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2010年11月30日火曜日

高幡不動尊

カラカラに乾いてひび割れた仁王門の柱を抜けるとゆるやかな勾配を下り、参拝客が水舎で自身を浄める水音が聞こえてくる。加えてその場に最も似つかわしい香り、線香の香りが空気中を泳いでまとわりついてくるのに出会う。長年のすり込みのせいで、この二つが揃うとお寺の境内に来たとの感慨が自然と深まるらしい。そしてそこが今までと別世界で、まるでにじり口から茶室に入るような小宇宙をこの時いつも感じるのだ。

水舎に行くと、冬を待つはずの水はそれほど冷たくもなく楽に手と口を浄めることができる。大香炉はある地点にとまると線香の煙が渦を巻いて私を取り囲むので、なんだか楽しくなってくる。すると13時から不動堂で護摩修行があるとの放送があり、このマイク放送で小宇宙から現実へと引き戻された。

護摩修行に参加するため不動堂に入ると、十数名の参拝客がすでに正座して修行が始まるのを待っていた。七五三のお参りで来ているという落ち着かない様子の子供たちも3人ほどいた。足をバタバタさせたり、まだまだ凝りを知らない柔軟な身体でキョロキョロ振り向いたりして、ここがどこかも知らないまま、精一杯の忍耐強さでなんとかそこに居留まっている風だった。私は一番後ろの方で正座して待つことにした。すると微妙に足音の違う4人か5人の僧侶が足袋の擦れる音とともにすごすごと入ってきて、それぞれの持場についてお経を唱え始めた。真剣なのか、惰性なのかよくわからないくらいの気合いで読まれるお経だ。それがしばらく続くと、太鼓や金属の鳴り物が入ってきて楽しいリズムになってくる。リズム感が出てきて細胞が活性化してきた感覚を得ながらも、先日聴いたアーノンクールの方がはるかに真剣だったことを思いながら、東大寺のお水取りは年に一回だからか真剣そのものだったことを思い出しながら、坊さんのお経よりよっぽど真摯に祈っていると思われる参拝客たちと共に護摩修行に心を傾けた。

30分ほどして滞りなく護摩修行が終わると、最後に一番えらい坊さんらしき人の話が始まった。高幡不動尊の紅葉は他のどこにも負けずきれいであること、そして自分がNHKのラジオに出演してそれが本になり、好評を博して5万部刷られていて、境内でも販売している、出来る限り署名入りでとのこと。
怒られることの大切さという本の内容はごもっともと思うが、修行の後の営業話から坊主丸儲けとの慣用表現だけが頭の中に残る結果となり、若干幻滅した。だが、まあこんなものだろうと気を取り直して、奥殿に収蔵されている仏教美術を見に行くことにした。

当然の配慮かも知れないが、護摩修行が終わるのに合わせてちょうど別の坊さんの仏教美術解説が始まるところだった。恐らくお経の読み過ぎで喉がつぶれたためにこの声なのだろうが、いつも人に経を聞かせているだけあって、なかなかいい声の坊さんだ。そのいい声につられてか、美術品の解説が始まってほどなく、参加者の中のシャキシャキした足取りのおばあちゃんがとても積極的に質問しだした。そしてそれが他のお客さんにも波及したのか、他の人達もいろいろ質問し始めたので、結局30~40分で終わるはずだった説明が50分以上に渡った。この光景に居合わせた私は、日本人が日本のことを知ろうとする姿がなにか誇らしく思えてきた。

美術品のなかでは金剛界大日如来像が最も私の興味を引いた。平安時代につくられた木造のこの仏像は、永きに渡って人々の祈りや願い事などの念を一身に受け止めてきたのだが、その前に立つと如来のオーラが辺りを包み始めるのがわかる。私は万人に開かれたその境地が血の通った暖かさで表現されていることに驚いた。仏教美術において、日本人の繊細な美的、宗教的センスというものは、遺憾なく発揮されるものだと思えてならない。

奥殿の一番最後に出てくるのは本尊の不動明王像と両童子像なのだが、牙を出して怖い顔をしている不動明王像の向かって左には気の強そうな猛々しい童子がいて、右には機嫌を伺うような気弱な童子がいるという構図がなんとも面白い。興福寺の木造十二神将立像も随分ユーモラスだが、仏教美術のこの手のユーモアが私はとても好きなようだ。

高幡不動尊は真言宗智山派。その真髄が如来像や不動明王像がつくりだす空気から十二分に伝わることとなった参拝だった。

2010年11月29日月曜日

11月の花・広島

広島旅行の際撮った花の画像です。
サザンカ
花言葉は「困難に打ち勝つ」「ひたむきさ」

寒椿

ゼラニューム
花言葉は「慰安」

寒椿

因島の重井港近くにあった木です。

2010年11月28日日曜日

ニコラウス・アーノンクール

ニコラウス・アーノンクールという指揮者がウィーンの伝統から解放された解釈で指揮をしているらしいとの情報を夫から聞き、NHKプレミアムシアターで放送されていた2010年のNHK音楽祭で指揮するアーノンクールを聴いてみることにした。曲目はバッハ/ミサ曲ロ短調。

照明が落とされ暗くなると、しばらくの沈黙の後にどこからともなく拍手がなり始める。アーノンクールがアリス夫人らウィーン交響楽団出身者と共に立ち上げたウィーン・コンツェントゥス・ムジクスの登場だ。その後合唱団が登場し、やや強まる拍手と共にソプラノからバスまでそれぞれのパートを受け持つソロの歌手たちが入場する。そしてややあってアーノンクールが姿を現すと、会場に向かってお辞儀をした途端に一層強まる拍手で観客に迎えられた。

他のオーケストラ・指揮者による同曲の演奏を聴いたことがないので比較することはできないが、地の底から響いてくる音色を大事に大事に観客のもとへと届けてくれる演奏がとても気に入った。古楽器によるバッハの世界を十分堪能させてくれる演奏会だったと思う。

一緒に聴いていた猫も穏やかに安眠している様子だった。

アーノンクールはこの演奏時すでに80歳。今後の活躍に目が離せなくなりそうだ。


 

猫・尾道

尾道の古寺巡りをしていると、石畳で多くの猫と出会えます。

尾道商店街の靴屋さんから出てきた猫です。

タッタッタっと小走りです。

柵の向こうで毛づくろいを始めました。

そして休んでます。

シックな黒猫発見。
「なんやねん。」

近づいても「なんやねん」と表情を変えません。

そしてそのまま立ち去る黒猫ちゃん。

でも呼ぶと、再び「なんやねん」と振り返り、

「こっちは用あらへんわ」とクールに去って行くのでした。

石畳で毛づくろいに余念が無い猫発見。

そばに行っても一向に気にしないようです。
「関係ないわ。」

なかなかさまになる石畳とのコンビネーション。
「当たり前や。何年この商売やってる思てんねん、アホ。」

今度は駐車場で猫発見。

「わての柄はバイクと合うで。どや。」

「撫でなはれ。」

「ゴロンゴロンや。」

「もっとゴロンゴロンや。これやると血行よくなんねん。」

お次は石段で猫発見。

「知らんわ。プイ。」

「何しに来んねん、あんた。」
と言って去って行きました。

またまた石畳で美猫発見。

「なんや、あんた、見ない顔やけど、よそ者やな。」

「用ないわ。」

「どこまで来んねん、アホ。」

「あんた物好きやな。」

石畳の遥か遠くに猫発見。
慌ててこの画像だけ撮りました。
「わては動きが早いさかいに、簡単には撮らせへんで。どや。」

こちらは海岸沿いに下りたところで会った猫ちゃんです。
「物思いに耽ってるんや。ほうっといてや。」

「なんやねん、あんた。」


「微動だにせえへんで。」

すると、海の近くに他の猫ちゃんが。

「わても微動だにせえへんで。」

「どや。動かへんやろ。」

「何言うてるの。動いたのは顔だけや、アホ。」

尾道を舞台にしたNHKの朝ドラ『てっぱん』の館が商店街にあり、
なぜかそこに招き猫の如く猫がこうしていました。
「おいでやすう。」

誰も常駐していないようなのですが、
こうして猫がずっと居るようです。
おばちゃんが「またね」と言って頭を撫でて通って行ったのを見ると、
相当この地で馴染んでいるようです。

こうして館からは1㍍くらいしか出ないでお店を守っている
とても賢い猫ちゃんでした。
「仕事やさかいに。おおきに。」

2010年11月27日土曜日

紅葉の日・続き

朝のニュースで、今年は寒暖差が大きかったために紅葉が一段ときれいだとの内容を聞いた。北海道のある町で氷点下20度との観測が出たことを知ると、幼い頃自分が何度も経験したその世界がどのようなものだったかを思い出し、怖いもの見たさで体験したくなるように、例年よりきれいな紅葉とはどのようなものかを体験したくなった。そこで遅い朝食を取ると、午前中指定の宅配便を放ったらかして、比較的近くて落葉樹の多い新宿御苑へ紅葉狩りに出かけることにした。

秋晴れの陽気に包まれる歩道をコツコツコツコツと足音が近づいてきては追い抜いていく。若い女性たちはこれから仕事に向かうようだ。シャシャッシャシャッと買い物袋がすれる音に合わせたもう少しゆっくりした足音は、朝一番で買い物に出て帰る途中の老人だろう。老人はなにより朝が早い。そんな朝の活力のような数々の足音に紛れて十数分の道のりを終えると、ラッシュを過ぎた時間とはいえ緊張感の走る駅に着く。

階段、改札、人混みのすべてが荒波のその構内は、たかだか数十メートルのスペースなのにいつも手強い。電車の警笛の音と自分の前を過ぎていくときにぶつけてくる突風のような風ほど心臓に悪いものはない。そして見知らぬ人の存在は奇襲攻撃のようだ。

幾多の難関を無事通過して電車に乗り込むと、眩しかった陽光が車内にも差し込むことに神経質になったけれども、あるところのブラインドが下りていたためにそこだけ光が減り、ようやく安心して腰を下ろすことができた。静かな電車のなかは話している人がまばらの普段の姿で、座席部分がいっぱいのために隣の人とぶつかるのもいつも通りだ。そしてガタンゴトンという電車の走る音だけが、終着駅の新宿までただただ続いた。

紅葉狩りの目的を果たすべく新宿御苑に入ると、朝方まで降っていた雨のせいで木々の幹は湿り気を帯び、足下を踊るはずの枯れ葉は活動を抑えられていた。それでも私同様に紅葉目当ての人々は多数御苑を訪れて、それぞれに楽しんでいるようだった。

姿がきれいねと話す人たちの向こうには姿の良いモミジの木があるのだし、大勢がカメラを構える向こうには必ず庭園ならではの絶景がある。中高年独特の枯れた声をした指導者らしき男性がいろいろ指図する先には、それに従う同じく中高年独特のしわがれ声の男女たちがいて、楽しそうに嬉しそうに、紅葉と同じくらいに写真撮影を楽しんでいる。恐らく定年後の富裕層と言われる年金生活者だろうが、その話から三脚つきの高いカメラを一式そろえていることは明らかだ。そしてそんなグループの傍らからは絵の具のにおいがすることが多いのも紅葉する園内の風景としては当たり前のようである。世間話をしながら絵描きに励む声からは、やはり年齢を経てきた独特のその声質から、彼らも中高年とわかる。園内は中高年全盛期といえるようだ。

こうした木々を取り囲むさまざまな姿も紅葉狩りを楽しむ一つの要素なのだろうとつくづく思いながら日本庭園を歩いていると、声をひそめようと努力しつつもついつい出てしまった普段より1オクターブ高いであろう感嘆の声が聞こえてくる。そういう時はだいたい猫がいるものだ。そして実際猫がいた。大きさと肌触りが微妙に違う5匹の猫たちが、驚くほど大人しく人を警戒しない様子で日向ぼっこをしている。入れ替わり立ち代わりシャッターの音がするのを聞くと、紅葉に負けない人気者らしい。

「あの赤きれい」という声や、「鮮やかな黄色ね」という声に合わせて赤く色づくモミジの葉や黄色く色づくイチョウの葉を手に取ると、その手の感触と人々の声の様子から私の赤や黄色という色へのイメージが膨らんでいくのがわかる。それはゴッホの絵の中に出てくる黄色やゴーギャンの絵に出てくる赤のようなものなのかも知れない、きっとそうに違いないという思いを胸に、紅葉の素晴らしさを少しは体感した気持ちで新宿御苑を後にした。

2010年11月26日金曜日

紅葉・新宿御苑

新宿御苑の紅葉です。紅葉する落葉樹が多い公園だけあって、
大量の落ち葉が足元を覆ってました。

新宿門から入って最初に出会った紅葉です。

この巨木、何度見ても迫力あります。

サザンカ

日本庭園の紅葉


灯籠とモミジ

名称不明な花

よく見えませんが芝生の真ん中に鳥がいます。

サザンカ

プラタナス並木
大分葉が落ちてます。

コウテイダリア

イチョウを背景にコウテイダリア

上の方の葉が大分落ちてきたイチョウの木
今回の新宿御苑ではイチョウの黄色が特にすごかったとの印象です。

木の下に立つと、別世界です。

下の落ち葉がふかふかです。

都心でこれだけの規模の紅葉を見られるところはなかなかないので
貴重な紅葉体験となりました。良かったです。