り放題でることを利用して、一旦改札を出て新潟観光に出かけた。

と言っても新潟駅周辺で私が行ってみたかったのは萬代橋だけで、観光案内所でマップをもらって市内の見所を地図上で確認するまで新潟市のことは何も知らなかった。ただ、どれだけマップをくまなく見てあそこもここもと興味を持っても限られた時間からして萬代橋くらいしかまわれないだろうと、迷うことなく目的地に向かい歩くという選択肢を実行し始めた。

新潟駅を万代口から出た地点からのびる東大通りを1キロほど歩くと、川幅の広い信濃川にかかる御影石でつくられたという萬代橋が現れる。地元の人は静岡の人にとっての富士山と同じで、観光できた私とは違いこの橋を特別視する様子はざっと見た限り皆無だった。そしてそれは生活に追われる人にとって確かに当たり前のことだと思った。

しかし、川沿いのベンチではおじちゃんがベンチに背をもたせ掛けて川向こうを眺めていた。他にはジョギングする人も多く見られた。地元の人は当然のこととして気にもしないけれども生活の中に確実に組み込まれているこの光景は、川幅は大分狭いが東京の隅田川に似た趣だった。

この信濃川だけれども、昔は川幅が今の3倍あったというのだから人力で船を漕いでいた時代に信濃川がこの地域を分断するものとして厄介ものだったのはよくわかる。その後技術が進歩して橋が渡され、はじめは有料だったのが、その後利用量の増加と共に無料化され今に至るという。

新潟は人口80万人を超える大きな都市だけれども、萬代橋のかかる信濃川が、昔は時に不便を、そして今は街に落ち着きをもたらしていた。

その後乗車した上越新幹線トキは、往路同様二階建てで、二階の窓側席がすべて埋まっているとのことだったので、一階窓側席を指定した。

一階席は駅のホームから窓の向こうの車内を見下ろせるほど下方に位置し、実際に一階席の窓側に座ってみると、ホームが窓の下側とほぼ同じ位置にきていた。そのまま窓の外を見ると、ホームを歩く人の靴を見る感じである。

これほど一階は低かったのかと一階席を甘く見ていたのもつかの間、さらに酷いことにその後すぐ気づかされることとなった。

新幹線のレールをコンクリートの塀がずっと囲んでいるのであるが、一階席からだと塀の方が高くて田園が広がっているだろう景色も瓦屋根の家々もその向こうの山々も何も見えない。見えるのはくすんだねずみ色の塀と、上空の曇り空だけだった。悪いことをして刑務所にでも入れられた気分に陥るこの新幹線の一階席の旅は、往路で窓側二階席に座った私には思いもよらぬ経験で、塀の高さと一階席の比較などまったく気にしない想像力の欠如ぶりを苦々しく思うのだった。

しかし、長岡駅のホームで目線の高さにホームが位置した時、小さな石ころや埃の玉が方々に散っていることに気づき、我が家の猫はこれくらいの高さで毎日床近くを歩いていることを思うと気の毒に思った。けれどもよく考えればあの猫は、室内に出没するゴキブリを追っかけて仕留めるは夏になると力尽きてベランダに落ちてくる蝉を網戸を突き破って捕りに行くわで、それほど小石や埃にはデリケートではないと思い、ストレスになってないだろうと安心した。

ほんのつかの間見える田園風景や山の稜線をオアシスに思いながら塀に覆われた上越新幹線の旅を終えて、早く家にたどり着くのを楽しみにするのみである。

2011年6月19日日曜日

鶴岡公園周辺散策・カモの親子

鶴岡公園には庄内藩主だった酒井家を祀る荘内神社があり、時代小説で江戸の頃を描いた鶴岡出身の藤沢周平記念館がその南東隣に、さらに公園を出てやや南東には庄内藩校だった致道館が位置し、なるほど江戸情緒満載と思いきや、致道館をそのまま西に行った公園を出て道路を渡った目の前には慶応義塾大学先端生命科学研究所と東北公益文化大学大学院の、いかにも時代の先を行く研究をしてますよというピカピカのモダンな建物がある。

生命科学研究所ではバイオの、公益文化大学院では社会の公益を実現すべく企業やNGOなどのマネジメント等の研究が行われており、これは教育・研究段階で言えば致道館の舎生にあたると思われるが、時代が移り徂徠学を重んじた当時とは大きな移り変わりである。ところがいかんせん使われる言葉が、藩校では「戦国時代の戦術」だったり教えは孔子だ孟子だだったりで、研究所や大学院では「戦略」だったり「理念」だったりと、姿かたちを変えても求めるところはとても似ている。

そんな新旧の鶴岡に触れ、丙申堂の南の内川沿いに建つ天主堂の黒い聖母マリア像に会いに行った後、もう一度公園内を散歩しようと緑茂る中へと入っていった。すると、先ほどもいたカモの親子が、でもよく見ると先ほどのカモたちとは違うカモの親子が、陸に上がって休んでいた。二羽の子ガモはずっと親ガモの腹の下に隠れ、天敵から身を守っているようだった。親子はひとしきり寝心地を確かめたところで、私が眺めている数分の間にすっかり眠りについた。それでもカラスが飛んできたりと異変があると、親ガモはすぐに目を開いて警戒を怠らないのだが、子ガモたちは安らかに眠り続けている。池では他にも10羽ほどの子ガモがあっちウロウロこっちウロウロと人の子供のように落ち着きなく動き続け、こちらのほうもしばらく眺めていると、二羽の親ガモがどこからか子ガモのいるそばの水面に降り立った。その後はきっと、池の私がいるところとは反対側に行ってしまったようで、どうなったか目で追うことができなかったけれども、目の前の三羽の親子は引き続き、やや無防備にも見えるが大空の元で眠り続けていた。

午後の3時も過ぎると、鶴岡公園には高校の部活動の生徒たちがスクールジャージでランニングに訪れる。彼ら彼女たちは藤沢周平の母校である鶴岡南高校の生徒か、その隣の鶴岡工業高校の生徒だと思われるが、まだまだはちきれんばかりの元気さがあった。

公園の一角にある見頃を迎えたバラ園でも、日差しが弱まった昼下がりには、笑いながらランニングをする高校生ほどには動かなくなった近所のおばあちゃんたちが、憂いの数の皺を表情に浮かべて、何話すわけでもなくベンチに集まってきていた。私がカモに夢中になっていた池のほとりのベンチでもそういえばそうだった。

鶴岡公園は皇居や大阪城公園に比べ人の数は各段に少ないが、地元に根付いているようで、近所の人たちは時間になるとどこからともなく現れ、適当な時間になると家へと帰り、次の日に再び同じ場所で会うのを待つのだった。

日本のどこにでもあるそんな光景がここ鶴岡にもあり、私は初めて来た気がしないような感覚に襲われながら、借りた自転車を返しに鶴岡駅へと戻った。
鶴岡公園のバラ園

研究所・大学院の敷地内にある「百けん濠」という
レストランで食べたランチ
右上のうどんのようなものは麦切りという。
うどんとあまり変わらないが鶴岡ではそう呼ぶらしい。

天主堂

親ガモの下に子ガモが二羽いる

大分落ち着いてきた模様

池にはこんなに子ガモが

親子で眠りについたカモ

2011年6月18日土曜日

鶴岡散策・丙申堂

申年に建てられたことからこの名がついたという丙申堂は旧風間家住宅で、鶴岡公園そばの東側に位置し、ちょっと見渡すと荘内銀行本店の大きな看板が見える。


この日は酒井家が藩主だった鶴岡城の跡地になる鶴岡公園を中心に観光しようと目的を定めて、私は朝一で駅併設の観光案内所で昨日同様無料の観光用自転車を借り、鶴岡公園に行く途中で目に入った丙申堂にひとまず立ち寄ることにした。

門を入るとガイドの方が建物を案内してくれるという。

この丙申堂には藤沢周平原作の映画『蝉しぐれ』の舞台として使われた部屋がある。やはり鶴岡といえばどこへ行っても周平である。入り口から入って奥の方の部屋だったと思うが、そこには映画のワンシーンの写真が飾られていた。江戸時代を描く周平原作の映画らしく、写真には市川染五郎と、あの大根役者で名の通る木村よし乃が和服姿で映っていた。演じる女優が木村よし乃であることをどう思うかと藤沢周平に聞いてみたかったが彼は今は亡き人である。

よし乃はいいとして、風間家は酒田の本間家に次ぐと言われる大商人で、金融業もやっていたのだが、それが市内各地に支店が並ぶ現在の荘内銀行の前身だったとは知らなかった。敷地内からすぐそばには荘内銀行本店の大きな看板が見えるので、ガイドの方も心なしか説明しながら誇らしそうだった。

そして我々は、絶対に上がらなければならないわけではないが、とうとう建物2階部分へと上がることとなった。このような旧商家などでは2階を見学できないことも多いが、ここ旧風間家は御覧なさいと上げてくれる。そして私は旧家独特の急な階段をガイドさんに続いて上るのだが、そこはわりと広い畳の部屋だったと思う。何に使われていたのかは忘れてしまったが、その後このガイドさん、60歳をとうに過ぎていると思われるというのに、急な階段を自分の家のようにスタスタと手すりを頼ることなく下りていくのである。この全身で覚えた家の感覚、きっとこの人は目をつぶっても旧風間家を案内できるだろうと私は確信したのだった。

もう一つある階段の上の部屋は大工部屋だったとか。当時は八畳間に3人の大工が常駐していたという。大工部屋の手前の1階には台所があり、そこは耐震用にトラス状の梁が張り巡らされ、当時としてはとても自慢だったようだ。

この建物の屋根は、恐らく金持ちとはいえ士族ではなく商人だったからっだと思われるが、酒田の鐙屋の屋根と同じく石置屋根で、20年に一度下に敷かれる杉皮も防水シートもすべてとり変えられるとのことである。大量の杉が必要なのだが、昨日上った羽黒山には杉がいっぱいあったなあと思い出した。

丙申堂に来る途中の日枝神社


丙申堂内の、映画『蝉しぐれ』で撮影に使われた部屋

石置屋根

台所
耐震補強のトラス状の梁が名物とか

金庫
よく見えないが、鍵の部分が数字ではなく
「いろはにほへと」になっている

大工部屋への階段

別邸である釈迦堂の庭
ここは以前までは水のある池だったのだが、
地面が割れて水がたまらなくなり(理由を説明されたが忘れた)、
こうして枯山水のようになっている


ここ旧風間家は、戦時中は疎開先として都会の空襲にあう人々を受け入れていたという。それ以外でも学生の下宿先として提供したりもしたらしい。時代が変わり、小作人を家に呼び集めたり商売相手を宿泊させる必要がなくなると、余った部屋を違った利用の仕方で提供してきたのだ。そし現在はそのあり方を一般公開している。

東日本大震災で被災した方たちも、そんなふうに疎開先を見つけて新たな活路を見出してほしいと思えた旧風間家・丙申堂だった。

2011年6月17日金曜日

藤沢周平の鶴岡

鶴岡にはこの地の出身者である藤沢周平が小説の舞台にしたところが多数ある。そして鶴岡駅の観光案内所にある観光マップには、小説に出てきたところにちゃんと印がついている。実は私は一冊も藤沢周平の小説を読んだことがなく、江戸時代を生きる主人公を描いていたことすら知らない始末だったのだが、夫や母が読んだことがあると聞いていたこともあってせっかく鶴岡に来たのだからと少なからず周平作品に興味をもち、午前中羽黒山を上った後の午後に時間ができたので、まわれる限り無料の観光自転車を借りて周平作品の地めぐりをすることにした。因みに私が行ったところはすべて鶴岡駅より南側の地域である。
般若寺 「凶刀」「用心棒日月抄」

家中新町の菅家庭園「三の丸広場下城どき」

大督寺「義民が駆ける」

龍覚寺「蝉しぐれ」

藩主酒井家の墓地

総穏寺「又蔵の火」

本町二丁目の光明寺「三屋清左衛門残日録」

三雪橋「蝉しぐれ」

大泉橋「秘太刀馬の骨」

三雪橋付近にいた猫

チャーミング


周平の小説ゆかりの地をまわっていて内川の三雪橋を渡っている時、羽黒山から鶴岡駅に戻ってくるバスの車中から道路を走り渡る姿を見かけた白と茶色の猫を、サツキの生垣のなかで見つけることができた。この辺を走っていたはずだと注意深く見回りながら自転車を走らせていたのだけれども、まさか見つけられるとは思わなかった。羽黒山に行くまでに果物屋さんの店先で白黒猫を、そのはるか向こうを突っ走る猫の残像を、そしてもう一匹どこかで猫を見かけたものの、ここまで近くで見られたのは鶴岡では初めてだ。

この猫はとてもかわいくて、内川の川音を聞きながらすっかりくつろいでいる様子だった。私はじゃあねと手を振ってお別れの挨拶をして立ち去った。

各ポイントにはそれぞれの場所がどのシーンで用いられているか、その部分が抜粋されて立て札に載っているのだけれども、藤沢周平がこれほど江戸時代を舞台にした小説を書いていたとは知らなかった。なぜ夫と母は読んだことがあるのかはわからないが、私もこれを機に一度読んでみようかな。

2011年6月16日木曜日

酒田から鶴岡、そして羽黒山へ

酒田から鶴岡への移動には一時間に一本あるかないかの路線バスを利用した。酒田駅からの朝9時台のバスの乗客は10人未満で、その多くは地元の人らしかった。


鄙びた感が最後の最後までぬぐえなかった酒田の駅前を後にしてしばらくすると、ここ二日の酒田滞在では目にすることのなかったお店の看板が続々とあらわれてきた。こちらの方にはいろいろお店があったんだと酒田の現在に安心し、それは自動車販売店だったり牛丼屋だったりなのだが、やはり酒田でも出現したのが超大型ショッピングモールのイオンだった。札幌から旭川までの高速バスが旭川のイオンに停留所を設けているように、ここ酒田のイオンでもやはりバスは停まるのだった。心なしか、イオンに近づくほうが住宅も新しいものが多いように見える。こちら側の方が最近は便利で地元の人には人気があるのかもしれない。

そしてそんなロードサイドを眺めつつ、その後私はほのかに暖かい陽気に負けて、とてつもない睡魔に襲われることとなった。

何分たったのか、眠気をなんとか押し殺して目を開いたときには二つ目のイオンの前だった。イオン三川というところで、大分鶴岡に近づいたと思われる。そしてイオン三川を過ぎてしばらくすると、上越新幹線、羽越本線同様、酒田~鶴岡のバス路線でも水田だけが変わらぬ景色となって常に視界の先に広がることに気づくのだった。

鶴岡駅について最初に向かったのは、出羽三山の一つ羽黒山である。1400年前から山伏が修行をしていたというこの山の方向は、羽越本線から見てもどこか雲の上のこの世のものとは思えない雰囲気があった。私は是非ともそんな山の中に入ってみたいと思い、今度は鶴岡駅から羽黒バスセンター行きのバスに乗った。

道路をまたぐ朱色の大鳥居をバスが通過するとまもなく、いくつもの宿坊が並ぶ宿坊街が現れ、羽黒バスセンターに到着となる。私はセンターに設置されたトイレへと行ったのだが、洗面の蛇口をひねったところで蛇口の真横に4センチほどのカエルがいることに気がついた(それまで気づかなかった)。両生類全般を苦手とする私は、他にも客がトイレを使用中なので迷惑をかけないようにと心の中だけでめいっぱいギャーと叫び、私を気にせずピョンピョン小刻みに移動するカエルから急いで目を背けるのだった。こんなところでカエルと会ってしまうなんて、これから登る羽黒山では熊か大蛇か魔物が出るのではないかととてつもなく恐ろしくなった。

しかしせっかく来たのだからと、カエルが遠のくのを見計らって蛇口を戻し、気を取り直して随身門をくぐって2446段あるという石段を一段一段上りはじめた。

まもなく五重塔が、樹齢数百年という杉の巨木のなかに現れた。東北地方で最古といわれるこの五重塔は本当にひっそりとそこにあり、昔からの人々の思いを具現しているように見えた。そして近くには樹齢1000年の「爺杉」が、五重塔よりよほど幅を利かせて羽黒山で生きていた。

先ほどのトイレでのカエル事件の危惧をよそに、45分ほどの石段上りは汗ばんできたところで無事終わった。道のりの途中、杉の木の下のほうには枝がのびず、そのため葉が茂ることもなく、見通しの良い目線の高さを便利だなあと思っていると、隙間をかいくぐって石段に降り注ぐ太陽光が石に反射して私の目を捉え黄泉の国に導くような様子を演出し、気持ちが軽くなってきたところで三神合祭殿にたどり着いた。

この合祭殿は、月山・羽黒山・湯殿山の三神をひとまとめにして祀ったとてつもなく大きな社殿で、三山に行かなくても一度でお参りでき、ややお得感があるのだった。特に私は羽黒山にしか来る予定がなかったのでありがたかった。きっと昔から私のような人がたくさんいて、この三神合祭殿ができたと思えてならないのだが本当のところはわからない。そして、この大社殿で一目見て驚くのが屋根で、茅葺の厚さが2,1メートルもある。やはり三神を守るにはこれくらいどっしりと分厚い屋根でないとだめなのだろう。

屋根に関心した後、私は社殿の階段を上りそれぞれに設置された賽銭箱の前で三神それぞれに厚く厚く手をあわせて参拝を終えた。ちょうど12時を過ぎたところである。そして今度は羽黒山頂の停留所からバスにて鶴岡駅へと向かった。

石段を上って社殿にいた頃はたいして疲れていないと感じていたのが、バスに乗ってしばらくするとどっと疲れが出てきた。これでは午後動けなくなるぞと思い、駅についてすぐに、ネットで評判の良かった駅近くのレストラン「ジールファスト」にてランチを食べた。味よし値段よしのいいお店だったことに生き返った思いだった。
酒田港の夕日

随身門

こうして小さな社殿がいっぱい並ぶ

滝の音が聞こえる

滝の近くに行くと雨のよう

滝から石段の方の眺め

五重塔

こうして石段は続く

途中に咲く花

ようやく鳥居が見えた

三神合祭殿

中はこう

道路にかかる大鳥居

ジールファストで食べたランチ

2011年6月15日水曜日

酒田散策

酒田市では、ホテルなど市内のあちこちで9時からレンタサイクルを無料で貸し出してくれる。私は駅併設の観光案内所で9時ぴったりに自転車を借り、早速酒田散策を開始した。都内に比べて日差しは弱いというものの、自動空調の宿泊したホテルの部屋が昨晩寒かったために、ポカポカの日向の道を走るのはなにかホッとするものがあった。やはり安いホテルを選ぶと大抵空調が使いものにならないか、ドライヤーがフロントで借りないとない(それでもめげずに私はできるだけ安上がりの一人旅にチャレンジするつもりだが。でも年をとって身体が限界かも)これなら寒さに震えることなく冷え性の私でも観光を楽しめるだろうと心意気を強く自転車をこぎ始めることとなった。

酒田といえば殿様よりも偉かった本間家である。私がここ酒田に来た主な理由も本間家がどのようなものだったかを少しでも感じようとの動機だった。本間家は北海道の増毛でも支店、いや分家が商売をして北前船の頃は大繁栄したのだった。口減らしのために何男だったか忘れたけれども私の故郷北海道の地にもやって来ていた増毛の本間家を、去年だったと思うが私は母と訪ねた。そこはここ酒田と同じく少し前までは本間家の人が暮らしていたのだが、今は観光用に一般公開している。とても立派な、お金の限りを尽くしたつくりだったことを覚えている。

そんな北海道での記憶が蘇ったところで、私が酒田で最初に向かったのは駅からほど近くにある本間美術館である。美術品は都内でも色々見る機会があると思い展示室には入らなかったけれども、ちょっと覗き見た庭園の方は確かに趣向を凝らした立派なものだった。東京でいえば旧古河邸ほどの規模だろうか。私は誰もいない庭園入り口からこそっと入って別荘建築を遠めで見てパパッと庭園内を眺めただけなのではっきりしたことは言えないが、当然金持ちだったことは伺えた。これが江戸の当時日本一の大地主だったという本間家の別荘か、、、と思いながら、次なる目的地へと向かった。

日差しの温もりをありがたく感じながら次に行ったのが本間家の菩提寺である浄福寺である。250年前につくられたというここの唐門は一見の価値ありで、流れるような木彫り模様が美しかった。本堂はとても静かでどっしりと落ち着いた佇まいで、こちらも風情があり私は好きだった。そしてここで酒田初となる猫との出会いに恵まれることとなった。

ところがこの猫、私がカメラを向ける目の前で芝生にマーキングを始めるというつわものぶりを披露するのだった。もしやこの猫は本間家で飼われていた猫の末裔で、だから私ごときがカメラを向けたところで萎縮などせず堂々と縄張りを誇示するマーキングを平気でするのかとも思った。そしてそれはあながち嘘ではないのかもしれない(作り話である)。
浄福寺本堂

境内でマーキングする猫


唐門

その後浄福寺を去り、浄福寺の後ろ側に建つ泉流寺へと向かった。このお寺は名前からも察しが着くとおり、奥州平泉と関わりのあるお寺である。平泉滅亡の際、秀衡の妹徳の前、あるいは後室泉の方が酒田に落ちのび、尼となって泉流庵を建てたのが始まりとか。そのためか、とても女性的で優しい雰囲気の本堂だった。

因みに泉流寺の手前で廃屋の前にて昼寝を始める白猫を発見した。私はすかさず自転車をとめ、カメラを向けたが、猫は一息つく思いを断念して逃げの体制に入った。私は昼寝の邪魔をしてこれはすまないことをしたとすぐにその場を立ち去ることにした。すると猫は安心してか、再び眠りに入っていった。猫の習性から当たり前とはいえ、本当に私のことが邪魔なようだったのがショックである。
泉流寺

瓦礫の中に猫

近づくと逃げる

その後兄弟猫と思われる3匹の猫発見

そんな三匹を撮っている私を間近で見ている猫
私はとても驚いた

すると近くにまた猫が

呼ぶと「何?」とちら見

気を取り直して寺町界隈を自転車で走っていると、ほどなくして相馬楼を横切ることになる。ここは休館日だったので外から眺めて終わることとなったが、そんな相馬桜の塀の外に突っ立って建物を眺める私の足元を、捨てる神あれば拾う神ありで、グレーの猫が人懐っこさそうに通り過ぎるではないか。酒田は本間家の本拠地であるばかりでなく猫の宝庫でもあるようだ。この猫は触っても逃げることなく甘えん坊で、私が背中をツンツンした後停まっている車の下に入って毛づくろいを始めた。
相馬桜の前を走る猫

車のしたへ

寺町散策はまだまだ続く。次は海向寺へ行った。石段を上った先にある高台の海向寺は即身仏で有名なお寺である。湯殿山での厳しい修行を経てミイラとなった忠海上人と円明海上人の二人の即身仏が祀られているのだ。即身仏も興味深いが、私は本堂の隣にある婦人病にご利益があるという菩薩にみっちりと手をあわせて卵巣脳腫の手術がうまくいきますようにと祈ってきた。
海向寺

即身仏の安置されているところ


光丘文庫付近から見る酒田市


日枝神社

その後は市街地エリアに入って光丘文庫へ。
その後寄った光丘文庫は本間家の人がつくったのだが、現在は市立になっており、閲覧室では地元の人らしきおじいちゃんが3人いて、そのうちの一人は虫眼鏡片手に古文書を熱心に読みあさっていた。私も年を取ったら故郷か今住んでいるところの歴史や自然などについて、虫眼鏡をもちながら老眼をおして研究したいと思う。


光丘文庫の隣は日枝神社で、海側に歩くと日和山公園が山の斜面を利用して広がっている。ここからは日本海に面して建つ風力発電の風車がよく見え、原発から出る放射能よりよほどマシな低周波を出しているのだった。そのような実害はよそに、風車は風に押されてゆっくりゆっくりまわるのだった。そしてその光景はとてものんびりしたものだった。

その後昼時になったために、酒田港の方まで降りて、さかた海鮮市場に入った。ここの1階では鮮魚や野菜が売られ、2階は食事どころになっている。お店に入ったのが12時頃で、15分ほど一階の粋の良い鮮魚に見とれているうちに、先ほどまでは誰もいなかった二階への階段に、いつの間にか長蛇の列ができているのだった。客の整列を取り仕切っている店員さんにどれくらい待ちますかと聞いたところ、35分くらいですと言う。他にこの辺に食べるところはありますかと聞くと、隣にあるんですけど今日は休業日ですのでうちしかないんですと申し訳なさそうに言う。要するに今日は客を独占できる日だったのだ。港の方や市街地へ行けば、昨晩ひもじい思いをした駅前より何か食べるところがあると思って期待していたら、なんのなんの決してそんなことはないのだった。そして結局40分ほど並んでようやく王様の海鮮丼なるものを注文した。

甘エビがとにかくおいしかった。たっぷりのイクラもイケる。私が酒田で待っていたのはこの味だったことを思い出させてくれる海鮮丼だった。そして私の心はやや落ち着きを取り戻すのだった。


満腹になったところで港沿いにのびる緑地公園を自転車で走ってみることにした。向かい風の潮風が強くペダルが重く感じられたが、昼時の日光は暖かくて気持ちよかった。すると、ここでも猫発見である。白い猫が、向こうから走ってくるではないか。これは私に近づいてきたのかと喜んで自転車を止めると、なにやら猫は警戒をはじめるのだった。やはりそうだったかと残念に思いつつも、ニャンちゃん、と猫なで声で呼んでみるも、草むらの中へ隠れて無視。その後猫はどこへ行ったかと草むらを探す私を驚かせるように、猫は茂みから飛び跳ねて芝の勾配を上り、私の追いつけない速さで走り去っていた。
王様の海鮮丼

酒田港緑地の猫

草むらへ

港に猫はつきものである。そそくさと逃げては行かれたものの、酒田港でも猫と会えて良かった。

午後は庄内米の倉庫として活躍してきた山居倉庫に行った。この倉庫は現在でも農業倉庫として活躍中で、倉庫の並ぶ一角は資料館になっている。展示資料の中で、この倉庫に米俵を持ってくる女性の姿が描かれていたが、30キロも60キロもある米俵を運んでくるのは主に女性の仕事だったらしく、当時の庄内の女性は力持ちだったとか。そして米俵かつぎ大会なるものなどもあったらしく、300キロの米を背負った人もいたという。オリンピックなどがなかった時代でも、人は腕比べを怠らなかったようである。旅先で5キロほどのリュックを背負って根をあげる私には無縁の話だが、そんな潜在力があるのかと思うと勇気がわく(細胞が深い眠りについているので目覚めることはないだろうが)。30キロと60キロの米をかつぐ体験コーナーもあったが、私はぎっくり腰や方々の関節痛を恐れて挑戦はやめておいた。

米どころ庄内を満喫したところで次は旧鐙屋という廻船問屋に行った。ここの建物で特徴的なのは、石置杉皮葺屋根という石の並べられた屋根である。階級制度が厳しかったためにどんなに金持ちでも瓦屋根にはできなかったそうである。この屋根の石はただ置かれているだけだそうだが、最近の東日本大震災の震度5の地震も含めて、一度も落ちたことがないのだそうだ。なお、鐙屋のことは井原西鶴の「日本永代蔵」にしるされている。

山居倉庫

午後も深まってきたところで、ようやく最後に来たのが本間家旧本邸である。本間家本間家と思いながら何かと本間家にゆかりのあるところをまわってきて、最後に本邸にやってきた。増毛の本間家を訪ねて以降、山形の本間家本邸はどうだろうといろいろ考える日々が一年続いたものの、その感想はいかに。

ところが想像に反して、口減らし目的で増毛に放り出された本間さんの家の方がどうしても立派に見える。どうしたものかと思ったら、増毛は明治に建てられたここ100年くらいの建築で、酒田は江戸時代からの建築がそのまま残っているという古いしろものだったのだ。どおりで大地主と言われる割には質素な家だと思った。江戸時代の建築のために、入り口付近が武家屋敷造りで奥が商家つくりという士族の階級を得た商人である酒田の本間家ならではの珍しいつくりなのだった。

増毛の本間家は、そんな酒田の本家に負けねーぞーとの意地を持ったか、とにかく近代の技術の粋を集めた豪華さがあった。そして増毛ではホンマブレンドなるコーヒーを無料でお出しいただいた。しかし、ここ酒田ではそのようなサービスはない。今のところ、コーヒーサービス有りの増毛のほうが、観光としては上をいっていると私は思う。酒田の本間家も今後頑張ってほしい。

とにもかくにも、江戸時代からずっと本間家がこの一体を取り仕切っていたことがよくわかる酒田散策だった。

本間家本邸

酒田での目的がようやく終わり、ホテルへ戻ることに。すると、信号待ちをしている私の、道路を挟んだ目の前に、白猫を見つけたではないか。これは午前中に泉流寺近くで見た猫とそっくり、いや同じ猫かと思った。でもまさか、猫のテリトリーとしては本間家本邸から泉流寺はいくらなんでも広すぎると思い、信号が青になるのを待って白猫ちゃんに近づいてみた。すると、私がそばに行くそぶりを見せただけで逃げていった泉流寺近くの猫とは違い、この猫はゴロンとアスファルトに寝転んで撫でなはれというオーラを放つのだった。私はちょこっとなでて自転車や車や人にも気をつけなさいねと言い残し、やはり酒田は本間家の本拠地であるのみならず、猫の巣窟でもあると深く実感した。

それにしても、酒田の市街地を自転車で走れど走れど飲食店もそれ以外のお店も軒並みシャッターが下りていて、この町の存続は大丈夫かと心配になった。この状態は震災前の不況から始まっていたもの思われるが、ここまで閉まっているのは他では夕張くらいしか私は見たことがない。山形は今の季節さくらんぼ狩りが盛んだが、お店が開いていると思うと大抵果物屋さんである。私は市内で何軒もの果物屋さんが営業しているのを目にしたけれども、それ以外だとパチンコかカラオケかコンビニくらいしか営業しているのを見なかった。

近隣に限界集落が増えれば人口は酒田や鶴岡に流れてくると思う。その時酒田はどうなっているか、再び訪れてみたい。
横断歩道の向こうに猫

こうして近づいても逃げない

ゴロン