ページ

2011年10月31日月曜日

大宰府から大川内山の方

天神から西鉄で太宰府までは30分もかからないが、はじめの15分ほどを過ぎた頃には町並みが高層ビルから一軒家へとさま変わりし、その向こうに小高い山が見えてくる。と共に気温もやや低くなり、太宰府で電車を降りると呼吸をするたびに冷たい山の空気が肺を洗うように流れていった。


参道の両脇に建ち並ぶ梅ヶ枝餅などを売る風情ある空間をしばし歩くと、山に向かっていくように歩くためか冷たい空気がより似つかわしく感じられ、ほどなくして太宰府天満宮の境内へと入った。すると社殿に向かって赤い橋が渡る上を巨木が覆い、その木の幹に沿って目線を落とすと、数メートルに渡って木が土上に太い根をはっているのが見られ、その圧巻な姿は多くの参拝客の目を引くものだった。そして、生きることへの執着心を物語るように巨木の皮からは緑色の草が無数に生え、その先端からポタポタと水を落としていた。

そんな躍動感ある天満宮から数百メートル離れた光明寺に行くと、様子が一変する。そこには京都のお寺にあるような庭園美の世界が広がっているのだ。

なぜ石をこんなふうに配置するのか、小石の渦をこう巻くのかと、これだけの工夫を凝らす庭園を不思議にも思ったが、それは多くの人が部屋を装飾するのとまるで似ていると私には思えた。凝って凝ってとうとう自分の世界観を現すようになるまで凝るのである。そして、私はほんの先端だけ色づいたイロハモミジを美しいものだと思いながら、しばし計算されつくしたこの庭園を見入っていた。

我が家のベランダの向こうにもこんな広がりがあればと思ったが、東京では望めないので、実家の旭川で大雪山を借景に何かつくってみたいものである。
太宰府天満宮の巨木

光明寺境内

庭園




福岡から伊万里へ移動して大川内山に行った
伊万里の大川内山にかかる橋はやはり伊万里焼

橋の向こうに陶工の墓がある

大川内山は山の麓にある


大河内山周辺はのどかな田園地帯

2011年10月30日日曜日

福岡市街地の方

福岡空港を降りたときは、そのモダンなつくりや規模が新千歳空港を思わせると思った。しかし、その後地下鉄で天神に向かって、天神駅からやや離れたところにあるホテルでチェックインを済ませた後に、再び渡辺通りを天神駅に向かって歩いていくと、札幌の大丸や三越より巨大な大丸と三越を眺めながら歩くことになって、東京よりほんのりと、、そして北国札幌よりもはるかに暖かいこの町に、札幌というより東京のゴミゴミした空気を感じ始めた。

私はそんな福岡がどんな街かもっと知りたくて、天神から中州を抜けて祇園、博多駅までぶらつくことにした。

地元の人はそうそう駅と駅をまたいで歩かないと聞くが、確かに駅を離れてしばらくすると、人通りはまばらになる。それでもめげずに小雨降る中を旧福岡公会堂貴賓館の洋風建築を通り過ぎてさらに歩き進めると、昼時のはまだ閑散としている中州の歓楽街が現れた。すすきのより大きく歌舞伎町より小さく見えるこの歓楽街は、木枯らしと共に新聞紙が飛ぶような雰囲気で、橋を渡ったところに博多総鎮守の櫛田神社があるとは夢にも思わない光景だった。

中州の歓楽街もその向こうに位置する祇園地区も、大通りから路地裏まで人通りはまばらとはいえ、この櫛田神社は名門の貫禄を醸しだし、参拝客の心をつかんでいるようだった。その証拠にここだけ観光客が後を絶たない。そして、ここの特別大きいわけでもない拝殿は懐の深い様子を存分に抱き、私が参拝するのを他の観光客同様暖かく迎えてくれるのだった。そして傍らに飾られた山笠の、人形師たちの誇りを誇示する装飾は、それをつくっては解体し、つくっては解体しと、破壊と再生のリズムを刻んでいた。

私はこの山笠を見たときに、博多が札幌と似ているとの印象を完全に払拭するに至り、札幌だったら通りでしばしばアイヌに因む木彫りが飾られているのを見るのに、ここ博多では山笠という至って和風な人形飾りを見て、北海道と比べて長い和人の歴史を痛感するのだった。そして祇園近くの東長寺が空海創建のお寺であるとの説明書きを読んだときは、さらにその印象を強めた。

その後博多駅まで歩くと、駅周辺が以前に比べて便利になったと聞いたけれども、ざっと見ただけの私にはやはり天神の方がお店が多くて便利ではないかと思えた。そしてその後、きっと天神に泊まる方がなにかと便利だとの予想をたててホテルを予約した天神へと戻り、妙に豪奢な老舗の岩田屋をちょっとのぞいてこの日の観光を終えた。

夜食べた啓燻亭の長浜ラーメンはとてもおいしかった。どこがおいしい店かもわからず適当に入っただけだったが、そうめんのように細い面に魚介のダシがよくからみ、空腹の胃に流れるように入っていった。ドレッシングのようにあっさりしたスープは最後の一杯まで飲めるさわやかさで、長浜の人が短時間で食べられるようにと工夫した細めんと共に疲れた身体にしんみりと溶け込んでいった。博多散歩の後にはもってこいの一品である。

福岡の方へ

家の外に出ると日差しが強いと感じたけれども、空はうっすら白みがかり薄い雲が上空一面を覆っているようだった。福岡の天気は雨とあったが東京は晴れている。それを私は旅行の始まりとしては申し分ないと思いながら羽田へと向かった。


空港では高くそびえる電灯が等間隔で建ち並ぶのと合わせるように、幾台もの航空機が電灯に頭を向けてこれからの旅立ちを待機していた。そして搭乗口にはすっかり厚着が板につき始めた人々がやってきては席を埋め、前方にあるテレビを見たり、背後からやってくる動く歩道のアナウンスを聞き流したり、静かな売店に目を向けたりして過ごしていた。

私は寒さが強まる日々のおかげで風邪をひいて旅行を迎える羽目になったけれども、旅行中に風邪が悪化しないようロビーにいる乗客たち同様厚めに着込んでいた。すると空港内を急ぎ足で搭乗口まで歩いているうちにすっかり体温が上がり、搭乗を待つ椅子に座る頃には上着を脱ぐほどに暑く感じた。

私は電灯が一糸乱れぬ様子で並ぶのを眺めながら上着を一端脱ぎ、身体が元の温度に戻るのを方々から届くアナウンスを聞きながら、飛行機がの離陸が10分遅れることを知ったためにゆったりと待つことにした。

しばらくしてロビーの椅子が半分埋まる頃には身体の汗が引いて、私は今度は寒さを感じるようになった。そこで、一度脱いだ上着を着ようと袖に手を通すために視線を袖の垂れた位置まで落とした。すると再び窓の向こうに視線を戻した時に、ちょうど一台の航空機が目の前を通り過ぎていくのが見える。私はこのゆっくり直進する飛行機を見て、急に旅立ちへの興奮が呼び起こされた気がした。

そんな影響をじっと停まり続ける飛行機からは受けなかったことを当然のように思いながら、間近で動く飛行機の躍動感にすっかり感化され、私は数十分遅れで離陸した飛行機に乗ると雨の降る曇り空の福岡へと降り立った。

羽田よりグッと人の往来の少ない福岡空港は、どこか千歳空港に似ているように思われた。そして、その後天神に向かうために乗った地下鉄も、東京から着いたばかりの私には札幌の地下鉄のように空いているように感じるのだった。

2011年10月26日水曜日

ipodtouchより

ipodtouchを買って数日が経った。はじめは使いにくく感じたタッチパネルにやや慣れてきたものの、ミスタッチが多くてどうにも不便。しかし、igoogleとgmailが使えてその利便性に惚れ込みつつもある。


昼間の晴天が通り過ぎようとあたりが薄暗くなってくる頃、私はスタバでドリップコーヒーを片手に、もう一方の手ではipodでスタバのメニューを検索していた。ここでもやはり便利なものだと感心し、その後ひとしきり持参した本を読んでから夕方の混雑の時間帯を迎えた店を出ることにした。

外に出ると、西の空には夕焼けが山の稜線をくっきり浮き上がらせていた。その上にはお寺の襖絵に出てくるような横長の雲が次から次へといくつも連なっている。何度となく見てきたこの光景も、手のひらにおさまるほどの視野を強いられるipodtouchに目を奪われ続けた後では妙に感動が大きくて、それはきっと視神経の緊張がとれていくことによるものだと私には実感された。

身近なところの空に目線を移すと、見上げて見える木々の枝からはどうにも割り切れないかたちと動きを見せる葉がゆらゆら風に揺られていた。ほのかな愛情を誘うこの木々の葉は昨日とは違う色を見せ、生きていることを周囲にそこはかとなく訴えかけているようだった。

ipodtaouchで疲れた私の目と耳は、まさにこの光景を欲していて、気温がぐんぐん低くなる秋の日暮れの道をしばし散歩することにした。その後身体が冷えてきたことを感じた私は家路へと向かうことにし、文明と自然の両者を享受するこんな贅沢な日々がずっと続いてくれたらいいものだとつくづく考えていた。

2011年10月20日木曜日

亡き王女のための、、、

若き日のラヴェルが作曲した
亡き王女のためのパヴァーヌ(注:クリックすると音が出ます)
リヒテルのすばらしい演奏です。

2011年10月18日火曜日

ラヴェルの音楽に乗って

窓際から、パチパチとポップコーンがフライパンの上で弾けるような音が聞こえてきた。湿度は40度。窓辺では大豆が干してあり、乾燥して茶色くくすんだ大豆のさやが我慢しきれなくなって真ん中の筋のところから裂けてきたのだ。

パチ、パチっと鳴るなかで時にコロコロと大豆がさやの外に飛び出す音を聞いて、晴天続きでよかったと思いながら、私はおもむろに豆の取り出し作業を始めた。東京のこの季節の乾燥を幸運に思ったのはこれが初めてだろう。

爽やかな音は楽しさを装い、それにつられて私はとても気軽に作業に取りかかった。ところが、カラカラに乾いた大豆のさやは狂気のように鋭く、作業を始めて早々に、素手で幾つものさやを取り除くのは困難だと判断することになった。そこで使い捨てのビニール手袋を両手にはめ、右手が疲れると次は左手でというふうに大豆の取り出し作業を進めていった。

背後ではラヴェルのバレエ音楽が流れ、ふと気づくと、さやを割る音が音楽の拍子に合い、それが幾度となく続くと、まるでオーケストラに参加しているような気分になってくる。それでも、オーケストレーションへのこだわりの強いラヴェルは私の出す音など決して認めるはずがないだろうと思いながらも、やはりさやを割る音が拍子に合うとどこか楽しいのだった。

窓の外からは乾燥した秋の風が流れてきて枝豆を乾かし、私の肌や粘膜も乾燥させる。私は豆を乾かすために一方で窓を開けながらも、その数メートル離れた他方では加湿器をつけるという矛盾を抱えていた。そしてそんなことをしながらも、どうにかこの季節を楽しんでいるようだった。

初めに枝豆を窓際に並べた時は、我家の猫は初めてのものを警戒してかそこに近づこうともしなかったのが、一週間ほどたった今日ではとうとう枝豆の上にどっかり寝転ぶ始末である。いくら毛が生えているとはいえ、狂気のように鋭くなった枝豆のさやが痛くはないのかと心配したが、ややもすると猫はその場を離れたので、やはり寝心地はよくなかったようだ。

そんなふうに猫が枝豆に慣れ、本来はここは自分の場所であることを誇示するようになる頃、私は半分ほどの枝豆をさやから取り除き、この後処理が必要な枝豆の量がぐっと減った。おかげで窓際を占領していた枝豆の上を股がなくても窓の外に出られるようになった。

私は天候の変化など、ひとつひとつの違いを巧みに利用しながらのこの営みが、ラヴェルのオーケストレーションのように考えぬかれたもののように思え、いたく感心していた。そして、去年よりも気候をうまく利用できるようになったとの実感を得ながら、枝豆がなくなったところに座ってじっと窓の外を眺める猫をベランダへと出してあげるのだった。

2011年10月11日火曜日

トランペットを吹く男

十勝岳は望岳台より先に進んでややもするとうっすら雪が積もり、下界にいたときに山頂の方に雪があったのはここから始まっていたのかと寒さに身体が震えた。低く生える高山植物も雪をかぶりかたちがよくわかるのは大きな岩ばかりで、まるで下界のしがらみとは無縁だった。

福島から人が去り、宮城や岩手から去った人が戻ってきても尚福島からは人が去っていく頃、私は十勝岳の望岳台に立っていた。おおよそ福島で起きていることとは関係なく日々の営みを続ける北海道の人たちのなかに身をおくと、気になるのは拓銀がつぶれて以降続く不況くらいで、ベクレルやミリシーベルトという単位にこだわる生活からはすっかり開放されるのだった。

私が望岳台から振り返って下界を見下ろすと、岩の転がる下り坂の向こうはうっすら赤や黄色の色づく樹海が広がり、そのさらに左側の広がりには人里が雲の隙間から差し込む日差しを浴びて、そこだけスポットライトを浴びるように照らされている。もくもくと立ちこめる灰色雲の切れ目がはっきりわかる下にちょうど望む絵画の演出のようなこの風景は、樹海の右手に太くそびえる虹と相まって、その意味を見いだそうとすると私にはとても不思議に思えた。

それはその夜の買い物公園で見かけた光景のようだった。

その夜9時過ぎに、私は買い物公園を一条から五条まで散策がてら歩いた。不況のためか地方都市の日常の光景なのか、通りはネオンの消灯と共に繁華街の様子までも消えたかのように閑散としていた。そこには酒の臭いを撒き散らす会社員の5、6人の集団を見つける以外は酔っ払いの姿もなく、通りには若者が数人たむろするくらいで、歩く人といえばみな足早に終バスに乗り遅れないようバス停に向かう人ばかりだった。


私も足早に歩く人たちに紛れてホテルへと向かうのだけれども、暗い寒空にもかかわらず途中のベンチで妙にどっしりと腰を下ろす恰幅のいい男性の姿を見つけた。私はそれを生きた人だと思ったために驚いたのだが、よくよく見ると買い物公園名物の彫刻の一つだった。トランペットを吹く男の彫刻の前にはそれに耳を傾ける猫の彫刻がある。そしてこの二つの彫刻は、閑古鳥の鳴く買い物公園で生きた人以上に私にはリアルに映るのだった。

私は山側に向き直ると、時折疲労から立ち止まることがありながらも十勝岳を登り続けた。すると、いったん山の陰に隠れて見えなくなっていた避難小屋が再び視界に入ってきた。吹雪で見えない頂上のなかで目指すべき避難小屋が見えてくるのはなんとも心強く、歩く意欲が湧いてくる。しかし、山を横切るようにしばらく歩いて再び頂上へと向きを変えた途端に、目の前の足下の雪はこれまでより一段と深くなった。そのことがわかるや否や、登山を中止したいとの心の叫びが聞こえるように足の疲労がたまっているのを感じて、私はあとひと踏ん張りというほどの位置にぽつんと見える避難小屋まで歩くのを断念した。

同じ寒さでも、昨日の旭岳にはもっと登山客がいて、完全冬山装備の人からタウンシューズの人まで服装はまちまちだった。旭岳の雪の下の茂みでは、すでにシマリスが冬眠でもしているような懐の深さで私たちのことも迎えてくれた。夫婦池や姿見の池など点々とある池には十勝岳同様曇り空に遮られて山の姿を映すことはなかったけれども、人の心を映すような澄んだ趣があった。

それでも人々は雪降る寒さにかじかみ足早に山を去りゆくのだが、旭岳の登山客の多さは人里にいるようで、登山客に十分な安心感を与えているようだった。

私が姿見の池を越えたところで見つけた山小屋はオキーフの絵に出てくる小屋のような暖かみのある存在感だった。実際石室の中に入ると、中は外の吹雪から完全に遮断された静けさでほのかな暖かさを含んでいた。それはたどり着くことのなかった十勝岳の避難小屋がかえりみられることのないようにぽつんと雪の中に建っているのとは対照的だった。

私は数日後、昼間でも閑散とした買い物公園を歩きながらこの二つの小屋を思い返したとき、雪山を登るような苦境のなかで十分な冬支度もなく福島を離れる人たちのことが頭に浮かんだ。こんな不況で打ちひしがれた街でも福島を離れる人々にとっては石室の暖かさを感じるかもしれないと思いながら、昼の日差しで照らされたトランペットを吹く男の彫刻を通り過ぎた。

2011年10月2日日曜日

虹のある美瑛

昨日に続き今日も雨は降っていた。

車で美瑛に向かうと、ジャガイモやそばの収穫を終えたパッチワークの丘は花が風になびいていた夏の景色とは打って変わって昨日からの雨を含んだ黒い土が剥き出しだった。それでもうねる波のような丘に続く田畑の幾何学的なかたちはそれほど人工的とは思えず、棚田のように人里と一体になっていた。そして、私の目に最も目立っていたひまわり畑は黄色い花が満開で、その近くにかかる虹を一瞬見逃すところだった。

冷たい雨のなかにかかる虹はその珍しさと相まって、ひまわり以外にそれほど目を奪うもののなくなった美瑛の丘に君臨するようにかかっていた。地元の人はいざ知らず、観光客らしき人は車を止めてわざわざ外に出てきたり、そうまでしなくても窓を開けたりしてその虹に見入っていた。

それでも、多くの人が足を止めるこの自然現象も私の足を数分とめるに終わり、私はより地中に根を張るようなどっしり感のある十勝岳へと向かった。

この季節の十勝岳は、望岳台のあたりまでは多くの観光客も足をのばすだが、さらにその上までとなるとこの雪と寒さでは抵抗があるらしく、歩き続けるのは私たちだけだった。旭岳が森林限界を超えても数々の植物が地面を覆っているのとは異なり、十勝岳はまったくの岩山である。寄り添うもののないこの岩だらけの山は、寒さと雪の中ではあまりに登るが心細いようだった。

しかし、一見殺風景な十勝岳は、前方を向いて歩いてみるとほどなくして桜島のように優しい様子をした山であることを発見するようになる。そして、少し休んではまた登り、少し休んではまた登りと、なぜか足を前へと進ませる。ここに来るまでに見たほのかな紅葉と薄茶色っぽい岩の色、そして雪をかぶった山の色は、まるで火山の熱とダイレクトにつながる温かみを帯びているようだった。

母と夫と私の三人は、他に誰もいない登山道を岩に塗られた黄色い印だけを頼りに目標の避難小屋近くまで歩いた。休んでは歩くを繰り返すも、私は体温が低下を始め足の動きも鈍くなってきたことを感じ、私たちはやはり冬将軍の前に避難小屋までたどり着く前に下山を余儀なくされた。そして、下りに方向を変える前に下界を見下ろすと、右側に見える一番高い山が旭岳だと母が言うのだが、すでに周囲は雪煙が白く大気を埋め尽くして向こうの旭岳は眺めなかった。

母は身体が冷える前に下りるのがコツだと、私たちより歩きなれているはずの十勝岳の道を私たちを残してとっとと降りていった。太り気味の夫はウィンドブレーカーを自分の汗でぐっしょり濡らして、私は望岳台に戻る頃にはすっかり手足が震えながらも、みな無事下山できた。

この日十勝岳の頂を望むことは一度も出来なかった。しかし、麓から山につながる景色は下界を見下ろしたときに雲の隙間から漏れ落ちる日光がスポットライトを当てるようにそこだけ街を照らし、まるで絵画のような眺めでとても美しかった。

こうして私も登山の魅力をほんの少しだけれども垣間見るのだった。


美瑛のひまわり畑


虹のかかる美瑛


十勝岳望岳台にはこうして雪があった


頂上の方はさらに雪

下界を見下ろした時の風景

一目散に下山するピンク色の服を着た母

鬱蒼とした曇り空

雲の切れ目がはっきりわかる

避難小屋の手前あたりはこうして大分雪が積もっていた

2011年10月1日土曜日

鳴らない鐘と真新しいトレッキングシューズ

10月1日に旭岳に行くとすでに雪景色でとにかく寒い。それでも全国各地から観光客が訪れ、登山道を歩いていた。
旭岳に向かう途中にある湧水の流れる遊歩道。
澄んだ空気は格別だった。

ロープウェーを降りるとこうして雪が積もっていた。
それでも姿見の池目指していざ出発。

満月沼


姿見の池
靄がかかり旭岳は映らず、、、

こうした泥濘の道を歩くこと1時間半くらい。
無事姿見の池をまわって帰ることができた。

木々が程よく色づく頃、すでに旭岳には雪が積もっていた。そして、シマリスがその懐で冬眠にでも入ったかと思うような低木がまるで苔が生えるように地面を覆いつくし、リスがいるはずのその下は雪で覆われてなかなか覗くことができなかった。

そんな低木の花道を歩き続けると、姿見の池までたどり着くのに幾つかの池を通ることになる。私は池が出現するたびに、せっかく来たのだからとポケットからカメラを取り出し池の姿と池に映る旭岳の姿を撮ろうとするのだけれども、手はかじかみうまくシャッターを押せず、せっかく写真を撮ったものの池には靄のかかる上空しか映っていなかった。

寒さの支配する静まりかえった旭岳には夏に来た頃に比べてがっくりと登山客は減っていた。それでもいくらかの観光客がそれぞれに寒さ対策をしてロープウェーを降りると、登山道を歩き始めた。そのなかで姿見の池まで行くものは僅かではあったけれども、そこにたどり着いた人らは必ずといっていいほど記念の鐘を鳴らしていた。

私がその鐘を鳴らそうと弓なりにしばれたロープを引っ張るも、なぜか鐘を鳴らすことができなかった。私はそれを、きっと今しがたロープが凍ったためだと思いあきらめて下山を開始したが、その後団体観光客が歓声とともに鐘を打ち鳴らすのを背後で聞いて、どうしたものかと訝しく思った。

なにかすっきりしないものが胸に残りつつ下山の道を歩き続けると、ロープウェーの駅舎が見える頃にはみぞれが滝のように降り落ちては顔にぶつかり、鳴らすことができなかった鐘への心残りを払拭していくのだった。

東京からの観光客らしく、私は真新しいトレッキングシューズをこの日履いて泥濘のなかを歩いた。今年初めて体験する霙は、このトレッキングシューズを買ったときの喜びとどこか似ていた。