ページ

2011年9月29日木曜日

フレンチレストランの方

フレンチレストランのソムリエをしている奥さんは、私たちが引っ越してしまったのか、健康を害したのかなどといろいろ心配してくれていたようだが、実はそれは我々も同じなのだった。

大震災後巷の消費はすっかり落ち込み、そこに放射性物質がからんで人々の外食ムードは一気に萎れた。私は都内を歩いていても以前行ったことのある店が閉店したのをいくつか見かけた。そしてそのたびに、わりと家の近くにある馴染みのこのフレンチレストランについて思うのだった。食材はきちんと調達できているだろうか、客足は私たち同様遠のいているのではないか、と。

それがお店に行ってみると、18席ほどのテーブルは満席で、玄関からチューボーを横切る時には恰幅のよいコックの亭主は相変わらず肉付きがよく、その奥のテーブル席を切り盛りするソムリエの奥さんは以前同様ハツラツとしていた。

私たちはこの様子にほっと一安心し、メインが肉魚両方つくコース料理を注文した。

カボチャのスープに始まりハーブティで終わるコースは、外食の際に食材の産地はどこかと何かと気にしてしまう私の重い気がかりを終始忘れさせてくれるおいしさで、味の良さでこんなにも心理が左右されることに私は驚きを隠せなかった。ストレスがかかっている時こそこういう贅沢は必要なのかも知れない。

私がそんなことを実感していると、夫はそれを気付いたのかもっと頻繁に来たほうがいいと言う。私も賛成だった。そしてとても優秀な夫婦の仕事ぶりに頭が下がる思いだった。

来年の私の誕生日には再びこの店に来るだろうと思いながら、私たちはスープに続いて豚肉のパテ、メインの金目鯛とホタテ、そして榛名鶏と食べ進めていった。彩と味わいを添えるミョウガやコーンがまた格別に美味しかったことを思い出すが、デザートを食べながら飲むハーブティのおいしさは温泉から出た後のようなほっこり感で、ストレスがかかってもより強いもので感覚を刺激すれば少なくともいっときはストレスから開放される効果があることをまざまざと実感した。

そしてその効果は数日経っても続き、それでも外食はしたくないとの私の体内に出来上がった抗体は戦意を見せてどこかの飲食店の店裏に茨城産のトマトのダンボールがゴロンと置かれているだけでこの抗体は戦おうとするのだけれども、それでも時にはおいしいものを楽しむ精神的メリットを学習し、おいしいものを食べているときは食材への不安は気にしないという回路が脳の中に出来上がっていることも実感するのだった。

これが生きる知恵だろうかと思いながら、ハーブティーを手に窓の向こうのフレンチレストランの方を眺めた。

2011年9月27日火曜日

ヒガンバナのように

昨日出かけた早朝散歩が清々しかったので、今日も目覚ましを5時にセットして早朝散歩に出かけた。

昨日より15分ほど早く外に出るとまだ暗く、それでも散歩をする人はちらほら見かけるものの、明るくならないとだめなのか犬を連れた人はいない。昨日よりやや静かな道のりを私は橋の方へと向かい、昨日と同様日の出を求めて東側に続く土手を歩き始めた。

すると数分して身体が温まって来たのを感じる頃、太陽の面影である薄光が雲の向こうから出てくるのがはっきり感じられるようになった。その後薄赤い光の中心が見えてくると、これを肌で感じるために散歩に出てきたことをひしひしと実感し、私の満足感は頂点に達した。

と同時に、私は昨日と違う柄をした猫、しかし姉妹なのか昨日の猫と似た体型と顔をした猫が土手の下からけもの道を通って上がってこようとするのを見かけた。しかし、私が猫のほうを見て立ち止まると猫は警戒して立ち止まる。私は猫の活動の邪魔をしても悪いと思い、顔を出してくれた太陽を地球の動きを感じながら眺めた。

それにしても、地球が球状で一定方向に回転しているとはこんなにもよくできた話なのか。そしてこのよくできた話も、すべては人類が生まれる前よりあった太陽と地球のおかげなのだから当たり前なのにとおかしく思いながら私は散歩を進めた。すると、向こうからほっそりしたおばあちゃんがなにやら急ぎ足で私の方へと向かってきた。

この物々しい感じはなにかと思ったが、おばあちゃんは私を素通りしてやや進んだところで早足を止めると、猫が上ろうとしていたけもの道の上のほうにゴハンをサラサラっと置いて去っていった。やはり昨日の猫を西側に突き動かしていたのはこのゴハンかと私は合点がいった。そして先ほど見た猫の狙いもゴハンだろうと推測した。

それを確かめるべく、私はおばあちゃんが去った後にけもの道の方へと戻った。すると、やはり猫はゴハンのところに来ようとしていたところだった。私を見るとまた猫は警戒してしまうので私はさっさと立ち去ったものの、太陽と地球の関係に劣らぬ人と猫のいい関係を見た気がして、早起きして良かったと重ねて思った。

早朝散歩を終えて一眠りすると、目覚めた時には散歩の時とは違う晴天が窓の外に広がっていた。一眠りしたもののまだ首の後ろ辺りに寝不足の疲れを感じながら、今日は夫の誕生日なので以前よく行っていた家からさほど遠くないフレンチレストランに夫と共に顔を出した。このレストランで2年ぶりとあるランチだった。

一軒家を改築して夫婦で営んでいるこのレストランは、手頃な値段でコース料理を楽しませてくれるところで、ソムリエをしている奥さんは私たちのことを覚えていてくれて、ずいぶん来ないものだから引越しでもしたのかと思ったと言っていた。クリスマスの時や、そしてつい最近も招待のハガキが家に届いていたのに、ずっとご無沙汰していたのである。

高脂血症を心配して食事制限をしている夫も、この日は解禁日でコース料理を食べ尽くし、ご満悦だった。以前と変わらぬ美味しさに私も満足だった。レストランという仕事を続けているからこその再会に、日の出の頃に太陽と再会するのとは違う人間社会らしさを感じながらフレンチレストランを去ると、私はその夕方に、再び太陽を求めて橋の西側に伸びる土手を散歩した。

川沿いの土手の下ではものものしい台風の爪痕が残っていた。草は風の向きに一斉に倒れ、直径40センチほどの木までが草と同じ方向になぎ倒されて、木の根ごと土から引き剥がされていた。私はその姿に自然の猛威を感じた。と同時に、数メートル離れた地中に根を残して生き延びる別の木の下でヒガンバナが数輪、風で倒されることなくまっすぐに咲いているのが不思議でならなかった。

二日連続の早朝散歩は私の身体に負担なようで、倒れた木を見る頃には私はよれよれだった。そしてその翌日には前々日からの睡眠不足を補うかのように昼まで寝続けることとなり、細くてもたくましく咲くヒガンバナのようにはいかず、早朝散歩を日課にするという私の夢ははやくも消え去った。

それでも私の中では日の出のエネルギーが信仰のようになにか強いものをもたらすことは確固たる事実だった。そしてそれはいつの日か再び私を早朝散歩にトライさせるのだった。

2011年9月24日土曜日

鐘のなる朝より

台風の後の都内はグッと気温が下がり秋の気配が深まった。私はその気温の低下に身体が馴染まないのか、せっかく押入れから出してきた羊毛布団を何度も蹴飛ばし、しばらくして身体が冷えてはかけ直すというのを数時間繰り返し、真っ暗な部屋のなかでとうとうスズメの鳴き声を聞くこととなった。

いつもなら寝ている時間なのに、光をほぼ完全に遮っていた遮光カーテンを開けると曇り空の下にほのかに明るい世界が広がっていて、久し振りに見るこの辺の明け方をなかなか悪くないなと見直すと、私はいつも夕方に歩くコースを散歩に出かけた。

夕方と同じくらいの明るさのなかを、夕方より格段に少ないけれども犬の散歩をする人がいるのをちらほら見かける。私が間近ですれ違った一組は気温14度のせいだろう、飼い主はすっかり上下長袖で朝の冷え込みを拒絶していた。しかし犬の方は夏に刈り上げた毛がまだまだ生えそろわないというのに寒さを物ともしない元気ぶりで、さぞ飼い主も大変そうに見えた。

そんな犬と飼い主を追い抜くと、私は東の空低くにある太陽を眺めて今日は姉の39歳の誕生日であることを思い出した。私は太陽に向かって手を振るとおめでとうと言い、そのまま橋の方へと向かった。

この橋を渡るといつもの私は西側に見える富士山に向かって土手を歩く。そして私はそのことを、富士山に向かって歩く方が川の風景もきれいだし何より富士山を望む眺めがいいからだとずっと思っていた。それが今日は反対方向である東側の川の下流に向かって歩き始めたのだった。そして私は、これまで自分が富士山を目指して歩いていたのは実は沈みゆく太陽を追うためであったことに気づき、今日は太陽を求めて足が自然に日の昇りゆく東側の空に向いていることを自覚した。

こうして私が自分にもたらす太陽の影響の大きさに畏怖の念を抱いていると、同じく太陽に影響されてか薄い茶色の肉付きのいい首輪をつけた大柄なメス猫が一軒家の縁側からおもむろに出てきて土手の下の道をゆたゆた歩き始めるのに気づいた。しかしこの猫は私が東に向かうのに対して反対の富士山のある西へと向かい、どうやら太陽よりもっと大きな影響をもたらす何かに突き動かされているようだった。

猫を突き動かしているのはゴハンだろうか、しかしあの毛のきれいさでは外でゴハンをもらっているようにも見えないのになどと考えながら土手を歩いていると、太陽はいつの間にか先程よりずいぶんと高いところに位置しているように感じた。川面ではカモや白鳥などの水鳥がそれぞれに活動している。そして名前のわからない灰色っぽい大きめの数羽の鳥がとても優雅に水面すれすれを低空飛行していた。

土手のアスファルトの道ではスズメが何羽も私の進行方向にいて、何かをついばんでいた。そしてこちらから私がスズメたちに近づき、向こうからも散歩者が近づくと、スズメたちは台風にさらわれるように一斉に川の方へと飛んでいった。そうしてスズメがいなくなったかと思うと、遠くからお寺の鐘の鳴る音が聞こえてきた。時計を見るとちょうど6時だった。

鐘が6時の時を刻む頃には徐々に外に人が出てきて、土曜の朝を私と同じように過ごしていた。お寺の鐘は一度鳴ったかと思うと念を押すようにもう一度鳴り、注意深く時を告げていた。この鐘の音と太陽を、39歳を迎えた遠くにいる姉も耳を澄まして聞き、じっくり眺めているだろうと思いながら、久しぶりの早朝散歩を終えた。

とてもさわやかな朝だった。

2011年9月21日水曜日

風に乗って

朝から台風の空模様で、午後になると大粒の横なぐりの雨が窓ガラスを叩き始めた。寝ている猫の目も覚ますこの風雨は時間を追うごとに強くなり、夕方近くなるとテレビの音も聞き取れないほどに勢いを増した。

この台風の風に乗って私の思いは東海へと進み、まだ降り立ったことのない名古屋を越えて長崎へと向かった。バラやチューリップが家々や観光名所の花壇を埋める去年の5月のことを思い出したのだ。

猫の額ほどの出島の小ささに驚きながら、出島より海側にある出島ワーフでトルコライスを初めて食べたときは、海外との窓口が海に空にとたくさんある現在との差に愕然としたものだ。そして、長崎港の向こうを眺めては蝶々夫人の気持ちを考えてみたけれども性格があまりに違うので憤り、雨の多い軍艦島に無事上陸できたことを喜んだ。

新地に行ってみると、集会でも開いているのか中国人らしき人たちが湊公園にゴソゴソと集まっていた。まだまだチャイナタウンは健在である。それがグラバー園に行くと明治の雰囲気で、一見何食わぬ顔をして建つ洋館もどこかものものしい。このしたたかさの渦巻く丘の上には修学旅行生などの観光客がとにかく多くて、蝶々夫人の音楽が果てしなく流れるムードのなかで長崎港を見下ろしていた。

それも私が長崎で最初に行った平和公園では様子が違った。グラバー園にいるのと平和公園にいるのとでは不思議と私の気分も違うのだけれども、平和でなかったからこそつくられた平和公園の中は、神社や寺の境内のように厳かでありながら人が歌の練習を始めるほどにアットホームだった。木の茂みには猫がいて人の手によりゴハンが置かれていることに、より平和なものを感じ、この土地で地域猫がご近所トラブルになることなど私には想像もできなかった。

こうして長崎のことをあれこれ回想している間にも窓の外の雨と風は強くなり、わずかに開けている北側の窓から入る風が室内の扉をバタバタ動かすようになった。猫の方を見てみると、半日もこの状態で過ごしてきたことに慣れきったようで、布団の上で目を閉じてぐっすり寝ていた。

いずれ中国の旧正月を祝うランタンフェスティバルの時期にもう一度長崎を訪れたいものである。

2011年9月19日月曜日

観月とスポーツの祭典

連休の最終日も晴天で暑かった。それでも、近所のサッカー場で小学生がサッカーに勤しんでいるのを通りがかりの人が眺め見るほどの余裕がある。こうした夏の終わりに、中秋の名月なるものの意味が数日ずっと気がかりだった。


そんなことを考えているとは知らない夫は、子供たちがサッカーをする姿を見て、2020年のオリンピック・パラリンピックを都が招致したがっていて、実際に東京になりそうだとつぶやいた。そして私はこんな蒸し暑い東京でやらずに札幌・旭川でやればいいのにと不満をもらした。そうすれば観光客もたくさん来る。

数ある満月のなかでも中秋の名月だけ観月を楽しむ習慣があるのは、毎年やってもいいのに4年に一度しか開催しないオリンピックのようなものかもしれない。敢えてもったいぶることは、それを楽しむ瞬間をより盛り上げるのだろう。

こうして維持された日常を今日も過ごしていたが、やはりこのメリハリは脳の疲れにもいいようだ。

2011年9月16日金曜日

漢方薬の方より

夫は、さすがに夜の7時半くらいのラッシュ時は京王線の混雑もこれまでと変わらないと言うが、昼時の京王線は今日もガラガラだった。


漢方の名医と言われる人から、神経が疲れてるから考えることを意図的にやめるようにトレーニングするんだよと言われたのをいいことに、、窓の向こうに晴れ間の広がる電車の中ではひたすらぼーっと過ごして新宿駅に着くと、今度は中央線に乗り換えた。京王線に比べて中央線は、特に新宿駅での乗り換えとなると、このホームに一体何百人立っているのだろうと思わせる人混みだけれども、ラッシュをとうに過ぎたこの時間帯は、乗り降り時のドサクサを別にすれば車内は立っていてもまだゆとりがある。

中央線の上りの終着駅である東京駅で電車を降りると、とても長い下りエスカレーターが乗客を待ち構えている。じっと立ちながらエスカレーターが終わるのを待つ人らをよそに、私は何の気なくその右側を一段の隙間もなくドンドンドンドンと先を急ぐように降りゆく人らに混じって八重洲中央口に向かうと、必ずどこかが工事中の東京駅らしく、この日も相変わらずすっきりしない内観は、柱の次にまた柱と迷路のように出口までは入り組み、初めて来る者を敢えて迷わせるかのような様子だった。それでも人々の歩みは早く、首をキョロキョロまわしながら必死に案内板を見て歩くのは、ゴロゴロとキャリーバッグを引く観光客くらいのものだった。

八重洲中央口を出て八重洲通りをまっすぐ行ったところにあるブリジストン美術館で、私はその後すばらしい絵と対面することとなる。

そのうちの一つがレンブラントの『聖書あるいは物語に取材した夜の情景』や『説教するキリスト』なのだが、これらの絵の前に立つと、絵の中の情景が他人事とは思えないほどの吸収力で私は絵の中へと導かれるのだった。それはその後すぐに対面することとなるコローの絵でも同じだった。

私の内にも存在する、よく言われるところの都会の孤独感はこれらの絵の前に立った瞬間に息を潜め、私は絵のなかの人々と手を取り合った。私はこうして美術館の良さをひとしきりかみしめた後、漢方医の言う神経の疲れを実感し始めたようで、他の絵の前をおざなりに通り過ぎたまま美術館を出た。

再び熱中症が騒がれるほどの残暑の中を歩くのは確かに快適ではない。そういえば漢方医も、私のお腹をポンポン叩きながらまだ夏ばてが残ってるよと言っていたな。

自分ができないことは考えないこと、昨日と明日のことは考えないこと、とのこの医師のアドバイスは現実的でなかなかありがたかった。今回の診察では人生が楽しくない舌をしているよと言われたけれども、次回は少しは楽しんでいるようだねと言われるようになっていたいものである。

2011年9月13日火曜日

閑古鳥のなく街

先日行った恵比寿ガーデンプレイスは街行く人の数がめっきり減り、三分の一ほどになったろうか。そんな閑古鳥の鳴くガーデンプレイスにある東京都写真美術館に、この日の晴天を吸収するように踏み込んだのだけれども、写真はさほど好きでもないのにタダ券が手に入ったという理由だけで展示室に入った私は、いつもと同じ感想を胸に展示室を出ることとなった。

何枚もの肖像写真などを見て絵画に比べてきわめて感動の少ないことに今回もがっかりして、灼熱のガーデンプレイスを去ったのである。

その日の日中の山の手線もずいぶん人が減ったなあと思ったが、今日の京王線も同じ感想だった。恵比寿では特に外国人の姿が見られなくなったが、どうやら日本人もどこかしこに散っていったきり戻ってこないか、新たな人口が入ってこないようだ。

新宿駅も以前であればぶつかるほどに人が溢れていたのが、今はスイスイ歩ける。私はそんな新宿駅を西口に抜け、そのままランチを求める会社員らが目を眩しそうに瞬かせながらオフィスビルから出てくるのを何人も通り過ぎると、東郷青児美術館に入った。『モーリス・ドニ』展が開催中なのだ。

ドニは家族の風景をたくさん残した画家で、展示室には妻や幼い子供たちをモデルにした多くの絵が並んでいた。

のどかな展示室ではドニの長男の生後4ヶ月の死だけが重い影を落としていたものの、家族の死以外に不幸というものはおよそ見られなかった。ドニにとって家族とはどこまでいっても幸せそのものだったようで、この展示はドニが生きていたらご満悦だったかもしれない。

しかし、そこにはチーターの跳躍や熊のケンカのようなダイナミックさはなく、私にはどこか物足りなかった。それが、その後ドニの作品に続いて出てきた収蔵品コーナーのセザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンの絵にいくと違った。その中に描かれているのはいずれもりんごだったり、ひまわりだったり、並木道だったりと、人間の脈動と変わらぬいたって静かな生命活動であるにもかかわらず、目を奪われる躍動感なのだ。

数十枚のドニの絵を見て盛り上がった私の欲求不満はこの三枚の絵によりあっけなく拭い去られ、私は満足して美術館を後にすることができた。

恵比寿も新宿も人は減ったけれども、東郷青児美術館にはすばらしい収蔵品がまだ残っていることに、それが東京の本当の底力なのか昔とった杵柄であるだけなのかはわからないが、いずれにしろ大都市の魅力を見出せた気がした。

2011年9月10日土曜日

残暑にベートーベン

窓に立て掛けてあった葦簾が台風で倒れたかと思うと、今度は残暑の熱気でエアコン生活に逆戻り。そんな最中ではあるが、最近気に入っている曲を一曲。

ベートーベン ピアノ協奏曲第2番の2

この厚みはやはりベートーベンか。
アルゲリッチのピアノもすばらしい。

2011年9月6日火曜日

稚内・利尻の猫

北海道在住の母より大量のしそが送り届けられ、葉と実を枝からより分けていたら、思った通り手がヒリヒリ痛くなってきた。そこで一日目に半分ほど処理を終えると、二日目は使い捨てのビニール手袋をはめて作業することに。すると、作業もスムーズに進み、手の痛みも汚れも進行せずに済んだ。やれやれ。

こんなに手間暇のかかる作業を母は一人北の大地でやっていたのかと思うと頭の下がる思いだが、これを自分がやると思うと頭がうなだれる思いだ。しかし、なぜだか楽しい。

今回は夫と二人でやったが、近所の人でも呼んで(そんな近所付き合いは東京に住む私にはないが)喋りながらやれば尚効率もあがるだろう。そんな老後の過ごし方はちょっと楽しそうだ。

以下、先週行った稚内と利尻で会った猫たちである。

利尻の鴛泊港近くをうろつく猫

呼ぶと振り向く。

こちらも鴛泊港近くの猫

やはり呼ぶと振り向く

もともと振り向いていた

まだまだ鴛泊には猫がいる

こんなところにも

ここにも

ちょこん

こちらは稚内のノシャップ岬に向かう海沿いの道で見かけた猫

近づくと一目散に逃げていった

こんな遠くまで

そこには仲間の猫たちが

やはり近づくと警戒する

2011年9月2日金曜日

利尻礼文の方

礼文の漁師はかつて、浜にあがって動きの鈍くなったアザラシを見つけると、その辺に転がっている木の棒を手に取りよってたかって頭をボコボコに殴って脳しんとうを起こさせ、動かなくなったところを退治したものだという。

私はこの話を島の人に聞いたときに、ずいぶんと野蛮で残虐な話だと思った。しかし、礼文観光を終えて昼過ぎのフェリーに乗り稚内へ向かう船のデッキで、港付近の海面で波に揺られる昆布を見ながら、そのまま日本海の波に揺られて徐々に遠のく礼文島を眺め、もう一度アザラシ退治について考えてみると、違う角度が見えてきた。

確かに、カラスが窓を破って家中の現金や金目のものを奪い取って食べてしまうのなら、カラスが窓を突き破ってきた瞬間に私は退治しようとするだろうと、妙にひとりごちた。

そう納得する頃には霧に遮られていた利尻島が見えていた。デッキには人が出てきて、恐らく人生で何度も来ることのない利尻島を競うように写真におさめている。私は礼文に来る前に寄った利尻にどこか親近感がわき、観光バスで島を一周したのと島の半分ほどを自転車で走っただけなのに、もう土地勘があるかのような感覚だった。それはきっとつい先ほどまでいた礼文との比較でそうなのだろうが、この感じだと稚内に到着した時は我が家に帰ったような安堵感かもしれない。

私が乗ったフェリーは利尻経由で稚内に向かう便で、乗客のほとんどはこの利尻で降りていく。私が乗船する船にはざっと5組くらいの団体観光ツアーが乗り込んだようだが、これらの人も礼文の宿にはエアコンがないのに利尻の宿にはあるとか、礼文には一つしかなかった信号機が利尻にはたくさんあることに驚くかもしれない。

私はいっせいに船から降りゆく観光客を見送ったと思ったら、今度はいっせいに乗り込んでくる観光客を、一人取り残されたデッキで迎えることとなった。その際デッキの手すりに腕をのせていると、皮膚でもはがれ落ちたのか、白い粉のようなものがパサパサ肌から落ちていく。なんだろうと白いものをよくよく観察してみると、どうやら塩のようだ。デッキの端のところにずっと立っていると、顔や髪や、めがねをかけているときはメガネにも強い風によって運ばれてくる波しぶきが小さな粒をつくってふりかかってくるのだが、そのしぶきの水分が蒸発して塩だけが残ったのだろう。舐めてみると当然のようにしょっぱいこの塩に、どこか利尻こんぶの風味を感じながら、利尻礼文の旅も終わろうとしていた。

利尻も礼文も風が強いので、都会のようなおしゃれは難しいだろうと私は思った。なにより百貨店もブランドショップもない。しかし、観光バスで礼文の島をまわっている最中も、年寄りの男女らがなにやら屈んで作業しているのを何度となく見かけた。そこは海の中でもないし昆布干しや貝ムキの作業場でもなく、地面の何かを探しているようだった。きっとここの人たちは働き者なのだと思う。

この昭和初期のような香りの残る礼文は、利尻とはひと味違う趣だった。

利尻の港を離れるにつれ、礼文の時のように波は大きくなっていった。船は弧を描くように右に、左にとゆっくり揺れながら進んだ。時間が経つにつれて、ホテルや民家や橋などがそれぞれ見分けがつくくらいくっきり見えていたのも、山の木々の種類の違いがそれなりに区別できていたのも、徐々に霧の中に消えていき、ふと気がつくと利尻山のおぼろげなかたちだけが海の上で浮き上がっていた。

その光景は、30分前に数百人の観光客が上陸して観光で賑わっているなどとは想像できないひっそりしたものだった。

利尻がそれでもおぼろげに見える頃、礼文はとうに姿を消していた。とてつもなく巨大な一期一会はこうして終わった。

稚内行きのフェリーからの利尻山

北海道本当が見えてきたところ

礼文より

利尻では風の音に睡眠を邪魔されたものだが、礼文でその役割を果たしたのはウミネコだった。寝る前に、それにしてもよく鳴くものだと気になっていたウミネコによって、早朝4時半頃叩き起こされるように私は目覚めた。部屋のカーテンを開けるとほんのり辺りは明るく、けれども海の向こうに見えるはずの利尻山は霧がかかって望めなかった。

それでも二度寝して6時に起きたときには外気はなま暖かく、その後一時間半ほどして外に出ると秋の日差しとはいえ照りつけると身体は暑くなり、日焼けもみるみる進むように感じる。しかし、昨日は雨で思うように観光できなかったとの悔いが残ったので、今度は心に余裕をもって観光しようと再度昨日乗ったのと同コースの観光バスに乗ることにした。

昨日はバス乗車時点ですでに土砂降りでどうなることかと思ったが、一つ目の観光地であるスカイ岬に向かう時点で今日は晴天。岬の入り江が晴れていると水の色がもっとブルーに見えると昨日のガイドさんが言っていたので、今日はその澄みきったブルーを期待した。
スカイ岬に向かう途中にある久種湖

もうちょっと行くとこうして美しい丘の景色

曇り空の下でのスカイ岬

岬の向こうの海

晴天だと水がもっと青くなるという

海は期待通りの色を見せてくれた。底まで見える透明度に、太陽の光が雲に遮られることなく差し込むために出てくる青色。周囲の断崖絶壁の険しい肌合いと色合いが海のブルーとよく合っている。この不思議なほど美しく見える自然の組み合わせに時間いっぱいまで目を張り付けた後には、今度は次の岬であるスコトン岬にバスは向かう。
晴れているとスカイ岬も澄み渡る

こんなふうに

スコトン岬の遙か向こうにはサハリンが位置し、その手前には岬から800メートルほど離れたところにトド島と名付けられた島がある。この島には冬になるとトドがやってきて上陸しては休んでいるらしい。トド島は無人島だけれども漁が盛んな時期だけ数名の人がこの島に住み込みながら漁をするという。
曇り空のスコトン岬
向こうにあるのがトド島

雨でも曇りでもアザラシはやって来る。
真ん中あたりに点々と顔を出していたり
寝そべっていたりする。

ちょっと見にくいが顔を出している

いっぱい寝転がっている


その暮らしを聞いていると、電気も水道もないところでの暮らしが昭和、いや大正、いやそのもっと前の暮らしで、さすがに漁師は都市生活など求めないのだと漁師魂のすごみを見た思いがした。

ここスコトン岬付近にはアザラシが、私が行ったときで100頭ほど戯れていた。これはすべて野生で、このアザラシたちに島の漁師たちは食い扶持を脅かされすっかり天敵・害獣視しているものの、他方で観光資源として利用しているのが事実である。実際、お土産屋さんにはアザラシのぬいぐるみやTシャツ、タオルがあり、アザラシさまさまなのだった。


晴れのもとでのスコトン岬のアザラシ

いっぱいいる

向こうがトド島

スコトン岬を終えると、今度は最後の目的地である桃岩・猫岩展望台へとバスは向かう。


確かに桃のようなかたちをした巨岩が丘続きにあり、そこからそのまま海に目線を落としていくと、猫のようなかたちをした巨岩が海の中にちょこんとある。因みにこのあたりはトレッキングコースになっていて、歩いている人が遠めに見える。

桃岩

猫岩

岩のかたちも面白いが、この辺りの眺めはとてもよかった。島の西側には道路が完全に通っているわけではないので、トレッキングでもしない限りスカイ岬とこの桃岩・猫岩展望台からしか観光客は西側の海岸線を望むことができないという。東側に比べてより人口が少なく、最近では桃岩などの観光名所での落石が多いために、人の出入りも厳しく制限されているとのことで、どこかひっそり感が漂っている。

それでも、トレッキングコースでは今はトリカブトの花が群生して咲き誇っているのが見られるようだし、桃岩・猫岩展望台の階段脇にも多くの花が咲いていた。

ちなみに島には信号機が一つあるだけで、それも道路の安全横断のために設けたのではなく、子供たちがいずれ島を出たときのために、他の街でもやっていけるようにとの社会勉強目的でつくられたものだという。

ドコモショップもauショップもマックもない人口3000人ほどのこの島の暮らしは、これからの子供にとって島では必要ないのに敢えて学ばなければならないことが多いようだ。

2011年9月1日木曜日

利尻③

目覚めると、今日は利尻富士が頂までよく見えていた。昨夜は風の音が強くて、利尻の人はこの風の音を毎日聞いているから慣れているのかなと、うるささにやや不平を抱きながら眠りについた。そして朝になってもその風は変わりなく吹きすさび、窓の外の利尻山を眺めながらやはりこの地形にこの風はつきものかと、山に早朝の挨拶をしながら窓を開けた。利尻の人はこのくらいの季節をふつうに秋と呼ぶが、秋の風は冷たかった。


この日の予定はサイクリングである。朝、霧雨が降っていたものの、ホテルの売店でカッパを買って昨日行けなかった沓形方面へのサイクリングロードを走ることにした。

二匹の猫が魚の残骸を食べている港のほとりを通り過ぎてややきついアップダウンを越え、夕陽丘展望台あたりからサイクリングロードへと入る。
朝の利尻山

出会った猫



しばらく海のそばを走ったところで、私はロードに突如現れたイタチに驚かされた。昨日観光バスのガイドさんが、利尻には熊も蛇もいないがネズミを捕らせるためにイタチを野に放って以降イタチがいると言っていた通り、こんなところにもいるではないか。しかし、イタチは私がカメラはどこかと探している最中に、とっとと草むらに駆け込んでいってしまった。

その後礼文島が望めるようになり、しばらくその景色が続いた後は、利尻山を目指して走るコースになる。
右側にうっすら見えるのが礼文

向こうに礼文島が、、、

利尻山へ

雄大な眺めのサイクリングロード

利尻山に向かって走るのは爽快だった。が、途中からこのまま山に入っていっては生きて帰れなくなるのではないかと不安になってきた。先日同様道の両側に密生する笹には、これを除いて開拓するのはどれだけ大変かとしみじみ思わされ通しだ。そんなことを考えて走っていたためか、山側を走るこのロードはとても時間が長く感じた。そして、沓形の街が見えたときには大げさにも助かったとの思いがこみ上げて気て、肩の力が抜けほっと一安心した。

利尻は人口3000人ちょっとの島である。そのため一般道を走る車は少なく、コンビニはセイコーマートしかなく、昨日今日と走ってみて思ったのはバブル前の日本人の生活が残っているところだということだ。チェーン系といえば港前のレンタカー会社くらいで、他に大手資本の影はない(あとは北海道電力くらい)。産業は漁業と観光で、人々はいたっておおらかである。

利尻山を真ん中にその周囲で生きる人々。東京だったらこの中心地とは皇居になるのだろうか。

山の影響でそれぞれの場所によって風向きや風の強さがどんどん変わる。しかし、都市生活につきものの情報というものから解放され、風の強さとフェリーの時間だけを気にして過ごした2日間はとても貴重な経験となったと思う。
バスのガイドさんがフェリーターミナル二階の喫茶店のカレーが
おいしいと言っていたのでランチに食べてみた。
香ばしくて程よく辛い、そして確かにおいしかった。

こちらは宿の夕食
真ん中にスターのごとく鎮座するウニは絶品だった。
刺身もホッケ煮も文句なし。