ページ

2011年7月29日金曜日

ルバーブと手の傷

一見フキのような様相を見せるルバーブを、何十本もきれいに水洗いしてジャムにする作業に取りかかった。

2㌔ほどのルバーブに対して用意したのは、白ワイン750ミリリットル一本と、砂糖1キロ。

作業はいたって簡単なので、時間はかかっても楽勝であると思っていたのも束の間、ルバーブを2センチ幅に切っている最中に早速災難が私の手にふりかかってきた。包丁を押す右手の人差指の付け根のところの皮膚が、何度も何度も強い力で包丁とぶつかるために、水ぶくれになってしまったのだ。

参った参ったと思いながらも四苦八苦してなんとかルバーブは切り終えたものの、水ぶくれは痛い。包丁を扱っているときは必死なのでその痛みもさしたるものとは感じなかったのが、ルバーブに砂糖をかけてワインで浸し、あとは一晩おいて明日煮込もうと一息ついた頃にジンジン痛みを強く感じ始めた。

外では雷が轟き、大粒の雨がベランダを叩く音が聞こえてくる。そして葦簾越しに入ってくる雷光は、傷口を刺すように鋭い。

これで傷口が化膿でもしたらルバーブに生涯に渡っていい思い出をもつことはできないだろう、そして明日ジャムが仕上がってもそれではあまりに寂しい、だから傷の手当をきちんとしよう、と私は水ぶくれを潰して水を出し、ヨレた皮膚を切り取り、よく水で洗って紫雲膏を塗った後に絆創膏で保護し、その日の作業を終えた。

雷は翌日も轟いて、時折雨が降ってきた。空のおどろおどろしさとは対照的に、外気は涼しく過ごしやすくて、ルバーブを煮込むにはうってつけだった。

鍋を火にかけて沸騰するのを待つと、その後アクがどんどん出てくる。そのアクをこまめに取りながら30分弱火に続け、ルバーブの原型が崩れて柔らかい筋状になるのをひたすらかき混ぜながら待った。

昨日は私の手を痛めたルバーブが、火にかけるとこんなにも素直にジャムになってくれるのかと狐につままれたような感覚におそわれる30分であった。

ルバーブの酸味のある甘い香りは、稲妻が傷を刺すのとは違って鼻まで優しく届いた。これがジャム作りの醍醐味である。

2011年7月26日火曜日

茂みへ

西の空が夕焼けで明るんでいるというのに、そこから左右を経て東の空までは薄い筋をつくった雲が一面を覆っていた。ある雲は飛行機で描いたような直線で八の字をつくり、その向こうにうっすら望む富士山の八の姿と重なり、関東平野にいることを再確認する光景を見せてくれた。

そんな外の景色には無関心の我家の猫を家において散歩に出かけると、いつの間にか川沿いの葦が刈られ随分と見通しがよくなっていた。数メートルにまで成長していた葦は大いなる茂みをつくりワイルドであったけれども、今はバリカンで刈られたように跡形も無いのがあっけなくもあり、もの寂しいようでもあり。

そんなことを思いながら川沿いを歩いていると、どういうわけか刈り残された葦の茂みに、茶色のボディに白い毛の足をした猫が、その隙間をぬって入ろうとしている姿勢が見られた。ところが、猫のスリムな身体を入れる余地もないほど葦は生い茂っている。

パンパンと私が手を叩くと猫は土手上の私の方を振り返ったが、私が手を振って猫への挨拶を終える前に葦の茂みへと視線を戻し、その中へわけ入ろうと再び目論むのだった。

私はその猫を後に目の前にかかる橋を渡って川の反対側の土手を歩き始めた。随分前にこちら側でも猫が葦の茂みの中へと入りゆくのを見たことを思い出した。その時も夕暮れだった。

夕暮れは猫を茂みへと誘うのかも知れない。

2011年7月25日月曜日

マンモ

ここ数日はエアコンなしでも過ごせるほどに暑さが弱まり、気分も少し落ち着いていた。そこで頭の働きも良くなったかと期待しながら不動産関係の書籍に目を通してみた。

医療崩壊についての本をその傍らで読んでいたために、少しは回転が良くなったかと思われた私の脳は医療への恐怖心と猜疑心に支配され、良い状態を期待できる状態からやや落ち込んだように思われたが、不動産関係の本はさらに私に追い討ちをかけた。

そして、こんな面倒なことを、よく母は一人でやっているものだと今更ながら関心することとなった。こんなことを自分がやれるかと思うと、即答で無理と答えられ、ストレスで血管が縮むだろうと予想できた。

なのにどんな甲斐性なのか、母は一人でやっているのだ。かつ、不動産経営をしながらダイエットもしているつわものである。

それはそれとして、私は私なりに生きようと思う。

今週検診の一環としてマンモグラフィ検査を受ける予定の私にとって医療崩壊の実態を読むことは、乳がん陽性判定が出たら→良い医師を選ぶ→ここで医師の選択を誤ると寿命にダイレクトに響く、という結末まで連想させ、とてつもないストレスを私にもたらすのだった。

そして結局、このストレスによりがん細胞が増えては本末転倒だと思い、考えることをやめた。

そんな私を我が家の猫はずっと笑って眺めていた。

2011年7月21日木曜日

札幌のカモの親子

4日前に札幌を訪れたときの暑さが嘘のように肌寒い朝を向かえ、ホテルで冷房をつけていたにもかかわらず実は外の方が寒かったことを、心の中でずいぶん滑稽なことをした、北海道では真冬になると食べ物を凍らせないために冷蔵庫に保管するが、この日も札幌は暖房の役割として冷房が機能していたのだと、ここにきて再び北海道らしい日常を垣間見ることができ、年甲斐もなく楽しんだ。


この外気の涼しさの中、昨日車で走った道東の深い緑とはまったく違う都会の緑を楽しもうと、札幌駅から15分ほど歩いて北海道植物園に行くことにした。

正門を入ってすぐのところにある宮部金吾記念館の前を通ってライラック並木に出ると、生死をさまようような道東の大自然にすっかりおびえ怖気づいた昨日までの私はようやく安らぎを得た気がした。東京暮らしが長くなっている今の私には、大自然で登山を楽しむより植物園くらいがちょうどいいらしい。特に都内では放射性物質のことがあって公園の芝生や木々の元でくつろぐことがままならないので、北大植物園は、失われた東京でのもともと数少なかった緑ある生活を私に思い起こさせ、ゆったりした気持ちにさせてくれた。

ここには小石川後楽園の美しさもも六義園の優美さもないけれど、ライラック並木だけで私には十分だった。この植物園には他にもいろいろ見所があるようだし、これから見てまわることになろうが、私はすでにこの並木の元で満足していた。植物園内をいろいろ見て歩いていると、4日前にキタラホールにコンサートを聞きに訪れた中島公園でもカラスが多かったが、ここでも芝生の上、木々の上など、いたるところにカラスがいることに気づく。そしてカーカーと鳴くカラスの鳴き声は、今の私にはどんなものであれ歓迎の声として心に響くのだった。

バラ園では、どこのバラ園でも見かける枝を剪定する人がほっかぶりに黒襦袢という出で立ちの完全防備姿で仕事に勤しんでいた。その作業をする傍らではほんのりバラの香りが漂ってきて、どのバラからのものか探してみるのだけれども数ある中からなかなか見つけられず、あちらのバラへこちらのバラへと探し求める私の様は、迷い子のように見えたかもしれない。ところがここのバラ園は見ごろを過ぎたこともあってかそうそう人が多くないので、私は思う存分香りを追い求めることができた。

バラ園のなかには蓮池もあり、白とピンクと黄色のハスが咲いていた。私はハスを手の届くほどの近さで見るのが初めてで、まじまじと花びらの重なりを観察してその美しさにため息が出る思いだった。すっと伸びる花びらはきれいに先が細くとがり、薄い陶器の輝きを見せていた。特に私はほのかな黄色のハスが気に入りずっとその前でしゃがみこんで見入っていたものだった。

蓮池のあるバラ園の背後で咲くアジサイは、どちらかというとこちらが見ごろだと思うのだが、一人写生している人がいた。その真剣な眼差しに私は邪魔にならないようそそくさとそこを通り過ぎて、丸太を横に切ってつくられたベンチでパンをかじる社会科見学の中学生に紛れ込んで一休みするのだった。

このベンチのやや離れた前方にうな垂れる数本のグイマツの向こうには重要文化財の建物群がある。私は一休み終えたところでその中の一つに入ってみると、北国で生きる動物たちの剥製が展示されていた。私はしょっぱなにお目見えする熊の大きさに驚いたが、その後出てくるフクロウにはなぜか最も目を奪われるものがあった。

このフクロウは白っぽい灰色っぽい色の羽を持ち、目は穏やかに閉じられて、とても安らかに眠っていた。フクロウの心臓がもう何年も前に止まっているものとはとても思えない表情だった。私は本当にこれが剥製か疑問に思ったほどだが、事実ガラスの向こうで眠るこのフクロウは剥製なのである。

しかし、いろいろな動物の剥製を見てややもすると、死んで剥製にされて展示している意味がわからないことに気づいた。強いて言えば、人間もいつかこのようになにものかに剥製にされて展示されるのか、剥製にして重文建築の中で保管することに価値を置く生き物は人間以外にいなくて、そんなことすらないかと考えつくくらいだ。しかしそれなのに、このフクロウは私になにがしかの安らぎをもたらしたのも事実である。その隣にも、多くの種類の鳥たちやウサギなどが同じく眠っていた。このように安らかな姿で明日の朝を迎えたいものだと思えるほどである。

その後行ったカナディアンロックガーデンでは、ようやく持ち上げられるかというほどの大きな石が積み上げられ壁が築かれた手前にガーデンが広がり、そこにある池ではカモの親子が親を先頭に機敏な水面移動を見せていた。周囲でカラスの鳴き声を聞くと、8羽いる小ガモが一体どれだけ生き抜くのかと心配になり、入園したときは歓迎の鳴き声に聞こえたカーカーが、突如捕食者の唸り声に聞こえてきた。

400メートル四方ほどの園内には他にも北方民族植物標本園や温室がある。小ガモが大人になった頃、是非とも再び訪れたい。

2011年7月19日火曜日

寒い夏の日

標茶の雨は夏とはいえ冷たい。


列車が来るまで2時間半あるので、二階建てより高い建物などそうそう見あたらない道東の小さな町標茶の駅前周辺に暖をとれる適当なカフェがあるなどとの期待はしなかったが、なにかないかと駅前の地図を見てみた。すると、一つだけある『コーヒーたいむ』というカフェらしき名前のお店があった。

しぼんだ期待が一気に膨らみ早速お店の前に行ってみると、営業は11時からとある。これでは開店まで一時間ほどこの雨のなか待つことになってたまったものではない。確かに冷たい雨の中を歩いていると、傘ではガードしきれない雨が腕や手に降り注いで東京ですっかりふやけた身体がシャキッとするように感じるのだが、いかんせん寒い。本当に寒い。そして寒さのために恐らく風邪をひいたようだ。

仕方なく駅に戻ると、駅待合室は外からの風が改札から入ってきて変わらず空気が冷たい。そこで駅舎の隣のバス待合所で過ごすことにした。

待合所には先客がいて、おばあちゃん二人がテレビを見ながら田舎の人独特の気さくさな様子でおしゃべりしていた。その気さくさは、他者が部屋に入っても気にしないで同じトーンで話続けるというものなのだけれども、不思議と無遠慮とは思わないし不愉快には感じられない。それどころか随分アットホームで、その和やかさが私にまで伝播されてくるほどの強力さである。

その温かみに後押しされてか、ここの待合所は暖房もついてないのになぜか暖かい。なぜだろう、もしかするとこのおばちゃんたちの体温が部屋まで暖かくしているのではないだろうかと推測し、私は荷物を椅子におき、電池の切れかかった携帯をここで充電できなかったら大変なことになると思い、本当はいけないのはわかっているのだが近くのコンセントで充電させてもらった。

そんなことをしていると、おばあちゃんらはバスが来たわけでもないのに出て行った。どうやらただ暇をつぶしていただけだったのかもしれないが、乗客でもないのにそういう待合所の利用の仕方があるのがこういう町のおおらかさなのだろうと、10時も過ぎているのになぜここの売店は閉ざされたままなのかわからない覆いの掛けられたみやげ物を眺めた。

すると、さきほどのおばあちゃんよりもっと年配のおばあちゃんが一人入ってきた。こんにちはと私が軽く挨拶すると、田舎の人らしく気さくに話しかけてきてくれて、このおばあちゃんが2時間ほどここでバスを待つことを知ることになった。

私たちが二人とも長時間待ちであることがわかり、さきほどのおばちゃん二人が帰るときに消していったテレビを、さすがに1時間も2時間も話し続けるのは互いに疲れるだろうと、番組を流すことをおばあちゃんにすすめた。するとおばあちゃんはテレビが新しくなってリモコンが使えないという。

私は電源ボタンを押して無難にNHKにチャンネルを合わせ、おばあちゃんが楽しめそうな番組がやってることを期待した。すると、若い人が大自然の中で結婚式を挙げている番組が流れていて、次にバス待合所に入ってきたおばちゃんと二人で仲良く見始めた。そして私にも、ほれ、見てみなよ、と声をかけてくれたけれども、私はテレビの結婚式より、この東京にはなかなかいない気さくなタイプのおばあちゃんの方がよほど新鮮だった。

4つほどある横長の大きな木の椅子が並んでいる中で、途中から私がテレビに夢中のおばあちゃん二人に背を向けてパソコンをカチャカチャやっていると、いつの間にかおばあちゃんとおばちゃんはテレビのまん前に移動し画面に見入っていた。ここまで楽しんでくれて、テレビをつけてあげたことが私はやや誇らしく思えた。

おばあちゃんと何を話したか忘れてしまったほどに他愛のない話だったが、待ち時間が短く思える良さがあり、2時間半の待ち時間も苦痛ではなかった。

駅員さんは、あまりの大雨で時間通りに列車が来るかわからないですよと言っていたが、自然に左右されるのが当たり前のこうした旅は、このゆったりした風土と静かな町並みには似つかわしいものだった。

閉ざされ続けていた売店はというと、大型観光バスの到来と共に店員さんがやってきて開店に切り替わった。そうか、この時を待っていたのかと、田舎の効率性に関心し、私は大勢の観光客が一斉にお手洗いに流れ込んで行く音を聞いていた。そのうちの何名かは売店で買い物をしていったようである。
観光バスが再び走り去っていくと同時に、私の列車の時間も迫り、寒い寒い駅舎へと私は移動した。とても温かい標茶のおばあちゃんは、外の寒さを和らげてくれたと思う。これがこういう町に立ち寄るなによりもの収穫に思えた。

駅待合室ではさきほど親切に札幌までの工程を教えてくれた駅員さんが、待ち構えていましたとばかりに大雨で線路が浸水していて列車の発車の見通しがたたない旨を知らせてくれた。乗客が少ないのですべて顔を覚えているらしい。どれくらい遅れるか聞くと、およそ一時間、そしてさらに遅れる可能性もあるとのこと。その時間でお昼でも食べてくると良いですよと言われ、腹は減っていないがここにいても寒いからと、もう営業が始まったはずの先ほどの喫茶店に足を向け、オープンの看板を喜びをもって眺めてコーヒーを頂いた。

本当に一時間後には列車に乗れるのかと降り止まぬ窓の外の雨を眺めながらすっきり味のコーヒーを飲み終え、そういえば、山形県の酒田に行ったときはこの手の喫茶店は駅周辺では皆無でとても不便を強いられたことを思い出した。
 
酒田のある庄内平野は米どころ。ここ道東の標茶はワイルドで、カフェがあってもちょっと山の中の道路を走ると携帯は圏外になり夏でも寒いので、こんなふうに列車が動かないと大自然の中で凍死するのではないかとの妄想がこの真夏にして頭の片隅をよぎるのだった。

2011年7月13日水曜日

美瑛の丘

天気は曇り。

美瑛のパッチワークの丘は今年も素晴らしかった。

ジャガイモ畑には白い花が、そば畑にはもっと小さな白い花が、ビート畑には濃い緑色の葉が、そして小麦畑は曇り空のもとでも黄金色に輝いていた。

新潟などの棚田も美しいが、美瑛の丘は負けずとも劣らない。棚田のそばには瓦屋根の家があることが多いのに対し、美瑛の丘には洋風の建物が多いのだけれども、それはヨーロッパのようではなく、もはや美瑛らしいと言える。

今年もこの丘を見られて幸せな人生だ。

その後行ったトムラウシ温泉は、樹海のなかにポツンとある温泉である。本当はヌプン・トムラウシ温泉に行きたかったのだが、通行止めのためにそちらの道には行けず、東大雪荘のお湯に使って帰ってきた。トムラウシ山の登山口にある温泉宿だけあって、登山客が多いようである。

露天風呂では隣を川が流れ、その上には緑が空まで続き、大自然のど真ん中を満喫できる。虫が多いのが難ではあるが、これも自然の醍醐味か。
美瑛の丘

こちらも

こちらも

こちらも


千望峠からの眺め

こちらも

もう少し離れた国道から

十勝ダム

トムラウシ温泉に行く途中で見つけたキツネ

トムラウシ温泉が湧き出ているのだろう
湯気が出ている

東大雪荘

隣を流れる川

2011年7月12日火曜日

観覧車

目覚めてカーテンを開けると11階のホテルの窓からは、キタラホールでのコンサートを終えて昨日の夜9時過ぎにはまだゆっくりと大きな円を描いてまわっていた観覧車がぴたっと静止して周囲のビルの中に溶け込んでいた。青色を放っていたネオンも今は空の水色に変わり、すぐ西側には低い山の稜線が見えたのが大都市札幌とはいえ北海道らしかった。

昨日行った中島公園は、札幌駅を南口から出てまっすぐ伸びる通りをどこまでも進むと数十分でたどり着くところに位置する。新宿駅とと新宿御苑くらいの距離だろう。

この公園は藤棚のどでかさといい、小石川後楽園や六義園の池に比べて野放図に広がる菖蒲池といい、どことなく回遊式日本庭園の様相を見せるのだけれども繊細さとは遠いつくりで、そのおおらかさがどこまでいっても北海道らしく、そういえばこういう風土のなかで自分は育ったものだと思い出すことができる要素がたくさんあった。

公園内には豊平館という洋館があり、この洋館は水色を地色とするさわやかな建物で、北国北海道のすがすがしさが投影されて、東京から着いたばかりの私の目には優しく映った。

中島公園の中ほどにあるこの豊平館まで来ると、ここ札幌の通りを歩いてきて一度も出会ってない猫にそろそろ出会うのではないかとの期待が膨らむ。そして豊平館近くの木に覆われた芝生で、黒猫ちゃん二匹が新参者の私につぶらな瞳を向けていることに気づくのだった。近くには他にも5匹ほどのトラ猫、三毛猫などがピョンピョン跳ねて、近所の人々がごはんをあげていた。この公園にもやはり地域猫はいた。そしてその後黒猫ちゃんらはおばちゃんと、池のほとりで魚や艶のいいカモたちを眺めていた。

私がここ中島公園に来た目的は、PMF2011という国際教育音楽祭のコンサートの一つを聴くためである。

ハイドン、ドヴォルザーグ、モーツァルトと三人の作曲家による弦楽曲が演奏されたが、4人(最後のモーツァルトだけ5人)の素晴らしい演奏家たちによるそれぞれの曲は、作曲家が変わるごとに色を変え、まったく違うテイストを見せた。誰が演奏してもモーツァルトはモーツァルト、ハイドンはハイドン、ドヴォルザーグはドヴォルザーグであることが彼らの偉大さに思え、最後にはそんな作曲家と演奏家に惜しみない拍手がもたらされた。

この音楽のためか、この日の夜はとても寝つきがよかった。窓の外の観覧車のゆったりと円を描く動きも脳に睡眠促進効果をもたらしたのかもしれない。

旭川出身の私にとってろくに来たことのない札幌はリトルトウキョウとのイメージが強かったが、それでも東京よりずっと落ち着く街のようである。

2011年7月11日月曜日

品川より浜松町

羽田空港に向かうには、品川から京急に乗る方が近いし僅かだが運賃も安いのだけれども、浜松町からモノレールに乗る方が眺めが良いので、私は山手線の品川駅を素通りして新宿からここまで来ると大分乗客が減ってくる浜松町で電車を降りた。


空港行きモノレールに乗り換えると、ここでも乗客はそれほど多くなく、ビルでいうと4階くらいの高さに思えるところを、モノレールは音もなくスーッと走り始めた。そして最初に見えたのが、芝離宮恩賜庭園である。

都内の大名庭園を、こうして遠めからでも眺めるのは何ヶ月ぶりだろう。東日本大震災以降すっかり都心へ来ることが減り、特に放射性物質が集まりやすいとされる公園などには滅多に来る機会がなかった。すでに30度をゆうに超えているはずの庭園内には、それでも年配の方だと思うが、人影がまばらに見られ、夏の訪れを楽しんでいるようだった。

かなりな年配の我が家の猫は、この夏エアコンが大抵の場合28度に設定された家の中で過ごしている。その過ごし方とは、三つ折に畳んだ敷布団を寝床にして、私のことを観察する時も窓の外を眺める時も、一日のほとんどをその上で過ごすというものだった。そんな我が家の猫が、私が北海道に旅立つ日の朝方5時過ぎ頃、どうしたものか私が寝ている頭の真横でスフィンクス座りで寝ているのだった。私はそれに気づいた瞬間、高齢の猫が死を間際にお別れの挨拶に来たのかと心のどこかで覚悟したものがあった。しかし、その後猫は水を飲みに行ったり、少しずつごはんを食べたりして、三つ折敷布団ではなく今度はテーブルのところに敷かれた座布団に座り始めた。そしてしばらくして、ごはんを食べた口から吐き出すのだった。

吐き出して以降は胃がすっきりしたらしく、いつもの三つ折敷布団で優雅に横になり、身体を弛緩させて寝続けていた。ここまでの1時間くらい、私はずっと猫が無事であるかどうかを見ていたので、北国への旅立ちの日としてはすっかり寝不足になってしまった。しかし、猫が無事であることがわかっての旅立ちは寝不足をおして快適なものがある。

家から駅までも、駅のホームもすべてが灼熱で、おまけに電車内までもが節電のためにエアコンを抑えているためにムッとする空気で、家を一歩出るとどこにいても頭が朦朧とするが、これだけ節電で酷い目に遭うと、北海道行きもこれまでより以上に期待の高まるものとなる。

いざ、数日間猫の世話を夫に託して、北国へ。

ありがた迷惑なほどの晴天のなか飛行機が砂漠のような関東平野を過ぎると、水田地帯が広がり始め、今の季節は緑の稲穂がある程度伸びて、上空からの眺めは一面美しい芝生のようだった。この水田の広がりを見ると、日本が稲作国家であることを十分実感でき、先ほどまで続いていた大都市が嘘のようである。

さらにややもすると稲の緑よりもう少し濃い緑の山並みの上を飛行機は通り、奥のほうに静かに活動する猪苗代湖を望むようになる。細切れだった雲は徐々に厚みを増し、地上に大きな影を落としているが、そんな雲が、時に先日徹子の部屋に出ていたレディガガの玉ねぎ頭のようにもくもくと盛り上がり、東北地方の山と水田の落ち着きの中では最も活発に見えるのだった。熱帯夜のコンクリートジャングルから水田ジャングルに来た気分は悪くないものである。

それにしても、眼下の一面緑の山々を見ていると、高校を卒業して大学に入学すべく東京に来たときに高層ビル群を見て、数年後にはそんな思いはそっくり消えてしまうことになるとはいえ、こんな立派なビルで働きたいものだとの野心のような思いを抱いたのが、今ではこんな森の中でどれだけ生きられるだろうと考えるようになっているのだから時間の経過とは面白い。そんなことを考えているうちにも、飛行機は猪苗代湖同様静かな田沢湖と十和田湖を轟音を響かせ通過していった。次には下北半島が右手奥に広がり、津軽海峡、そしてまもなく北海道である。
 
新千歳空港からはJRで札幌に行くのだが、この路線の車窓は私にとってさほど面白いわけではない。目立っているのは知床や大雪山のような大自然ではなく、どこの地方都市にも出現するイオンや線路沿いの家庭菜園などで、大都市札幌に向けて生活感溢れる35分ほどを過ごすことになる。そこでは東北から北海道に渡った途端に雲の様子が変わり、地上が見えないほどに薄く伸ばしたような雲が膜をつくっている自然の光景が、ずっと遠い出来事のようだった。
 
ところが札幌駅の改札を抜けて外に出ると、先ほど広がっていた雲がもたらす雨が上空からパラパラ降ってきた。外気は、猛暑の東京から来た私にとっては、東北までの晴天と打って変わって北国の冷たさだった。
 
昼下がりの札幌の通りは半袖では寒いくらいで、重い荷物を背負って歩くにはちょうどよかった。私は札幌駅から大通り・すすきの方面に向かって、宿泊予定のホテル目指して歩くことにした。
 
赤レンガ庁舎も時計台も見えない通りを直進すること15分くらい。ビルの一階に広々とスペースをとった明るい雰囲気のカフェを見つけた。時計を見ると16時である。昼ごはんを11時頃食べてお腹の減った私はホテルにチェックインする前にここで夕食を済まそうと、入店を決意した。
 
入ってみると、小樽に行ったら必ず行くといいと夫が言っていた『あまとう』や、町村農場、姉が送ってくれたことのある『SNAFFLS』などのスウィ-ツが、ガラス張りのケースにたくさん並んでいて、ケーキも食べようとの意欲を私にもたらすのだった。私は結局『きのとや』というお店のピザとケーキとサラダとコーヒーのセットを注文したのだが、ここの小ぶりのピザがとても美味しいのである。都内で極力外食を控えている私の身体には、この香ばしさは久しくなかったもので、かつ、産地を気にせず食べられることが何よりありがたかった。そして都内の現実の酷さを思い返したが、何より猫が元気でいてほしかった。
 
カフェの冷房は東京では味わえない涼しさ、いや、寒さで、この外気に冷房など必要ないだろうにとすっかり節電モードの脳内で思いながら、満腹になったところでホテルへと向かった。

2011年7月10日日曜日

枝幸のカレイとカニ

母がバスツアーで道北オホーツク海側の枝幸というところに行った際に市場から送ってくれたカレイを塩焼きで、カニを味噌汁に入れて食べたが、その美味しさに舌鼓を打ちながら今日の暑さを振り返った。

家ではエアコンをつけているからいいとして、外出先での暑さは体力を消耗する。16時を過ぎても日差しは強くてウンザリだと思い返してテレビをつけると、ワールドカップ女子サッカー日本代表がベスト4行き決定とのニュースが流れていた。

カニと格闘しているサッカー好きの夫の顔には笑みが浮かび、その後パソコンで、澤選手がパスを出すところから円山選手がパスを受け取りゴールを決めるまでのシーンを何度もリピートして見ていた。よほど嬉しいらしい。新幹線で澤選手と間近ですれ違ったことがあることも、思い入れの強さに少しは影響しているのかもしれない。

日本女子サッカーが次の試合も勝てば、夫の顔にはまた笑顔が浮かぶだろう、そして同じように多くの日本人も、と思うと、次の対戦相手のスウェーデンには勝たせて欲しいと思えてきた。

我が家の猫は、サッカーボールがテレビ上を動いていることには一向に興味を示さず、三つ折りに畳んだ敷き布団の上でずっと寝ていた。そして15センチほどの厚みをつくっている布団から、ずり落ちていた。

夫の笑顔同様久しぶりに見る平和なひとコマだった。

2011年7月9日土曜日

模擬裁判

中央大学で裁判員制度の模擬裁判を一般公開するというので行ってみたところ、HPに書いてあった9号館ではまったく開催の気配がなく、どこかに張り紙でもないかと探してみてもなにも見当たらないので、日付を間違えて来たか中止にでもなったのかと、泣く泣く学食でお昼を食べて帰った。

ところがこの学食が室温32度くらいはあろうという暑さで、広いキャンパスを歩いて暑くなった身体にはこたえるものがあった。節電もここまでくると行き過ぎの感がある。

しかし学生たちはつい最近まで高校生であり、今現在も体育の授業があったりと、私に比べて格段に体力があって暑さに強いらしく、この暑さのなかでもバテた様子もなく、友人同士楽しそうにお昼を食べていた。

その後涼しいところはないかと学食から3号館のカフェテリアに移動するも、ここは学食よりも室温が高いのではないかと思うほどでなんら涼むことはできず、それでも自販機でアイスクリームを買って食べたものの頭は朦朧とする一方だった。

一見和気あいあいと和やかでユートピアなキャンパスライフに見えるが、学生は若いからこの暑さで授業してもやっていけるとして、先生たちはさぞ大変だろうと思われた。そして、この温和でユートピアなムードのキャンパスライフにあまりに長期間浸かりすぎると、室内で生きる猫や犬が外で生きることが大変なように、外の荒波では生きていけなくなるなとしみじみ思うのだった。

そんな寺の境内のようなキャンパスを横切り、多摩都市モノレールに乗って帰った。

帰宅して調べてみると、模擬裁判があったのは9号館ではなく8号館で、9号館は先週開催された模擬裁判の教室だった。しかし、8号館の前も通ったはずなのに、何も張り紙がなかったのが不案内だと思い、医師のいいなりに不必要な検査をしてしまったことを後で気づいた時のような無念さが残った。

今度行くときはもっとちゃんと調べていくことにしようと強く思いながらも、それでもあの暑さのなかでの模擬裁判なら、途中退出を余儀なくされたところだろうと想像するのだった。

2011年7月7日木曜日

恵比寿にて

カフェにいるピアスをする若い男が、写真家紹介一覧にあった笑顔の顔写真の写真家と同じくらい、展示されている報道写真からかけ離れていて、一瞬、どちらが現実か戸惑った。恵比寿ガーデンプレイス内のエクセルシオールカフェである。ピアス男以外にも、履歴書を書く若者や、妙に活き活きと携帯で仕事の用を済ませる会社員などがこのカフェにはいる。
ここは私の住む多摩地域のカフェよりもはるかに冷房が効いていて、恵比寿のブランド力を見せつけられた感があるが、腐っても東京の意地だろうか。

それにしても、あれらの悲惨な現実だけを世界各国からわざわざ集めて展示する意味とはなんなのだろうと、世界報道写真展を一通り見て思った。この裕福な街の人にこんなに大変な現実があることを教えたいのか、それによって何かを煽りたいのか、写真家のお披露目の場なのか、、、。私にはその理由は掴みきれなかった。そして、報道写真とは、先進国の平和な人が普段見ることのない悲惨なもの、より残忍なものの方が報道価値が高いとされているようであることだけを理解した。
三階では『こどもの情景ー戦争とこどもたち』展が開催中で、このタイトルをこのご時世で見ると、放射能とこどもたちと置き換えたくなるものだと思いながら、過去の戦時中のこどもたちの写真を見た。

こちらは普通の街中の光景で、ここに映るこどもたちはどうなったのだろうとの思いがよぎった。

その後エクセルシオールカフェに行くと、戦時中の写真に映っていたこどもがそのまま元気に生きていればこれくらいだろうと思われる定年後の老夫婦がにこやかに会話している姿を目にした。恐らく戦争を生き抜いたあの人たちは、ほんのわずかだけれどもなにか希望らしきものを私にもたらしてくれた気がした。

このわずかばかりの希望を福島に。

2011年7月6日水曜日

美瑛の景色

太陽が頭上近くから差し込む昼時に、うまい具合につくられたビルの影に入り込んで信号待ちをしていると、私のそのちょっとした日差し対策を来る人来る人が真似をして、ビルの影にはわらわらと信号待ちの人だかりができた。都心の夏の一コマである。


そうまでして、労働意欲を鼓舞するような立派な門構えのビルから出てきたこの人たちは何をしているかというと、ランチタイムの栄養補給である。この労働者たちが熱中している仕事は、その多くはあってもなくてもいいで片付けられるとはいえ、都心のスーツ族はいかんせんやる気満々で、収穫期の農民に負けないほどいつもいつも働き者である。

そんな血気盛んな労働期の男女も、帰りの電車では姿かたちが崩れるほどにぐったり眠りに落ち、ある者は明日の労働を、ある者は今日の反省を、ある者は仕事をやめることを夢みている。

有名な絵のキャンバスに塗り込まれた一筋の絵の具ほどの効果ほども社会にもたらすかもたらさないかわからない労働者たちは、それでもチューブにおさまったままの絵の具とは違い、影となり日向となりなにがしかの表情を見せ、社会全体に一筋の効果をもたらすことを何気なくわかっているのである。

一見無目的なその効果は、地層の重なりが山を築くのと等しくこつこつとした営みで、大きな山のような社会をいつの間にか築いている。

ビルの影に集まって、私も一つの薄い層であるのも悪くない心地だと思った。

そんな折、母から電話があり、美瑛の景色が素晴らしいとの報告があった。千葉からはるばる北海道に移り住んで苦節30年の母は、彼女なりに地層の連なりから何かを感じているようだった。

2011年7月5日火曜日

かかりつけの内科

子供が大人用の自転車に乗るような無理が強いられ始めたのはいつからだろう。しかも、子供は自転車の大きさに見合う成長が期待されるのに、私ときたら老化の一方なのだ。

これでは夫婦喧嘩が増えるのも頷ける。

我が家の猫は人間でいえば70歳ほどだが、仏のようにいつも穏やかだ。ここが私の目指す境地だが、これでは程遠い。

かかりつけの内科に4か月ぶりに行くと、医師は白髪が増え、たいそう頬がこけやつれていた。それでも、こんちは、と元気よく振舞ってはいたが、あの白髪とやせ方とは似つかわしいものではなかった。

世間で生きていれば最後には通過することになる医師の元が、医師にとっては労働の現場であることが人間社会らしいありさまである。

2011年7月4日月曜日

赤いヘビ

東京東部がホットスポットであることを知らされ、私の住む西部はどうなのかと心配しながら、これではわざわざ東部に行くこともなくなるだろう、そして外から都内に遊びに来る観光客が激減するのもよくわかると土日の電車が以前より空いていることを、自分は移動が楽になったからまあいいかと何とか精神的に折り合いをつけ、外食産業で使われている野菜の産地はどこなのだろうと内部被爆を気にし、外食の際は自然と野菜を残すようになったことを憂いながら、東海道新幹線「こだま」でヘビ見つかるとのニュースを見ていた。

ヘビの訪れは何を意味するのか、その辺のことはヘビを捕獲した米原署の警官らが調べているらしいが、このヘビ、見てみると、赤地に黒の縞模様という少々派手な柄で、外食時の野菜の産地を気にする私には目の覚める容姿だった。

赤いヘビは自ら新幹線の車内に入り込んだのか誰かの手により残されたのかわからないが、その後見ず知らずの警官の手にゆだねられ怖くはないのだろうか。

いやいや、もしかすると、思いもよらずヘビを見つけた新幹線の車掌が一番怖い思いをしたのかもしれない。

ヘビの姿のような目に見える怖さと、放射性物質の目に見えない怖さの狭間で、悶々とする気温の高さが思考力を鈍らせる。

今年の夏は手ごわいな。

2011年7月3日日曜日

この世の春

連日の猛暑にやられ、使用期限が6月いっぱいだった源泉かけ流しの露天岩風呂がある都内の温泉の回数券が2枚残っていたのを、結局この暑さのなかで入浴しても熱中症になりかねないと使うことをやめ、暑さと冷房とですっかり体調を崩しているところに、母から豊富温泉に行ってきたとのメールが入った。

なにやら豊富温泉は道北の日本海側にある温泉で、しょっぱく海藻の臭みと石油の臭いがする湯だという。その湯に浸かると妙に温まると母はメールで言うが、こちらの暑さは暖まるどころの話ではない。

私は夜寝るときにベッドのマットレスがまとわりつくように暑いので、ろくに客も来ないのに唯一我が家にある客用敷き布団を、マットレスよりは暑くないだろうとベッドの横のスペースに敷き、どうしても暑くて寝苦しい時はそちらへ転げ落ちて移動できるようにしたところだった。数日前のことである。すると、どうしてどうして何の変哲もないはずのその敷き布団は実際にマットレスよりはるかに涼しい寝心地であることを発見することとなり、この敷布団でなら、寝心地は硬くて身体は痛いがより涼しく寝られると喜び、昼間は三つ折りにしてそのままベッドの横に置いておいた。すると、その涼しさを読み取ってか我家の猫は、猫の大きさにジャストサイズの三つ折りにされた敷き布団にゴロンと横たわり、いつの頃からか一日中そこで昼寝も夜寝もし、好き放題に猫の毛をつけるようになった。

私がようやく見つけた涼しさを猫が一瞬にして横取りする賢さに驚嘆しながら、私は目黒の庭園美術館で開催中の『森と芸術』展に向かった。

節電のため、部屋によって暑くなったり寒くなったりする展示の流れは、それでもゴーギャンの作品を見たときにはカンカン照りの中来てみて良かったと思った。

福島原発によってすっかりダメージを与えられた感を持つようになった首都圏の自然は、とは言ってもそもそも「森」などではなく、もとから物足りなさを私は感じていた。そこに放射性物質が舞い降りれば当然のように行き場はない。そんな悲嘆にくれる日々の中やってきた『森と芸術』展では、ゴーギャンが100年以上前に近代西洋文明に不信を募らせ大自然の野生に何かを見出す姿があった。

私は資本主義社会で不抜けた政府と東電と経産省を見て生きるくらいなら、知床で熊と生存競争する方がマシだと思うようになった。熊相手なら死んでも納得出来る。猫を熊から守れないのではないかとの不安はあるが、今は三つ折り布団の上でこの世の春のように熟睡する猫も、知床に行けば自然と警戒心をもつようになるかもしれない。

北海道の母は今頃豊富温泉を出て寒いくらいに感じられる道北の道を自宅のある旭川に向かっているだろうと思うと、この暑さが奇妙なものに思われた。

その奇妙さとは、それでも東京で暮らすことを選んでいる自分へのものだろう。

2011年7月2日土曜日

冷蔵庫のようなスーパー

連日の暑さよりマシとはいえ、今日は湿度がひときわ高いために不快指数も高くなり、外出がついつい億劫になる。もう窓辺の葦簾は気休め程度にしか感じられないほどだ。そこに、福島で焼身自殺か、などという情報が入ると、脳の働きは一旦停止し心が空っぽになり、その後一気に暗くなる。そのためか、葦簾を立てかけて部屋が薄暗いのが、より暗く感じられた。

それでも私の気分とは裏腹に宇宙のリズムは波動を続け、外に出ると一気に空間は明るかった。

スーパーに行けば自然に産地を選り分けている自分がいることに、まだまだ生きる気力を持っているのだと自分で驚き、冷蔵庫のようなスーパーの涼しさに癒されたところで再び宇宙のリズムで日差しが照り返す通りへ出た。

それにしても、この心の暗雲が放射性物質の半減期が過ぎるまで続くと思うと、恐らく生きている間に平和は来ないことが予想され、福島での自殺が思い起こされた。

まだ産地を選ぶくらいに気力があるんだからと、とぼりとぼりと家に帰った。

2011年7月1日金曜日

アユ釣り

葦簾の隙間から差し入る日差しは、午前中は強かったものの午後になると突き刺す力を弱め、日々太陽と向きあう葦簾に夜以外の束の間の休息をもたらし、葦簾のこちら側にある私の居る部屋の温度の上昇を、ほんの少しだけれども和らげた。

一昨日、ケーブルテレビが深夜近くに映らなくなり、翌朝ケーブル会社に電話で問い合わせると、集合住宅なので共用アンテナの接続を不動産業者に確認してもらうよう言われ、言われたとおりに不動産屋に電話してその旨伝えると、不動産屋はアンテナを確認することを快く引き受けてくれた。そして所々の用を済ませて昨日の夕方家に入りテレビをつけたときには映るようになっていたことに、不動産屋との信頼関係も深まったかとホッとしていたら、夜になると近づく雷と共に再びテレビは途切れるのだった。

そのテレビが今日の朝起きたときにはきちんと映っていて、他の入居者が今回は不動産業者に連絡してくれたのかと自分で連絡しなくても良かったことを幸運に思いながら、テレビに流れるニュースに目を向けた。

相模川で60代と80代の男性二人が死亡とのニュースである。

先日の雨で川の水位が60センチほど上昇していたらしく、投網とアユ釣りをする二人は流れに飲み込まれたようで、私は昨日の帰り道に通った家のすぐそばを流れる川に思いが行ったが、その時の川が茶色の水を含みいつもより水位が高かったことを思い出した。

目の前にかかる葦簾を、これを筏にして川を進めるかと思ってみたが、葦簾だけなら水面に浮いて器用に流れるだろうが、私が乗ればバランスを崩して一気に沈むだろうと思った。でも、鮎を釣るためならやるのだろうかと考えながら、ここでの判断が生死の境目としては重要だと、座布団の上で暑さのために身体を伸ばしきってダラっと寝ている猫を見た。そして、猫はネズミをとれるから、やはり猫のご馳走のためでもやらないだろうと思考が定まった。

しかし80歳だったら。

80歳ならば、葦簾を筏に川を渡ろうと思うかも知れない。窓にかかる葦簾の安定感とは無縁のこの種の老いたが故の無謀さは、脳をはじめとした肉体の衰えとも思えるが、鮭の遡上のごとき勢いを持つものだ。

川辺の葦は、土が見えないほどに生い茂っている。ちょっとした段差をのぞけば概ね水平に流れ最終的に海を目指す川の畔で、空目がけて垂直に伸びる葦は川の流れとは対照的に見える。その葦の一部は刈り取られて我が家の窓辺に、川の水の一分は汚れを除かれてその一部は我が家の水道にきているのだから、異種のものに見える両者が、人のかかわりという点では共に深いものがあるのはよくわかる。

それならば人の一部が川に行っても不思議ではない。川は鮎を餌に人を釣ろうとしているのかもしれない。このやや呪術的発想は的外れに見えて、実はこれこそ大自然そのものなのだ。