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2010年9月16日木曜日

サラ・ベルナール

いつかサラ・ベルナールについての本があれば読んでみたいと思っていたのですが、ようやく『ベル・エポックの肖像 サラ・ベルナールとその時代』を読み始めました。

フランスが最も華やかだった「ベル・エポック」の時期に、医師から長くは生きられないだろうと言われるほどの虚弱体質をいつの間にか乗り切ってスターダムにのし上がったサラ・ベルナール。いくつかのエピソードを読むだけで、その精神の凄さが伝わってきます。

里子に出されたり連れ戻されたりと、落ち着いて幼少期を過ごすことのできなかったサラですが、教育を受けるために由緒あるグラン・シャン修道院に入ります。癇癪を起こすサラを院長ソフィーは優しく穏やかになるよう愛情を注いでくれたそうな。サラの回想録に、そんなソフィー聖女への思いがこうあります。
「それから、私の病状が、動かすことができるほどに快復すると、母は治りきったらすぐ修道院に戻してあげるからと約束して、私をパリに連れていった。
そして、それが、親愛なる修道院との永遠の別れとなった。だがソフィー聖女との永遠の別れとはならなかった。彼女は、私の心の中に生きているからである。彼女が亡くなって年月がたつが、その思い出は私の心の中に、往時の懐かしい記憶としてよみがえってくるし、かつて咲いた花々のように、私の心の中に花を咲かせているのだ。・・・・・・
私の本当の人生が始まろうとしていた。・・・・・・
もう修道院に戻ることはないのだと知ったとき、私は大海に投げ出されたような気がした。それに、私は泳ぐことを知らなかった。」(『回想録』)

サラは9歳で修道院に入って、出たときは15歳でした。「泳ぐことを知らなかった」とあるように、その後国立音楽演劇学校を卒業して女優として駈け出した頃、確かにいろいろトラブッたようです。(演劇の方に行ったのは、伯母の恋人モリニー公爵がサラの才能を見抜いて猛烈にバックアップしてくれたからのようです。)
ですがその後成功をおさめ、一度は追い出されたコメディー・フランセーズから戻ってくるよう声がかかるようにまでなりました。

30歳になる前に不動の評価を得るサラは海外公演でも人気を博します。そしてそこで得た収入をパリでどっとつかうというのが彼女の生活のパターンになってしまいます。お金がなくなる→海外に行けば集金できる→集金したお金をパリでの社交界生活などの贅沢にあてるという繰り返しが変わらなかったのでした。

長期の世界公演を終えた翌年の1894年に、とある伯爵のパーティで、まだ当時無名だったマルセル・プルーストが熱烈な称賛者としてサラの前に現れます。20年後、プルーストは『失われた時を求めて』で、この社交界を蘇らせてます。

1915年、70歳のサラは、以前『トスカ』の舞台で傷めた右足が悪化したために、切断を余儀なくされました。そしてその後も仕事を続けるのでした。

サラの口をついてでる言葉が「何がなんでもやりぬいてみせる」だそうですが、本当にやり抜いてます。

コレットはサラから夕食の招待を受けたとき、その文面が命令のように思えたと述べてますが、その一度の出会いで、「・・・・・・人から愛されよう、もっと愛されよう、死のとば口に到るまで愛されようとする不屈の気遣い・・・・・・」とサラの印象を表現してます。両親の愛の薄い幼少時代を取り戻すかのような不屈の精神です。

サラは79歳で亡くなりました。