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2011年4月30日土曜日

鴨川散策・下賀茂神社

地下鉄の三条京阪から地上に出ると鴨川が流れている。すぐ近くを走る国道一号線は東京の日本橋まで続いて、国道一号線の始点になっていると夫が教えてくれた。

川岸の遊歩道に下りると、サイクリングやランニングをする人、散歩する観光客が多数この遊歩道を利用していた。鴨川の流れ自体は緩やかだが、いろいろな川からの水が注がれるために、その注ぎ口となっているところの近くでは滝のような音が響いている。

その水音にすっかり注意を奪われていると、昨日穴太寺で見たシロサギがこの鴨川にもいることに気づき、こんな市街地にもシロサギがいることに、京都の自然をあなどっていたことを反省しながら下賀茂神社へと北上した。

歩いていると、京都独特の朝夕の底冷えで冷えていたからだが徐々に温まり、菜の花が咲いてヤマブキの橙色が鮮やかな鴨川沿いの風景を楽しむ余裕が出てきた。そして、嬉しいときも悲しいときも、ここはどんなときでも自分のペースでゆったり過ごせるところだと思えるとの感想を持った。
鴨川に咲くヤマブキ

鴨川

鴨川から川原町通りに出るとカフェがいっぱいある。なぜここにこれほどカフェがあるのかはわからないが、とにかくいっぱいある。その中で、私たちは通りの裏道にある鴨川カフェなるところに入った。そこは広々としたスペースに大きなテーブルと椅子が並ぶゆったりしたカフェで、私は本日のランチを注文したが、低価格なわりに食事メニューもなかなかな充実ぶりと思えるものだった。

カフェで栄養補給をしながら一時間ほど過ごし、足の疲れもどうにか取れてきたところで、再び下賀茂神社を目指した。標識によると、あと一キロとある。朝は随分冷え込んだのが、昼を過ぎたこの時間帯にはすっかり春の陽気で、上着を脱いでも汗ばむくらいだった。そしてがんばって歩いたところでようやく下賀茂神社に到着した。

参道である糺の森には、入ってすぐのところに鴨長明に由来する河合神社がある。ブナなどの落葉広葉樹の多いこの森は、木陰が良い具合にできていて、蒸し暑くなってきたところで私はほっと一安心するのだった。ややもすると奈良の小川の御手洗という小川が見え、そこでは参拝客が手を洗っていた。私も石段を降りてみると、とてもきれいな水に驚き、説明書きによると、これは湧き水とのことだった。そしてこの水で私も手を洗ってみるのだが、本当に手がすっきりきれいになって驚いた。
河合神社

奈良の小川の御手洗

さざれ石

その後君が代にうたわれる「さざれ石」を横切り、社殿がお目見えした。ここでは結婚式を終えた人が記念写真を撮っていたり、祈祷の順番を待っている人がいたりと、参拝客も神主たちも忙しそうだった。
下賀茂神社・社殿

下賀茂神社の参拝を終えた後は再び鴨川に戻り、川沿いで一休みすることにした。来るときよりもさらに人が増えた感のある川沿いでは、午前中はあまり見られなかった子供連れのファミリーも多数見られた。ただ、おそらく福島原発によるものだろうが、京都にしては外国人が少ないのがやや寂しい感じだった。それでも地元の人、国内の観光客で賑わう鴨川であり、下賀茂神社だった。

そして猫好きの私にとって最大のうれしい出来事は、やはり鴨川での猫との出会いだった。小柄でスリムなホワイトソックスの縞猫ちゃんは、ゆったりゆったり土手を歩き、平和の象徴のように私の目には映った。

鴨川沿いで見かけた猫

のんびり歩いている

ただ近づくと警戒する


その後足も大分疲れたことだし京都駅に戻ろうと思ったが、せっかくだからと川原町通りを渡って今出川通りを進み、ほどなくして出てくる京都御所に立ち寄ることにした。

立ち寄るといっても、東西700メートル、南北1300メートルあるというこの公園を南北に歩いて地下鉄丸田町駅まで行こうとの予定だった。あと1300メートル歩くのかと思うと非常に億劫に感じられたが、滅多に来ることもないと思うと貧乏症的欲が出てきて意地でも歩ききろうとどこからともなくガッツが湧いてくるのだった。当然そのガッツをもっと必要なときに出せればいいのにと思うのだけれども(たとえば手術の時とか)。

妙な意地だと思いながらも、永遠と続く御所の肌色の壁に瓦屋根は、子供たちはここにボールをぶつけて遊んでよく怒られたりするんやなどと、夫の他愛もない話を聞きながら歩くとなかなか面白い。東京でこれくらい広い公園は、皇居か新宿御苑くらいしかないと思うが、この規模の公園・庭園となると、やはり大名や天皇家でないと無理なのだろうとつくづく思うのだった。そしてそれは当然のように市民に開放され、実際に多くの市民がくつろいでいるのを見ると、こういう権力だったら悪くないとも思えた。

今はボタンザクラがフワフワに咲いてとてもきれいな京都御所である。意地でも1300メートル歩いてよかった、、、。
京都御所のボタンザクラ

2011年4月29日金曜日

穴太寺

京都は亀岡市の田園地帯のなかにポツンと穴太寺はある。私は一キロくらい離れたところから南下しながら穴太寺を目指して歩き始め、澄んだ水の流れる犬飼川を水音を聞きながら橋を渡り、そこからほどなくしてあるこのお寺を訪れた。今の季節は田畑のなかや川沿いに菜の花が咲き、東京では見たことのない鳥を見かけたり、あぜ道では猫を見つけたりと、楽しい一キロの散歩だった。
ものすごく小さくだが真ん中に茶色の猫ちゃんが写っている

亀岡市を囲む山々と菜の花畑

犬飼川

穴太寺は、とても風情のあるお寺で、境内には亀岡とは思えない数の参拝客が入れ替わり立ちかわり訪れていた。

ここの本堂には釈迦如来大涅槃像が安置されて、これはとてもご利益があるとの実感がしみじみと湧く仏像だった。釈迦が涅槃に入った姿で眠っている木像で、この横たわった木像には布団がかけられているのだが、お寺の方の説明だと、自分の身体の悪いところ、そして大切な人の身体の悪いところがあれば、寝そべった釈迦の同じ箇所をなでると良くなりますのでそうしてくださいとのことだった。
本堂

実際に本堂に入って、一番奥にある悟りの境地に至った釈迦の寝姿をみると、うん、これは悪いところを撫でればきっとご利益があるとの確証を得たと思えるほどの見事な仏像で、仏師の腕前に感動し、とてもとても感謝した。そして身体の悪いところをいろいろ撫でていると、ほぼ全身になってしまい、さらに大切な人の悪いところもとなると、完全に全身になり、ありがたやありがたやと思いながら布団をかけなおすのだった。

穴太寺には多宝塔を借景にした庭園もある。周囲が田園でのどかなので、ちまっとまとまった庭園を見ると京都市内の有名なお寺を思い出すが、意匠を凝らしに凝らしたそれらのお寺とはまた違い、シンプルで緑の多い庭園だった。
多宝塔

多宝塔を借景にした庭園

多宝塔があるのと反対側の庭園

書院から庭園を眺めていると、シロサギが池に降りたち、それに池のコイが驚いたのか、急にピチャンと水音を立てて急旋回して泳ぎの向きを変えた。シロサギを庭園で見たのは、いろいろな庭園をまわった中でもこれまでに栗林公園だけだったので、亀岡は栗林公園に負けない自然を有しているのだとつくづく実感した。やはりだてに田畑の中のお寺ではないのである。

庭園を鑑賞した後、襖絵をじっくり見始めたのだが、そのなかにとても面白いものを発見した。いつの時代の穴太寺かは定かでないが、お寺の全体風景が描かれている襖絵の中に、異様にムキムキマッチョなからだつきの風神雷神が描かれていたのだ。穴太寺の本物の仁王門の風神雷神は至って普通に思われるのだが、なぜこれほどカリカチュアして描かれたのか不思議である。そして面白かった。
日本ががいっぱい

書院

マッチョな風神雷神

境内の藤棚

こちらも境内に咲いていた花

藤棚にはまだ僅かだけれども薄紫色の花が咲き始め、ほのかな香りをかもし出していた。それはとても気持ちの落ち着く香りだった。

もう少し季節が早ければ庭園ではサツキが咲いていただろう。四季折々を楽しめそうな、穴太寺だった。

因みに穴太寺から数百メートル離れたところには金剛寺というお寺がある。ここは円山応挙という円山派の祖である絵師が入門したお寺で名高い。
金剛寺


またまた茶色の猫ちゃん発見

2011年4月28日木曜日

森の精霊

煮詰まってもつれた思考が、森の中を歩くと森の精霊がすべてそぎ落としてくれてまったくすっきりしてしまうように、今日の川の流れはとてもすっきりしていた。

この陽気にしては、つい最近までよく遊んでいた子供たちがまったくいないことに一瞬違和感があったが、よく考えてみると、もう春休みが終り子供たちは今頃学校にいるのだろう。

どれほど穏やかに流れる川でも水面は無数に波打つもので、そこに日差しが注がれるとダイヤモンドが散らばったように波がつくる面が光を反射している。そしてそれは私が目線を向けている上流のずっと奥の方まで続いていた。

それがややもすると日が陰り、先程の輝きがなくなると、川面は洗濯板のような様子を見せた。どうやら光は幻を生むらしい。

公園では新緑が上空をすっかり支配していた。薄暗がりのこの小さな公園内を歩いてみると、ここにも森の精霊がいるようで、なにやら私のもつれた頭はすっきりしてきた。

そして、お金のことばかり考えて経産省や東電のようにならないように気をつけようと、反面教師に思うのだった。

2011年4月27日水曜日

4月の大國魂神社

1900年前から武蔵国の神社を統括する拠点だったという大國魂神社。府中駅からけやき並木を歩き、久しぶりにこの神社に行ってみた。

そこにはずっと以前から生えるケヤキの年季の入った空間のなかに、建築途中の随神門が浮き上がるように存在していた。ヤスリでツルツルに磨かれた白っぽい門の柱はどこから見ても角がなく、職人の意気込みを感じさせる出来だった。

ちょっと前まではただの木だったのが、大國魂神社の境内で随神門を支える一部になったことが随分誇らしいような表情を見せていることに、環境が木をつくるのか、それとも私が境内の空気に飲まれてそう感じるだけなのかとしばし考えてしまった。

今はサツキの季節であるが、随神門の向かって左前に咲くサツキは門のピカピカの白茶色の手前でうっすら気をひくアクセントとなり、絵画のような美しさをつくり出していた。私は丸っこく、あるいは四角く剪定されたサツキを見ることが多いけれども、ここのサツキは野性的で、随神門と対話しているような自己主張をするのだった。

足元の深い小石の道を、ジャリジャリ音を鳴らしながら歩いていると、この二者の対話の中へと自然に引き込まれていく4月下旬の大國魂神社だった。

2011年4月26日火曜日

希望か絶望か

朝CNNを見ていると、スウェーデンが地下に核燃料棒を埋めても10万年は大丈夫という壮大な計画を立てているとの報道があった。

最長で120年くらい生きるとされる人間の一人である私にとって、10万年とはピンとこない月日である。ヒトが文字を発明してから5000年くらい経つと言われているだろうか。世界最古の木造建築物の法隆寺が築1400年くらいか。10万年後の自分となると、白骨化してそれから、、、。10万年大丈夫な設計って、机上の数字で物事を決めていく人たちの考えることはやはり私にはピンとこないものだった。

それでもすでに生み出されている放射性廃棄物はなんとかしなければならないのだから、絶対になんとかしてもらわはいといけないのではあるが。この大計画は希望の星なのか、それとも絶望の淵なのか、素人の私には悩ましいところである。

病院に行くと、大震災後ずっとガラガラだった待合室が、震災前同様の混み具合に戻っていた。さまざまな職種の職員さんたちもバタバタととても忙しそうで、それは行列のできるラーメン屋さんのような様子だった。そんな中、私の隣に座って受診の順番を待っているおばあちゃんはずっと鼻歌を歌っていた。私はその鼻歌をBGMにして、一時間半くらい座らせてもらった。子守唄のような、眠気を誘うような、そんな鼻歌だった。

大震災後何度かこの病院に通院したものの、あまりに外来患者数が減ったので、このままではこの病院はつぶれてしまうのではないかと心配したが、どうやら患者は戻ってきたようである。

そんなことを私が考えていたら、後ろの椅子に座るおばちゃん二人が同じようなことを言っていた。この二人はとてもハキハキ話し続けていて、60才を過ぎてしょっちゅう転ぶようになったと嘆いていた。気持ちは前に進んでいるのに身体は気持ちの通りに動いてないのよね、とのことらしい。そしてかろうじて今のところ骨折に至る怪我はないものの、擦り傷をつくりながら生活しているとため息をついていた。

考えることがいっぱいの高齢化人生である。

私の診察が終わって支払いを済ませた頃にはもう午後の受付が始まる12時半を過ぎていた。午前中に来た患者の診察が終えるか終えないかのうちに午後の外来患者がやってきてズラッと待合室に並ぶ光景はまさに大震災前そのものであったが、医師たちは再び休む暇なく働くのかと思うと、そんな過労状態の医師に手術してもらって大丈夫かと一抹の不安がよぎるのだった。

2011年4月25日月曜日

サマータイム

近頃我が家の猫は早起きである。

いつも私の枕元で寝る猫は、冬はコタツの中でヌクヌクに伸びて寝ているのに、夜枕元で寝るときはよほど寒い日でなければ真夜中から明け方までの一日で一番寒い時間帯を、なぜか耳をキンキンに冷やしながら布団には入らずに、ジッとスフィンクス型をつくって、まるで眠りの番人のように過ごしている。

それが最近は日の出が早くなってきたためと思われるが、これまでより1~2時間早くに枕元を飛び出し窓際で私の方をジッと見ながら、変わらずスフィンクス座りをして過ごすようになった。あまりに窓際が好きなようなので、そこに毛布を畳んで置いてあげると、遂にはほとんどの時間をそこで過ごすようになった。よほど朝日と共に一日が始まるのが気持ちいいのだろうか。

こうして我が家の猫は自動的にサマータイムを取り入れて過ごしているが、私もそれに合わせて早起きしたいといつも思う(実現はしていない)。

時に我家の猫は、家の中で私がいるところと自分が壁で遮られていても、私のいる方角をジッと一直線に見ていることがしばしばある。その神通力を送っているような姿に、猫の並外れた五感の力を感じ(もしかしたら第六感かも)、私は驚きを隠せないのだった。

もとは人間の収穫した穀物をあさるネズミを捕食することから人間のニーズにかない、人と暮らすようになったと言われる猫であるが、我が家では眠りの番人、時間調節の達人として役割を果たしているのだった。

寺の坊さんが話すことよりもよほど私にとってありがたみのある猫の多様な行動に、私はいつも頭が上がらないのだった。

2011年4月24日日曜日

久しぶりの美容院

先日久しぶりに髪を切りにいつもの美容院に行った。そしてそこで3月11日以降久しぶりとなる、資本主義真っ只中のサービスに再会し、3月11日より前に戻ったようなタイムスリップした感覚に襲われた。

電車やコンビニなどは照明を落としているが、その美容院の店舗内はキラキラに照明が輝き、美容師さんの営業スマイルも大震災前同様健在だった。ああ、資本主義ってこんなにサービス精神旺盛なものだったんだと、久しぶりのこの手の接客に違和感があり、随分贅沢してるんだなと思えた。

それは日々野菜の産地を気にしながら買い物をするのとは異次元の空間だった。

髪を乾かしてくれたアシスタントらしき店員さんが、カラーやパーマはしないんですかと聞いてきたので、私は雑草のように放ったらかしですと答えた。そう、この髪は震災前同様雑草のように今後も放ったらかしだろう。

福島の猫たちは汚染された雑草を食べているのかと思うと、この資本主義という虚飾に満ちた空間での虚構のこの会話が虚しく思われた。だが、会話は空しい響きのままずっと続いた。

頭はすっきりしたものの、何かが胸にひっかかる、久しぶりの美容院だった。

2011年4月23日土曜日

シューマンのピアノ協奏曲

昨日の夜中から雨は降り、今日の朝も降り続いていた。しかも強風つきである。そして私の心はこの暴風雨のように、朝から荒れていた。

理由はよくわからないが、心が荒れたおかげで茶碗が一つ割れた。そんな時、我が家の猫は必ずコタツの中に隠れてしまうのだが、それを見て深く反省し、やや理性を取り戻すのだった。猫なくして私の理性はないだろうと思う。

雨が降ると、より放射性物質に対し敏感になり、心理的に追い詰められたのかも知れない。本当にストレスの種だが、もう若くないからそこまで神経質にならなくてもいいだろうと、どこで割り切って日常を取り戻すかの判断のしどきであると思われた。ゴールデンウィーク明けくらいだろうか。となると、あと二週間ちょっと心が荒れ続けるわけだ。つくづく悩ましいことである。

そんな悩ましい心には、シューマンのピアノ協奏曲がよく響くようだ。特に第一楽章。この楽章は、今日の暴風雨のように波打つメロディである。シューマンの唯一のピアノ協奏曲というのが意外だが、他の曲も聞いてみようと思う。

2011年4月22日金曜日

サツキが見頃

文科省がいつの頃からか公表するようになった上水(蛇口水)、定時降下物のモニタリング結果を見て、顎が外れるかと思うほどに再度驚いた。3月21日くらいからの値に、ただ単純に最初の数字の後に続くゼロの数の多さに驚き、だからほとぼりが冷めるまで黙っていたのかと頷いた。そして、基準値内だろうが外だろうが、すっかり放射線という言葉がトラウマになり、金輪際さよなら放射線と、もう胃部バリウム検査はやらず、絶対に内視鏡で健康診断してもらうんだと心に誓った。

そんなことを心に決めた後に、今も闇の運び人となっている照明を落とした電車に乗って、検診で再検査となった検体をもち、とある病院へと向かった。人々はこの暗闇にすっかり慣れたようで、暗がりの中でも以前より表情がしっかりしているように見えた。

私が行った某総合病院は、3月末に行った時も大震災前より大分患者が少なかったのが、そこから3週間ほど経った今回は更に減っているとの印象を受けた。あれだけ治療に訪れていた人は、今どう過ごしているのか不思議である。

待合室で待っている最中、NHKがテレビの大画面で流れているのだが、福島県知事に東電の社長が謝罪しているシーンが映り、知事は原発再稼働は絶対にないと繰り返し社長に断言していた。うんうん、そして全国の原発も止めて欲しい。

もう桜が散って、木々の葉がすっかり空を覆ったかと思うと、朱色に近い赤色を放つサツキがきれいに歩道の垣根で咲いていた。今年の春は都内の大名庭園などで花を楽しむ機会がなかったが、身近でこうして春を楽しめることを嬉しく思う病院からの帰り道だった。

ところがサツキの赤から、福島原発の30㌔圏内にある町のいたるところでたむろしているという、それまで人と暮らしていた猫や犬の血の赤が連想され、突如花見気分ではなくなった。猫好きの私にとっては最も思い入れの強い猫の血の赤だけれども、元住民にとっては汗水たらして建てた家のトタン屋根の赤が無念に思われるかも知れない。


姫路城の大柱だったらあれほど盛り上がるのに、名もなきものたちは人間社会に組み込まれながらも人知れず簡単に放棄される。名はなくても魂はあるので、私はその名もなきものたちと心の交流をしようと思う。

2011年4月21日木曜日

マノン・レスコー

空は朝から暗雲が漂っていた。なのに夕方になっても雨が降らない一日だった。

我が家では、セシウムは無理でもせめてヨウ素の半減期である8日待ってから水を使おうかと、何本かのペットボトルに水を貯めて部屋に置いていた。そしてそのペットボトルは私が家に居るときは常に視界に入っている位置だった。それは我が家の猫にも丸見えのはずだった。

数日そのような状態で過ごすうちに、目がチカチカしてなんだかイライラしてきた。私はそれがあの並んだペットボトルのせいであることに気づいた。そういえば、猫が敷地に入ってこないようにとペットボトルをたくさん並べている家をたまに見かける。だがここでは、我家の猫はまったくこのペットボトルを気にする様子がないのに、私のほうが先に参ってしまったのだ。その後そそくさと他の場所にペットボトルを移し、ダンボールで覆っておいた。

放射性物質のみならず、予防策として取り置きしたペットボトル水にまで撃退されたのは切なかった。もしかするとペットボトルを置いているのは、猫ではなくヒトを追い返すためなのだろうか、、、。

2005年にウィーン国立歌劇場で上演された『マノン・レスコー』を録画してあったので見てみたが、小澤征爾の指揮するオーケストラは、小澤征爾が台風のように団員を連れ去って行くような感じでキレがあり、とても良かった。ただ、あれだけの迫力あるオーケストラと歌手が奏でるプッチーニの音楽に、あのモダンな演出はどこか私にはしっくりこなかった。

男を虜にする美女マノン・レスコーは、絵に描いたように女のエゴ丸出しの役になっている。そしてこれまた絵に描いたように男達はマノンに翻弄されていく。お金は欲しい、でも大恋愛も楽しみたいというマノンをみて、そんなうまくはいかないわよ~っと観客がツッコミを入れたくなるところで必ず、恋人デ・グリューが裏切ったな~とツッコミを入れてくれるのが、あまりにベタだが時代劇のセリフ回しと思えば面白く見られる。

それでも、この時代劇をモダンな演出で見るのはやはり抵抗が残った。しかし音楽だけは良かったので観てよかったと思う。

スーパーなどで大震災前と変わらぬ値段で水を買えるようになってきたことに、ホッとしている。

2011年4月20日水曜日

原発に傷つけられて

福島原発の収束の見通しが以前よりはやや見えてきたのとは裏腹に、最近うちの夫は荒れている。このまま収束してこのまま国民が文句も言わず引いてしまっては、東電の思うつぼではないか~、と。

その通りで私も憤りを感じている。

中央区の人形町にある東電寮は社名のプレートをテープですっかり覆って見えないように工夫しているようだが、ある飲み屋では、東電の人が社章をつけたまま訪れて、他の客にビール瓶で殴られたと聞いた。後ろめたいのか、未だ自分たちの仕出かしたことの重大さがわからず呑気に飲み歩いているのか、不思議な集団である。

東電は今どき珍しく、女子は総合職採用されても一般職のような扱いを受けると『東電OL殺人事件』という佐野眞一のノンフィクションもので読んだ記憶がある。もしそれが概ね本当ならよくよく不思議な集団だ。

東電の男の社員がグータラなら、その妻は首に縄をつけて福島に連れていくべきだと思う。妻として、夫が社会的責任を果たすよう行動すべきだ。そんなことはないと思うが、万が一疎開などしているのなら、東電の妻失格である。もし子どもがいるなら、理由を話して疎開先の誰かに引きとってもらえばいい。

福島の人たちが、本当に今現在そんな暮らしを強いられていることを、彼ら彼女らはどう思っているのだろう。

Jヴィレッジの話を聞いても、東電の人は他の組織に属する人のことは下層階級くらいにしか思っていないとしか受け取れないことをしている。それは勝俣会長の会見を見ていても、その表情から思うことだ。悪いことをやったことはわかっている、でも心の底から悪いと思っているわけではない、なぜなら確信犯だから。かつ、恐らく5年後10年後に出るであろう放射線障害の患者に対しても、全く痛みを共有していないようにしか見えない。痛みを共有できないのは、ボス失格である。

そしてそれが二重三重に原発被害者を傷つけていると思う。

うちの夫も、福島の人より被害は格段に少ないが、その為に傷ついている一人だ。

2011年4月19日火曜日

春の花・都内

都内道端に咲いていた春の花です。

たんぽぽ
花言葉は『神託』と私の持っている花図鑑にあるが、
カントウタンポポだと『明るい笑顔が好き』と別の花図鑑にある。
何がどれだか私には見分けがつかなかった。

近所に咲いていた花

ナズナ
花言葉『あなたにすべてを捧げます』

近所の花壇にあった花
 
菜の花
花言葉は『快活』

夫にすすめられ、中央公論社から出版されている『エリオット全集』の一巻目を読んだがとても面白かった。エリオットの鋭い視点が読者の私にも突き刺さる思いだった。

2011年4月18日月曜日

大震災後・・・


茨木に住む夫の友人が送ってくれた画像です。




鹿島港北部の釣り船用の港。後方には住金88鹿島の高炉があります。






震災前




神栖市南堤付近。

焦げた瓦礫が打ち上げられています。

2011年4月17日日曜日

4月の高幡不動尊

高幡不動尊に行くと随分緑が増えてました。そのなかで深い赤色を示すイロハモミジは異彩を放ち、山の風景のアクセントになってました。そんな4月の高幡不動尊に咲く花たちです。
仁王門と枝垂れ桜

シャガ
花言葉は『艶やかな振る舞い』

ミツマタ
花言葉は『意外な思い』

五重塔と枝垂れ桜

カモとシャガ

不動尊あたりからの夕日

スズランスイセン
花言葉は『純潔』『けがれなき心』
不動尊の近所で見つけた花です。

ミツバツチグリ
花言葉は『可能性を秘めた』

こちらは北海道の天人峡で撮ったフキ
フキは真ん中あたりに写ってます。
花言葉は『困ったときに側にいて欲しい』
食べても美味しいフキノトウでした。

2011年4月16日土曜日

ペーパードライバーの私と猫

強風の日に窓を開けると、我が家の三毛猫はいつも通りにベランダに出て行くも、普段と違う風圧に気圧されたようでその場に立ち尽くしていた。猫は私がいつも確認する富士山の眺めなど全く気にすることがない。しかし、この風はいつもと違って手ごわいぞと判断したらしく、部屋の方へと向きを変え、それでも部屋へ戻るか躊躇しているところをすかさず私がお尻を押すと、いつもなら覗き込むベランダの下の光景に視線を注ぐこともせぬまま、そそくさと部屋の中へと戻っていった。

猫と旅行をしたいものだと毎日のように考え続けたものの、一度も実現しないまま私は30歳をとうに過ぎ、猫は14歳になった。一緒の旅行が実現しないのは、ペーパードライバーの私にそんな行動力がないのと、猫がそんなことを望んでいないと私が考えているからだ。天橋立や出雲大社に興味などないだろうと。

何にも関心がないように見えるそんな我が家の猫も、ところがどっこい私が病で数年臥せっていたときは、ものすごい救助力を発揮するのだった。

私がベッドに寝ている間は片時も離れず、トイレに起き上がると、ドスンとベッドから自分も下りてトトトトとトイレまで付いて来て、ベッドに戻ると再びドスッとベッドに飛び乗り足元で寝ていた。私は病の苦しさで、足元にいつもそうして一緒にいてくれる猫の様子を一度も見たことがなかったが、ベッドに飛び乗って羽毛布団がボスッとヘコむ音だけは毎日耳にしていた。

まだ3歳ほどだった若い猫にとって、あの生活は退屈だったと思うが、我が家の猫はそのことに対して遊んで欲しいと退屈を訴えることなくずっとそうしてくれていた。苦しむ人を見ると、痛々しくてみてられないとかかかわるのが面倒だとか、人間ならいろいろな理由で目を背ける場面だというのに、ああしてずっとそばにいて見守る猫の心理は、私にとって神秘で崇高であった。

あっという間に猫は成長し、今では私の師匠のような存在になっている。

猫とのこうしたかかわりは、寺の境内で参拝した後、俗世に戻ることに似ていると思える。だから私はエジプトの古代美術などで猫を神として祀っている像を見たりすると、うんうんととても嬉しくなる。

しかし私は坊主ではないので、境内のなかだけで生きて行けるわけではない現実があり、今日も雲に隠れて見えぬ富士山を眺めながら、またまた余震に襲われながら、そしてガイガーカウンターの数値が下がってきたことを確認しながら、猫と戯れるのだった。

2011年4月15日金曜日

猫島

海はすべての源と言われるけれども、14歳になる我が家の猫はまだ一度も海に行ったことがない。10年くらい前に、猫を飛行機に乗せて東京から北海道に連れて行くという無責任にも過酷なことを強いてしまったせいで、海を渡った経験はあるが。

うちの猫は外には出ない。しかし、窓を明けると真冬のよほど寒い日でなければ急いでベランダに出て何するでもなくゴミ出しの日を待つダンボールの上で寝転んだりし始める。そしてスズメが電線にとまれば釘付けになり、セミが落ちてくるとくわえて持ってきてくれる(私は欲しいわけではないが)。車が通る音は恐怖心をもたらすらしく、敏感に反応して怯えてしまうのを見て、車は怖いものなんだと再認識を促されたりもする。

そんな猫を浜辺に連れて行ったら、その広さに逃げ場を失いパニックになるかもしれないが、慣れれば砂浴びを楽しむようになるかも知れない。

遠い遠い海の世界は、老いた猫には刺激が強すぎるか。でも、そんな私の心配など、もう猫の心には響かないかも知れないのがちょっと寂しい今日この頃だ。

石巻市の先にある通称猫島の猫たちは、生き残った猫も多くいると聞いた。声なき声をあげながら、生き延びる猫のたくましさが、自分にはない能力に思えて憧憬を呼んだ。なすがままの荒波を、何頼るわけもなく逃げ惑い、何かに翻弄され、何かにしがみつき、夜目がきくから太陽など待つ必要もないのが、私にはない強みだ。

2011年4月14日木曜日

蚊帳の外

野球のユニフォーム姿のおじちゃん二人が川のほとりでくっちゃべっている。試合が終わった後なのだろう、一杯飲みながらのようで、すでにろれつがうまく回らないのだが、どこまでも響く大声で、すっかり自意識をなくしているのだけれどもとても楽しそうだ。

その10メートルくらい離れたところでは、楽器の練習をしている二人組がいる。ギターとハーモニカだろうか。こちらも自意識を捨てて練習に励んでいるようだ。そしてその数メートル隣には、犬を連れた老人が座っている。

何に向かうでもないのに、みな姿勢は川に向かい、川の流れとその上に広がる大気はどうやら鏡と反対の作用を人に及ぼすらしい。しかしそれは犬には関係ないようで、犬は楽器を弾く人をずっと覗き込んでいる。

橋のたもとでは、おじさんたちが5~6人揃って集会を開いている。こちらは赤ら顔の様子ではないが、2週間くらい前に同じようにおじさんたちの集会を目撃したときよりずっと声に張りがあって元気だ。一度に2~3人が話し、どうやら言いたいことを言っているだけのようにも見えるのだが、外目からみると、何気なく集まって何なく話し、何気なく帰っていく定年退職者の平和な井戸端だろうと思う。

まだ油断できない状況だとは思うが(私個人としては)、余震や福島原発はここではもう蚊帳の外のようだ。しかし、いずれの人も異様に元気がいいのは、ここ数週間それらへの脅威のために引きこもって生活をしてきた反動なのかも知れない。

そうであるならば、鬱屈したパワーとは凄いものなのだろう。

2011年4月13日水曜日

一片の花びら

近くの川では子供達が膝上までズボンをまくり上げてジャブジャブ遊ぶようになった。

風が吹くたびに桜の花びらが散り、その花びらが集団で渦を巻いて飛んでいった。偶然花びらが表現してくれた自然現象は、なかなか可憐で最後まで目が離せないものだ。

私はなんとか地面に落ちる前に花びらを手にとろうと、風が吹くたびに木の下で待ち構えるのだけれども、風に翻弄されてなかなかつかめない。5度目のチャレンジくらいでようやく一枚の花びらをつかめたときは、これは反射神経の良い訓練になると思う運動になっていた。花びらを観察すると、血管のように筋が入って、横に引っ張ると縦にきれいに破れていった。まだまだみずみずしい一片の花びらに遊んでもらって光栄だと思う。

子供たちが川に入って遊ぶ陽気だというのに、我が家の猫は座布団の上で頑なに強固なトグロを巻いて寝いている。私が一週間家を留守にしたことへの反発なのか、高齢のためにお腹が冷えないようにとの工夫なのか。いずれにしろ、何か確固たる目的の上でのトグロに見えて仕方なかった。

2011年4月12日火曜日

地震と猫

一週間ぶりに東京に戻ると、淡いピンク色の桜が満開に咲いているのがとてもきれいに見えた。だから余震に怯えながらも東京に戻ってきて良かったと思えた。大地震後の東京ではずっと娯楽のない生活を続けてきたので、この華やかさがより心にしみたのかも知れない。いつもなら嫌いな高層ビルも、なぜか今度ばかりはホットする材料になった。そのため空港から自宅に向かうバスの中ですっかり安心して居眠りしてしまった。

自宅近くに咲く数本の桜もとてもきれいで、地面に落ちた花びらもまた格別だった。普通に咲く桜を通りがかりに見るだけで花見の娯楽感が湧くのかもしれない。娯楽の少ない昔の人が花見をこよなく楽しんだというのがわかる気がした。

いつの間にか木々の葉ものび始め、昼間だと若干の影をつくるようになった。これがあとひと月もするとすっかり日陰をつくるようになるのかと思うと、胸が躍る思いだった。

家に戻ると一週間ぶりに再会した我が家の猫はむくれてふてくされていた。ご機嫌とりに相当時間がかかるが、自分が家を留守にしたことが罪深く思え、懺悔のご機嫌取りが始まることとなった。それにしても、3月11日の大地震の際はこの猫は机の下に隠れたりと怯えていたのに、震度6くらいの余震になるとまったく気にせず寝続けているのが不思議でならない。揺れに慣れてしまったのか、震度6くらいだと単に平気なのだろうか。猫の度胸にちょっと敬意をもった瞬間だった。

2011年4月11日月曜日

上空からの景色・旭川→新千歳

旭川の町も十数年前に比べて随分変わった。大震災や福島原発の直接的影響は見られないものの、そのはるか以前からある拓銀破綻以降の大不況が未だ大きな影を落としている。買い物公園にはいつの間にかあっちにもこっちにも至るところコンビニが入り、繁華街という雰囲気は大分減っていた。そして丸井今井が閉店したさまは、そこだけ夕張の炭鉱跡のようだった。

旭川駅から旭川空港までバスで向かうと、道路沿いにはここでもふきのとうが沢山生えていた。東京では桜が身頃の季節と思うが、北海道はふきのとう真っ盛りだ。それに昨日今日と晴天続きでより春らしくなった感じだ。東京に戻る前に北海道の雪解けの春景色をしっかり目に焼き付けておこうと思いながら、35分間バスに揺られていた。

バスを降りてそのまま搭乗ロビーに行くと、出発一時間前を切ったところなのに誰も客がいなかった。ガランとしたロビーでひどく大音量のテレビを横に、飛行機の離発着を見ようと最前列の窓際に座った。地方空港のこのガラ空き感は、羽田の混雑を抜けて舞い降りるといつもそのギャップに戸惑っていたのに、最近は誰もいない鄙びた温泉を一人独占して楽しむようにくつろぐことができるようになった。

それも10分20分もすると徐々に乗客がやってきて若干の喧騒が始まった。しかし旭川から新千歳に飛行機で行く人は、使用される機体の規模からするとほんの僅かだった。

機内に入り座席に着くと、しばらくして飛行機が滑走路を走り始めた。旭川空港の隣には広い芝生の公園があるのだが、窓の外を見るとその公園に人が二人立っていた。決して若くない二人だ。その人たちは私たちの乗る飛行機に向かって色あせた黄色いハンカチを大きく大きく振っていた。この飛行機に子供か友人でも乗っているのかと思ったが、それにしては振りが力ない。このあたりに住む人で、こうして毎日飛行機を見送ってくれているのかも知れない。向こうからは見えるはずもないのに、私は思わず手を振り返した。船ではよくあることだが、飛行機でこうした経験は初めてだった。

離陸後はきれいに区画が整えられた田畑が続く北海道らしい農場が続いたかと思うと、すぐに山岳地帯に入った。その山岳地帯は見る限り続き、遮るのは上空に浮かぶ雲だけだった。それはまさに樹海だった。

旭川から千歳までは機内放送によると28分。そのうちの半分くらいを樹海が占めていたと思うが、突如再び田畑が始まった。それは上川盆地の黒い土とは違い、薄い茶色の土だった。一つの山岳地帯を越えるとこれほど土が変わるものかとその理由をいろいろ考えたが、知識が何もないために答えが出ないまま、今度は海に出た。大海原は森林同様深い自然だった。山も海も上空からだと身動き一つしない存在に見えたが、その静けさが逆に怖い印象だった。

スカイマークはいつの頃からか旭川⇔羽田間が新千歳経由便になり、旭川空港を比較的よく利用する私は随分不便になったと恨んだこともあった。そして値段の高いanaに乗ったりもしたが、この経由便のお陰で旭川⇔新千歳間の景色の素晴らしさに気づくことができ感謝している。私はこの景色が好きなので、羽田から旭川に行くときは、きっとまたこのスカイマークの経由便に乗るだろうと思う。

2011年4月10日日曜日

富沢散策・旭川

神居神社の境内は二月に訪れたときより雪が減ったものの、鳥居をくぐってからまだ残る雪道には滑らないようにとちゃんと砂が撒かれていた。しかし参拝者は私以外誰もおらず、鳥の鳴き声が聞こえるだけでひっそりと静かだった。

参拝を終えると、高台にある神社から旭川の町の眺めを楽しんだ。赤や青や茶色のトタン屋根の住宅の向こうに旭川駅があり、ビルの並びが見え、その向こうは見分けがつかないが、同じような町並みが続いていた。盆地というには随分広く見えた。
神居神社から望む旭川市内

神居神社からおもむろに富沢(旭川市神居町)方面へと歩いてみた。坂道を上り次に下ると富沢の集落が見えてくる。富沢は農業が盛んで田畑が多いところである。美瑛の丘ほど広くはないが、富沢の丘の流れは美瑛に負けず劣らずきれいなものだった。
富沢

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途中、晩御飯用にどこかでふきのとうをとるつもりでいた私は、ふきのとう密集地帯はないかと探しながら歩いた。すると、火山灰の山の近くに見事にふきのとうが生えていた。そこは道路から離れているために砂埃もかからずふきのとうはきれいだろうと思った。そして歩道から道なき道へと入っていった。

すると、つい最近まで雪の重みで植物が倒れて重なり合っていたらしい場所であることに気づいた。台風の後のようなその光景は、雪が解けて太陽光にさらされ植物の幹が乾燥したために、上を歩くとバリバリという音を鳴らして威嚇されているようだった。その威嚇にすっかり腰が引け、どこかに隠れた穴でもあったらどうしようとの恐怖心が湧いてきた。しかし、やや向こうに無数に生えるふきのとうがあるのを見て、進むことを選んだ。この時、山菜取りをしてどんどん茂みの奥深く入っていって熊に襲われる人の気持ちがわかった気がした。

しかし、穴はなくたっぷり収穫することができ大満足だった。前回はふきのとう取りに慣れない私は随分手を汚したものだが、二度目となる今回はそれほど手を汚さず取るコツを覚え、比較的楽に取ることができた。

そんな私の耳に、水のチョロチョロした流れが聞こえてきた。音の方を見ると、雪解け水だと思うのだがごく浅い流れが数メートルの幅で下方へと向かっていた。そしてそこにもふきのとうが沢山生えていた。しかも水が流れているところのふきのとうだけあって、どう見ても私が先ほど取っていたものよりみずみずしくて美味しそうなのだ。

先ほどの心理通りにそちらへ進むと、案の定、水をたっぷり含んだ土の上でコケそうになったものの、二つほどそのエリアでふきのとうを取ることに成功した。そしてこれ以上この作業を続けると靴が泥だらけで水浸しになると思い、それ以上欲張るのをやめた。

富沢の方に歩いていると、日向は雪が解け日陰は雪がまだ残っていた。そして道路脇では用水に雪解け水が流れ落ちてくるので手を洗うのにちょうどよかった。その水は当然冷たいのだけれどもとてもきれいで、都内で水道水に神経質になっていた一週間前を思い出すと、何かの気力が失せた気がした。

その後も富沢集落を歩いていると、『カムイの杜公園』という道路標識を見て興味が湧いたので数百メートル歩いて行ってみることにした。

隣を伊野川が流れる『カムイの杜公園』は、建設省のテコ入れでつくられたというとても充実した公園施設で、テニスコートやキャンプ場、大規模遊具や芝生広場があり、親子連れの人々などはとても楽しめる公園になっていた。実際、駐車場にはいっぱいに車が停まり、遊具施設ではたくさんの子供たちがギャーギャー楽しそうに遊んでいた。そしてそれは屋外施設だけにとどまらなかった。お手洗いを探しに『わくわくエッグ』という建物に入ると、屋外にいた以上の数の子供たちがキャッキャキャッキャ遊んでいたのだ。その数に驚き、私はとっとと出て行ってしまったが、やはり親子連れは多く利用しているようだった。

山菜を取りながら田畑の中をこうして散歩できる疎開生活が、とても贅沢に思える時間だった。

2011年4月9日土曜日

森の旅亭びえい

昨日とは打って変わって明るい日差しが頭上高くからふり注ぐなかを、白金温泉の『森の旅亭びえい』という温泉宿に向かった。

旭川方面から白金温泉を目指す国道237号線は、右を見ても左を見てもその広い視界に必ず大雪山のどこかが入る上川盆地ならではの雄大な景色だった。そんな雄大さから目線を下ろすと、どこまでもきれいな白銀を残す大雪山の稜線とは対象的に、人里では土が見え、ふきのとうが至る所で密集して生えていた。

先日そのふきのとうを東京に残る夫に送るために取り集めてみたが、想像を超える大変さだったことを思い出した。泥の傾斜を下りるとき、私の鈍らな足は使いものにならずに転んですっかりコートが汚れた。ふきのとうを取るときはものすごく手が汚れ、すぐそばを流れる用水で手を洗うも水の冷たさに慄き、それでもめげずに何度も洗ったが、たくさんの土が手に残ったままだった。東京でこういうことをしないために、爪の中まで土が入って洗っても洗っても取りきれないことになぜか非常に新鮮なショックを受けた。そして随分ヤワだと思った。

そんな先日の経験を思い出しながら、東京でベランダから富士山を望む以上に畑から大雪山へのつながりは美しいと思った。それが、車が白金温泉郷に近づくにつれて大雪山は遠目の山から徐々に大きな山の集団となり、気づいた時にはすっかり間近に十勝岳が迫って白金温泉に到着した。

『夢の旅亭びえい』はオープンして一年というだけあって施設はどこもピカピカできれいだった。女性風呂のことしかわからないが、脱衣場の洗面台などもとても洒落ている。湯舟は大きすぎず小さすぎず、私が行ったときは混んでいるわけではなかったので十分な広さだった。内風呂の一つが源泉かけ流しで露天は加水加温しているとのことで、体のためには源泉かけ流しの方がいいと思うのだが、ついつい露天に引かれてほとんどの時間を露天で費やすことになった。

岩風呂になっている露天は目の前にまだ雪が積もり、白樺がとてもきれいだった。岩風呂の隣にはなんとか二人入れるほどの小さな釜風呂のような風呂があった。そちらからの方がより空の上の方まで眺めることができて、客が少なかったこともあってしばらくそこに入ってゆったり雪景色と青空を眺めながら過ごすことができた。

最後に内湯の源泉かけ流しの湯に入ったが、確かに露天の加水加温している湯とは違い、身体が一層温まり軽くなったように思えた。泉質はph6,41の中性で、無色透明の源泉が湯口から注がれていた。湯舟ではオレンジのような茶色のような小さな湯の花が舞って、湯の花の濁りが温泉への興味をかき立てた。これは雪景色を眺めているときとは一味違う至福の時だった。ロビーには熊の木彫りがかけてあり大雪山の麓の温泉らしい空間が設けられていた。

とてもいい立ち寄り湯だった。
237号線の風景

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237号線から白金温泉郷方面に抜けたところの景色