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2011年3月31日木曜日

2リットルの水

再検査の結果を聞きに病院に向かうと、その途中の公園では春休みを楽しむ子供たちの無邪気な遊び声がいくつも聞こえた。その声は不安を知らず、心の底から遊びに熱中している響きだった。アレバのÇEOが来日してサルコジ大統領も到着して、慌ただしいところでは慌ただしいのに、この日の近所の公園は、いつもどおり平和な様子だった。

ところが公園から数百メートル歩いた橋のたもとでは、老人の男たちが寄り集まってぼそぼそと何かを話している風だった。幼い頃に世界大戦を経験してその後の豊かさを満喫したのかも知れない彼らは、計画停電やら放射能やらに頭を抱えているのか、ただ単に老いと格闘しているのか、公園の子供たちのような明るさや活気は失われ、決して楽しそうではなかった。首の上に笑顔はないだろう。

駅構内は節電のために大分照明が落とされ、ホームはトンネルのように薄暗かった。しばらく電車を待っていると、気配を消したように真っ暗な電車が現れ、それはガタンゴトンという走る音がなければ電車が来たことにも気づいだろうと思われるほどで、闇の運び人のようだった。

不気味ではあるけれども、闇の中に乗り込んだ。すると、闇の中では人々の活動が低下するらしく、みなただ呆然と目的地に着くのを待っているようだった。夜目がきかない人間の限界かと随分力なく思われた。ところが電車が発車してトンネルのようなホームを過ぎると、その沈鬱な空気を破るように太陽光が注がれ、その瞬間、心なしか人々の表情も和らいだようだった。

太陽の光だけを頼りに進む病院までの道のりの途中で、駅から地上に出て信号一つ渡れば病院に入れるというところで、次なる難関がやってきた。雨である。

しかしそれは至って小雨で普段ならさほど気にしない程度の降雨なのだが、道行く人々は、バサっとフードを被ったり、頭の上にかばんをのせたり、マフラーを頭に掛けたりと、恐らく放射性物質を含んだ雨を警戒してのことと思われるが、とても平和な光景とは言えない動作の連続だった。

私はほんの少し雨粒に当たっただけで動揺が走り、信号一つの距離を、この小雨のために、というより放射性物質への恐怖がために、持っていた折りたたみ傘を開いて数十歩歩いた。病院は目の前だった。

病院内は、駅構内の光景をそのまま再現したような薄暗がりだった。外来患者の数はめっきり少なく、再検査した3週間くらい前の半分以下と思えた。実際、前回は待ち時間が2時間だったのに対して今回は40分程度だった。照明が落とされ待ち患者の少ない待合室では、それでも自分が来たより後の人が先に診察を受けているのはどういうことかと看護師にクレームを言っている患者がいた。これには随分平和だと思えた。

再検査の結果、悪性の何かではないということがわかり、束の間の安らぎを得たけれども、帰りに水一本でも買えればいいのにと4軒のコンビニに寄るも、どこでも2リットル入の水が品切れであることに、やはり平時ではないとの印象を強めた。

帰り道、日当たりが良くて他より早く咲いた桜の花びらを触ってみると、とても水々しく感じられ、生きた心地がした。でも、この桜の木は一歳の赤ん坊が保護者から一方的に与えられる栄養を取るように、この土壌から水を吸い上げることに対して選択する余地などないのだと思うと、なにか後ろめたいような後ろ髪を引かれるような、すっきりしない気分になった。

そしてその気分を引きずったままに、アルプスの向こうに亡霊のごとく浮かぶ富士山を眺めながら家に帰った。

2011年3月30日水曜日

ひまわり

放射性物質にすっかり心も生活も乱され、ガイガーカウンターを見ながら換気することにいい加減嫌になってヤケクソになりつつある日々(もう相当キレてきている)。もう若くないし放射線なんて気にしなくていいんだと思いっきり洗濯物を外に干したかと思うと、放射線を通しにくいマスクを買って用心してみたり、生協の宅配でようやく届いたトマトやきゅうりの産地がどう考えてもそれなりに放射性物質が届いている地域で愕然としたり。北海道の母がそんな野菜不足を見越してか、先日水と一緒に送ってくれたきゅうりと大根の漬物をバリバリ食べながら、ソフィア・ローレンとマルチェロ・マストロヤンニ出演の『ひまわり』を観た(1970年イタリア映画、監督ヴィットリオ・デ・シーカ)。

ストーリーは、第二次大戦で引き裂かれたジョバンナとアントニオの夫婦の物語だ。昨日観た『ああ結婚』同様、裏切った裏切られたともつれるなかで、妻の方が必ず芯を貫きそれに引っ張られるようにして夫の方も人生を決断していくという、イタリアではやはりマンマは強いのかと思わせられる展開だ。

『ひまわり』はあまりハッピーエンド映画ではないが、サスペンスを見ているようなスリルがあった。ジョバンナが、ソ連に戦いに行くも終戦後も戻ってこないアントニオを、それでも絶対生きてると信じソ連に探しに行くところなど、ジョバンナはどうなってしまうのか~っと目が離せない。次はどうなるのか、その次はと、本当に最後まで目が離せなかった。

公開当時は日本での評価は高かったものの、それ以外の国では良い評価を得られなかったことを残念がっているソフィア・ローレンの語りを聞いたが、私には傑作だった。

戦中、戦後のシーンはどれを見ても今の被災地に重なり、重い現実が頭の片隅に常に残る映画観賞だった。

2011年3月28日月曜日

桜開花

都心で桜の開花宣言があったとニュースで見た。

近所の桜はまだ開花してなかったけれども、蕾からピンク色の花びらを5分の1くらい見せていた。これから咲こうとする蕾ははち切れんばかりの勢いを感させるものがある。

コブシの花も咲きボケも徐々に咲き始め、山ではサンシュユの黄色が緑のなかで異彩を放つ季節だ。この分かりやすい景観の変化は普通なら春の喜びだけれど、今年はなかなか花見といかないのが残念だ。

去年見た小石川後楽園や六義園の桜はきれいだった。

いつかまた見に行こうと思う。

2011年3月27日日曜日

おいしい水

スーパーなどから水が消えて困っていたここ数日だが、北海道の母が水を送ってきてくれた。老体に鞭打って、ある酒造で母自身が汲んできたという水である。

この水がとてもおいしいのだ。

大地震後、何かを口に入れて美味しいと思ったのはこれが初めてだ。一端京都に疎開したときに食べた和食は確かにとてもおいしかった。しかし、その美味しいとは違う感覚で、より感動が大きいのである。環境が悪化したなかでは、水などのより生きることに必要なものほどおいしく感じるのかも知れない。

人生でこれほど水をおいしいと感じたことはなかったと思う。

ここ数日は水節約のため、今までは波波と水を注がれた器で水分をとっていた我が家の猫も、飲み切るまでつぎ足されないという目にあっていた。これで猫にも存分に飲ませてあげることができ、本当に良かった。

2011年3月26日土曜日

ソンタグが生きていたら

スーザン・ソンタグの『良心の領界』を読んでいると、2003年3月1日の『デア・シュピーゲル』インタヴューで、「・・・私はサダム・フセインが失脚し、殺されることを強く望んでいます。・・・」と述べている箇所があり、目にとまった。ソンタグは時に矛盾しているように見えるが、それでも一貫した強さーある一定のテーマの問題が社会で起きるときちんと首を突っ込んでいくことをやめないという強さーだけはやはり貫かれている一冊だった。

心配性の夫は放射性物質による汚染の広がりと生活への影響を考えることにさすがに疲れの色が見えてきた。毎週食料を届けてくれる生協からはパンや牛乳、ヨーグルトや野菜が届かず、休日の今日近くのスーパーに買出しに行くも、やはりそこにもなく、シリアルや豆乳などを代わりに買って帰ってきた。この停滞した雰囲気は小さな地方都市で買い物しているようだけれども、私は地方都市が好きなので違和感はない。

数日前まではCNNとNHKで流す画像や情報が全く違ったが、昨日あたりから同じ内容になってきた。遅い。

スーパーで一定のものが品切れでも、現状を知ってか知らずかサッカー場では子供たちが元気に遊んでいた。公園でも同じく遊んでいた。その中に二人だけマスクをしている子がいて、あの子たちは親からマスク着用を促され、きちんと守っているようだった。

最悪の事態は免れたかと一端東京に戻ってきたが、東電エリアにいることはストレスでしかないことがわかっただだけの疎開帰りだった。そして今日も富士山は見えない。一昨日、鳥羽から伊良湖を目指したフェリーからの眺めはすっかり私の心に響かなくなったけれども、家で猫と一緒に目覚めることは、私の人生には必須だ。

北海道にいる母が酒造で湧いている水を送ってくれたという。いつも電話で罵り合っているけれども、こういう時はありがたい親の存在だった。

2011年3月25日金曜日

鳥羽から伊勢湾フェリーで伊良湖へ

昨日伊勢神宮の参拝を終え、今日は鳥羽の海を見ようと近鉄賢島行き電車に乗った。20分くらい山の中を揺られて鳥羽駅についてみると、目の前に小さな入り江が見え、ミキモト真珠の看板が立ち、伊勢とは趣を異にする町だった。

ちょっと前に伊勢湾フェリーがなくなるという話があったのが、なんとか踏みとどまって現在も運行を続けていると聞きつけ、東京に戻る方法として、フェリーで伊良湖へ行き、豊橋から新幹線に乗ろうと考えた。

鳥羽の町は市民一丸となって(いるかどうかはちょっと立ち寄っただけの私にはわからないが)観光に力を入れている様子が見え、どっちに行こうかと駅前をウロウロ歩いていると、地元のガイドの方がどこに行くのか訪ねてきて、海を見たくてというと、あっちに行って右になどととても親切に案内してくれた。それは鞆の浦での経験ととても似ていた。観光客の数は伊勢神宮に比べ格段に少ないが、鳥羽城のあった町としての誇りを失わないような強い意識を持っているとの印象だった。

ガイドさんに案内された通りに行くと海沿いに小さな公園を見つけることができた。そこでしばし座って、東京の福島原発放射能物質にすっかり生活を乱されてテンテコマイの夫に今日一端疎開を終えて東京に戻ろうと思うと電話すると、相変わらずテンテコマイの様子だった。きっと彼は放射能物質による弊害の前にノイローゼになるだろうと思い、その慌ただしさと不安感がこちらにもすっかり感染するのだった。

それでも目の前の穏やかな緑色の海に視線を向けると、そんな東北関東の混乱が海の向こうのずっと遠いところの出来事に思えて現実味がわかず、二つの現実を行ったり来たりしているような感じだった。

ところが、右側の鳥羽城跡の小高い石垣を眺めながら700メートルほど海沿いを歩いてフェリー乗り場の待合室で座っていると、NHKが流れるテレビで放射能がどうとか乳幼児には水は飲ませるなだとか、メーカーに水の供給を要請しているだとかと、これから向かう東京の現実の厳しさがひしひしと脳のなかに滲み入ってきて、ストレスがどっと増した。
鳥羽城跡の石垣

それでもフェリーに乗り込むときに肌に吹き付けてくる冷たい潮風が一瞬にしてそんなストレスを持ち去ってくれたので、電車ではなくフェリーに乗ることを選んで良かったと思った。

船が進むときの波しぶきは二階デッキまで上がってきて顔に冷たい海水が当たった。客室の中で窓越しに見る風景とデッキに出て窓を通さないで風や海水とともに味わう眺めとでは大違いだった。白い波はアイスクリームのようだし、漁業を生業にする島らしく、遠くには小さな漁船がいくつも浮かんでいた。伊良湖に向かう途中で通過する島があると、アナウンスで〇〇島ですと案内がかかるのだが、アナウンスが始まる度に船の規模の割に少ないけれども乗っている観光客はデッキに出てカメラを構えていた。伊良湖港では漁船のみならず、釣りをしている人もたくさんいた。

伊良湖港から豊橋駅に向かうバスに乗るのは私だけだった。運転手さんは親切で、バスを待つベンチで弁当を食べている私に声をかけてくれ、ここにはゴミ箱がないからあそこの黄色い自転車のかごにいれておけば清掃の人が捨てておいてくれると教えてくれた。のんびりしたゆとりのある伊良湖の旅の始まりだった。

バスに乗って30分くらいは菜の花畑だらけで、菜の花栽培が盛んな土地であることを初めて知ることとなった。その発見は、晴天で黄色が光輝きとてもきれいだった。そして菜の花以上に面積を占めていたのがキャベツ畑で、収穫前のキャベツと収穫後のキャベツの跡がいたるところに残っていた。

海を離れ農村を過ぎると住宅が立ち並ぶ地域に入っていった。そしてここで伊良湖初となる猫を車窓から見ることになり嬉しかった。グレーと黒のアメショーのような柄の猫で、恐らく自分の家の玄関前だろうが、ちょこんと座っていた。

伊良湖は海だけあって風力発電の風車がたくさんある。これを見る度にやはり福島原発を思い出し、無力感に襲われるのだった。

乗客が私一人だったバスも、住宅街に入ると停留所に停車する度に徐々に徐々に地元の人が乗ってきた。そして偶然顔見知り同士が乗り合わせたらしく随分と話が弾んでいた。相当お年を召したおばあちゃん二人で、戦争の話から始まり昔話に花を咲かせ、ここで出会ったのも何かの縁ねで締めくくり、一人の方が途中のバス停で先に下車していった。おばあちゃんの会話が終わり、すっかり静かになったバスに乗り続けていると、またもや菜の花畑とキャベツ畑が現れて、またまたずっと続いた。関西でもそうだったが、当然伊良湖の人たちも東北関東大震災にはあまり関心はないようだし、見る限りなんの影響もなく暮らせていることがとても平和に見えた。

それが田原駅あたりからは近代的な都市の景観が始まった。立体駐車場に中層階のマンションがあり、チェーン店の看板が至る所に目立ってきた。そこから終着点の豊橋まではどんどん近代都市らしさが増す一方で、今までの菜の花とキャベツは何だったのかと思う変化だった。

豊橋から新幹線に乗ると、もう東京に着いたのと同じ気持ちになった。スーツ姿のビジネスパーソンに、放射能物質について携帯であれこれ話す人々。

夫の実家に疎開して、ついでに大阪、伊勢神宮、伊勢湾フェリーと楽しませてもらった。かわいい猫と心配性の夫の待つ家へと早く帰ろう。
鳥羽港を後にした伊勢湾フェリー
向こうに見えるのが鳥羽港

伊良湖に向かう途中の島々

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伊良湖港に入っていくところ

こうして伊良湖港から漁船が出て行く

伊良湖港

伊良湖の菜の花畑

2011年3月24日木曜日

難波から宇治山田~伊勢神宮

大阪から伊勢神宮を目指すべく、近鉄難波を出発して大和八木で賢島行きの特急に乗り換えた。


大和八木までは町屋のように壁が触れあうような住宅が並ぶ光景が多く見られたが、大和八木を過ぎてややもすると田畑が広がり始めた。と言っても山間を走る電車の車窓からの眺めは、瓦屋根の集落が田畑に混じって谷間を埋めているという縦長にはどこまでも続くけれどもそれほど広いものではなかった。

周囲の山々が比較的低いとはいえこれだけ山と住居が隣接しているのは、熊がでるだろうとか蛇がいるのではないかなどと、私にはちょっとした恐怖だった。数日前に行った同じくらいの標高(に私には見えた)の山に囲まれた亀岡ではアライグマや狸が出ると地元の人が言っていた。亀岡よりもっと山が近いこれらの集落で野生動物が出てくるのは言わずもがなではないだろうか。

それにしても、名張あたりまでに見える棚田の景色はとても美しかった。棚田は平らな田圃より労力がいるというが、労力が必要なものほど傍目には美しく映るものなのかもしれない。

山が間近なところを電車が走ると落葉樹と針葉樹、常緑樹の違いが鮮明にわかり、落葉樹は枯れ木のように白みを帯びてすかすかで、随分風通しがよさそうに見える。まれに梅の濃いピンクが見えるのは一本だけそこにあっても一瞬で通り過ぎるためにきれいだなどと観賞する暇なく通り過ぎるのだけれども、はっとする変化を脳にもたらし、より山景色に注意力が向かうのだった。

こうして2時間強の電車の旅を楽しみながら、ようやく宇治山田に到着した。伊勢が近づくにつれて緑たなびく稲穂(に見えるが季節からいってどうなのか)が風にそよぎすがすがしかった。畑の土は、このあたりは乾燥しているこの日だと白っぽい灰色に見えた。

宇治山田からは、早速バスで外宮へと向かった。

豊受大神宮はまさに神話の世界だった。明治神宮などよりもっとずっとつくられた神域で、非日常の極地だった。ある種ディズニーランドくらいの別世界だ。大体仕事中の神主はコスプレに見える。でも、こういう場が人間にはきっと必要なのだろう。だから2000年も続いてるのだ。


外宮からはバスで内宮に向かったが、途中にある宿泊先の神宮会館で荷物を預け、身軽になったところで内宮に向かった。神宮会館から徒歩で5分ほどのところだ。

内宮は外宮より参拝客が多かった。これが天照大神のパワーかと思うほどに、みな真剣そのものに手を合わせていた。参拝客の特徴としては、先日行った四天王寺が年輩の人が多いのに比べ、伊勢神宮は若い人がとても多かった。

外宮の後だったためにこの雰囲気に慣れたのかもしれないが、内宮は外宮よりも非日常感が少なく感じた。ぶっとい見事な杉の木が通りのいたるところに生えていてそちらに意識が行くからかも知れない。私はなにより五十鈴川の美しさに見とれるばかりだった。境内のある箇所では川に手を入れられるほどまで近づくことができるのだが、水はやや冷たく、外宮内宮と歩いてからだが暖まっていたので気持ち良かった。

あのいちいちある白石に、本当に芸が細かい伊勢神宮だと思った。

そしてなにより内宮前のおかげ横丁で会った猫がかわいかった。

宿泊した神宮会館は、値段のわりにとても過ごしやすい宿だった。私のプランは部屋に風呂がないため大浴場を利用するのだが、部屋にもドライヤーがあったりと、宿坊としては至れり尽くせりの備品だと思った。
以下外宮の風景




馬は人気者だった
草音号




以下内宮の風景

五十鈴川


御正殿

ここでも馬は人気者
晴勇号

川も石畳

おかげ横丁にいた猫

猫も人気者

神宮会館の夕食



2011年3月23日水曜日

大阪散策・続き

心斎橋の大通り沿いにはカルティエなど高級ブランドのお店が目立ち、銀座のような印象だった。ところが一筋入ったところにある心斎橋筋のアーケード商店街は、原宿や渋谷の年齢層の若者たちでいっぱいだった。お店も高級店ではなく、ジーンズメイトやABCマートなどで若者向けだ。

そしてここで偉大な発見をした。ホームレスらしき人が家財道具の入っているらしいカートを押す上に、二匹の猫がいるではないか。疎開して初めての猫との対面に嬉しさが沸き起こった。実際には亀岡の大本教本部のある公園で遠目に一匹の猫を見かけたし、大阪城公園ではどう聞いても猫の鳴き声というニャーという声を二回聞いたのだが、いずれもきちんと目に納めるほどに至らなかったので、これが実質上疎開後初対面なのだ。とてもかわいくて、通る人通る人、猫好きは必ず釘付けになっていた。

その後心斎橋筋を難波方面に歩き続けると、誰も興味を示さないのだけれども随分古いつくりの建物を見つけたので入ってみることにした。お寺だったのだが、広くはない境内には誰もおらず、私一人での参拝となった。三津寺という総本山を仁和寺とする真言宗御室派のお寺で、744年創建という歴史の古さである。
心斎橋筋で


三津寺

三津寺をさらに難波方面に歩くと、大通り沿いの様子も変化して、道頓堀が見えてきた。これがテレビでよく見る道頓堀かと観光気分度が急上昇した。大阪は景気が悪いというが、若い人はとても元気だ。天王寺でも思ったが、おばちゃんもおっちゃんも不況なりに威勢がいい(から元気ともいう)。これが大阪の良さなのだろう。

その後ホテルに戻るつもりがまたまた寄り道をして、阿波座で中央線に乗り換えて大阪港まで行ってみることにした。結局終着駅のコスモスクエアまで行き、ほんの少しだけだけれども日暮れ前の海を眺めることができたのだが、波が静かでやや肌寒い港だった。難波の方からこちらまで移動してくると、途中から住宅街が広がり、大阪港界隈では高層マンションと宇宙ステーションのような高速道路と観覧車が目立っていた。
 
コスモスクエア駅から

今日一日で私が乗った大阪の地下鉄は天満橋での乗り降りを除けばどれも空いていた。ところが今度こそ新大阪のホテルに戻ろうと地下鉄に乗ると通勤ラッシュにぶつかり、つい先ほどまでガランガランだった駅のホームが人で溢れていた。そしてそれ以上に地下鉄の車内は乗客たちが、ようやく肩がぶつからない程度に立っていられるくらいの混雑ぶりだった。ただ、乗車時間が短いのでそれほど苦ではなかった。

今回はノーマイカーフリーチケットがとても役立ってくれた。噂通りのにぎやな大阪での一日だった。

2011年3月22日火曜日

大阪散策

高校の修学旅行で関空を利用して以来初めてとなる大阪を散策することにした。最初に行ったのは四天王寺である。

宿泊した新大阪のビジネスホテルから御堂筋線、谷町線と地下鉄を乗り継いでやって来たものの、最寄り駅の四天王寺夕陽ヶ丘に降りても大きなお寺の雰囲気とはほど遠い中層階のビルが並ぶビジネス街にしか見えずやや戸惑ったが、四天王寺への矢印がある方向へ向かうと程なくして参道が現れ、両側には土産物屋が並び、それまでとは打って変わって人が多くなった。四天王寺の境内に入っても人が多いことに変わりはないが、青空市のように出店が多く随分と庶民的で、ここ数日間京都のお寺を見てきた私にはちょっとした驚きとなった。そして都内で見る価格の半額くらいだった屋台のやきそばなどにはさらに驚いた。大阪のすごみを見た気がした。

亀井堂では経木流しが行われていてひと際人が多かった。それは本当に経木が海に流れていくようだった。その後宝物館と本坊庭園に行ったが、有料だからか境内の賑わいに比べてこちらはほとんど人がいなかった。
亀井堂

本坊庭園は、地獄を通って最後は極楽浄土へというシナリオが組み込まれた造りの庭園なのだが、地獄の部分も極楽の部分も私にはすべて居心地よく楽しめた。順路通りに行くと最後に方丈が出てきて入り口正面の壁絵を楽しめるのも嬉しい。そして方丈の縁側の前に広がる補陀落の庭は、それまで続いてきた庭以上に良かった。和風建築に囲まれたこぢんまりとしたこの庭はとてもシンブルで、梅のピンクと椿の赤が明るいアクセントとして彩りを添えていた。誰もいない縁側に座り、ずっとその光景を眺めるのは随分な贅沢に思えた。
本坊庭園


実は貪欲にそこそこ観光をしてきたことが祟って、大阪に着いたときにはフラフラだった。そして四天王寺に来るときもやはりそのフラフラ感は続き、地下鉄の乗り換えを間違えるなどのミスをおかしながらもお寺に着くと、ボーッと境内を歩き、ようやくこの浄土の庭にたどり着いたのだった。いろいろな菩薩や如来を見ているうちに大分正気を取り戻したように思えたが、誰もいないこの庭園が一番の私の落ち着きとなったと思う。大阪の人はこの手の庭園にはあまり興味がないらしいが、逆に人がいなくて私には幸いだった。
方丈

補陀落の庭

その後、大阪の町を見て歩こうと四天王寺を出ていく人の流れに沿って一緒に歩いていると、いつの間にか天王寺商店街に出た。人の多さのわりに道幅が狭いために、行く人と来る人で押しくらまんじゅう状態が続き、どでかい声で声かけをするあんちゃんがいたり、怒ってるんだかただ単に説明しているんだかわからないおっちゃんからおばちゃんが妙に納得顔で買い物をしていたりと、これが大阪でものを買うということなのかと実感しながら、やや怯えつつJR天王寺駅まで歩いた。昼時でお腹が減ってきたために地元のレストランにでも入ろうと思ったが今一つ勇気がわかず、意を決して入ったところは満席で、結局ドトールでランチを取った。ちょっと情けなかった。
 
五智光院

ハトがいっぱいの石舞台


その後地下鉄谷町線に乗り天満橋で降り、大阪城公園を目指した。駅の周囲は完全に官公庁街でありオフィス街であるが、大阪テレビ、日本経済新聞を過ぎて数分歩くと京橋が登場して公園が見えてきた。

巨石からなる石垣は皇居の石垣に負けずとも劣らない迫力で、まずその石垣に圧倒される。そして内堀を渡って天守閣に向かうも、広くて歩けど歩けど天守閣にたどり着かない。微妙に上り坂なのも疲れる要因となった。公園内は皇居と同じく地元の人らしき人が数多く散歩したりベンチで休んでいたりで、広く市民に親しまれている感があった。

金色の装飾が施された天守閣はその金が故にとにかく遠目にも目立つ。そして間近に来てみるとやはり金が際だつのだが、前の広場には観光客が多くて、これだけの人を呼ぶにはこれくらいきらびやかであることが普通なのかもしれないと、妙に納得してしまった。疲れたので天守閣には入らなかったが、外から見るだけでも十分満足できた。
内堀

天守閣

天守閣付近から見る大阪の街は、高層ビルの数は全く違うが皇居から見る大手町や東京駅あたりとあまり変わらないと思った。どんどん再開発が進んでも、こうした大きなお城は残るらしい。

天守閣から大阪城梅林へと降りていくと、種類によっては満開の梅の木を見ることができる。降りていく途中で見る梅園は、その先に広がるビジネス街の手前にあるにもかかわらず、散った花びらも多いこともあって小さな存在感しかなかったが、梅林の中に身を置くと、一つ一つの花の美しさに驚かされた。
梅林




その後桃園にも寄って地下鉄長堀鶴見緑地線の大阪ビジネスパーク駅から心斎橋乗り換えでホテルへ戻ることにした。ところがせっかくだからと心斎橋で降りて街を歩いてみることに、、、続く。

桃林


2011年3月21日月曜日

亀岡・京都

以前都庁に行ったときに亀岡市観光フェアがあり、亀岡も観光に力を入れ始めたのだなと思ったことを思い出した。そこで疎開で京都に滞在中の今回、亀岡駅付近を散策してみた。


亀岡の観光の中心は、明智光秀に始まる亀岡城から連なる城下町のようだが、今は亀岡城跡は大本教の本部になっていて、境内は公園として市民が自由に出入りできるようになっている。通りからも見えるのだが、この季節は梅園がきれいだ。
大本教本部(「おほもと」とある)

城の南側には呉服町や京町など、いかにも小京都らしい地名があり、古世地蔵堂や天満宮、少し東に行くと祇園社がある。このあたりは歩道が整備されていて歩きやすく、確かに観光客を意識した街づくりに尽力したことが伺える。そして酒造や町家が残り、蔵や白漆喰、犬矢来などでつくれたタイムスリップしたような昔ながらの景観の町並みを楽しむことができる。けれども残念なことに、わりと近い嵯峨嵐山などに比べると、いや、比べなくても、圧倒的に観光客の数は少なく、私たち以外に観光客らしき人は一組しか見かけなかった。
八坂神社

古世地蔵堂

丹山酒蔵

城下町を離れて車で市内を走ってみると、亀岡には駅を離れたところにも古い建築のままの民家が多く残っていて、風情がある地域がたくさんあることがわかる。しかしそれらの地域は観光を全く意識していないので、用水はありのままの姿で道路脇を流れており、狭い道をけっこうなスピードで車がしばしば走っていくために、そしてヨソモノが歩いていることに町の人が気づくと、誰だ?という疑問の視線が飛んでくるので、他の市だったら保存地区にでもして整備するであろうと思えるようなせっかくの古民家群だけれども、観光気分でゆっくりとはなかなか歩けない(私は)。

亀岡は低い山々に囲まれた小さな盆地で、昼になっても霧がかかっていることも多いが、周囲が低い山のために閉息感は感じられず、田園風景と古民家と霧の重なりは亀岡ならではの風景で美しい。嵯峨嵐山などではなかなか味わうことのできない農村地帯独特の閉鎖的雰囲気に触れるのも、カルチャーショックとしてはいいと思う。なにをしていたのか、おばあちゃんが用水から急にむくっと出てきたはときはおどろいた。とても働き者らしい。

因みに食べ物の名物はでっち羊羹という寒天でつくられた羊羹だそうだ。やわらかいゼリーのような触感で、歯が弱くなったお年寄りなどには好まれるのではないかと思う。


不況のことで頭がいっぱいで東北関東大震災にはさほど関心があるようには見えないこれまでの京都での三日間だったが、どれだけの実質的貢献があるかはわからないが亀岡駅前のイオンではマックのネオンサインがついてないなど節電していた。

でっち羊羹を買ったお店

この日は夫の両親につれられ『洛菜』という和食の料理屋さんでお昼を食べたが、とてもおいしかった。やはり京都の料理は芸が細かいと思わせられる品の数々だった。女将さん曰く、不況で誰もこない日もあって大変なんです、また来てください、とのことだった。

観光地としてはまだまだとの観が否めないが、京都の寺巡りに飽きた人はここの自然を満喫しに嵯峨嵐山や保津峡からさらに一足伸ばして来てみるといいと思う。
亀岡市を囲む低い山々


亀岡の田園風景

2011年3月20日日曜日

大覚寺・京都

京都のとある田園地帯に設けられたバス停で一時間に一本くるというバスを待っていると、人生初めての光景を目にした。鶏だか孔雀だかよくわからない派手な柄の鳥が、車道をとことこ歩いているのである。

疎開先に広がる田畑

バス停で見かけた鳥

こんなふうにウロウロしてる

でも、近所の人たちは気にする様子がない。これはこういうものらしいので、バスの到来と共に私はこの鳥とおさらばした。新鮮な経験だった。

嵯峨嵐山を観光して天龍寺をまわると、そこから1キロちょっと離れたところに位置する大覚寺へと向かった。途中までは人力車も多く土産物屋さんが軒を連ねていかにも観光地の様相を呈していた町並みも、数百メートル歩くとそれらはパッタリなくなり普通の民家が並ぶようになる。それでも嵐山、愛宕山と、あまり標高のない山々の連なりが穏やかな波のようにずっと続いて遠目の景色は素晴らしかった。

大覚寺は嵯峨天皇に始まるお寺ということで、その後も何かと天皇家と縁が続いていただけあり、どこか仁和寺のようなきらびやかさとおしとやかさが感じられるお寺だ。菊の御紋からそう思うのは言うまでもないが、襖絵などからもそれを思った。(野兎の絵はとてもかわいかった。)

大覚寺境内へ

今は梅が咲いている

境内の東に位置する大沢池の眺めはすばらしく、多くの人がじっと無言で眺め続けていた。周囲一キロの庭池なのだが、嵯峨天皇の地位をもってすればこのような贅沢きわまりない美しい池をここにつくることも可能なのだということが、この時代における権力と美の不可避的つながりで、その結果生まれた美に今現在自分が和んでいることへの喜びと同時に、栗林公園でも感じた権力への反感もすくなからず湧いてくるのを感じた。でも結局はその庭園美に見入っているのだから十分な恩恵を受けていると思う。
大沢池

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心経殿

左近の梅、右近の橘のしん殿

しん殿そのもの