普段でも観光や参詣客の多い明治神宮は、年が開けて一週間以上経っても、ギュッギュッと参道に敷かれた砂利を踏みしめてはわずかに蹴り上げて歩く人々が前後左右に無数にひしめいて絶えることがない。当然のように、パワースポットとしていつからか大人気の清正井は、この日も長蛇の列という。ところがあまりに静かなので私は長蛇の列にも気づかずにいる。静かといっても砂利の音に話し声がかき消されているだけか、周囲の木々に吸収されているだけだと思うが、寒くて顔の筋肉が萎縮したのかも知れないと思うほどに、境内ではいつもなら聞こえるような笑い声や話し声が聞こえない。ただただ足音だけである。
大鳥居をくぐって長い参道を10分ほど歩くと、ようやく本殿に行き着く。それまで左右に密集する背の高い木々ですっかり空気が冷えていたのが、本殿前ではそのように日差しを遮るものがなく、明るく暖かな広場となっている。それを体験すると、祀るというのは随分と大掛かりな演出のように思えてくる。
その翌々日に都内から中央道を走る高速バスに乗って石和温泉のお湯につかろうと、冬本番の凍てつく寒さのなか家を出る。高架上にあるバス停への階段は、そのはじまりのところにバス利用者用トイレがあり、夏はもっと臭っていたはずが、さすがにこの寒さではあまり臭いを放たず控えめに佇んでいる。その脇には、バス利用者のものと思われる数台の自転車が、強風に倒されたようで重なり合い、つまずく恐怖と苛立ちをもたらす。
一日に何人の人がここを上り下りするのだろうと疑問になるような、都内にしては利用者の少ないであろう冷たいコンクリートの階段を上ると、高速を走る車のエンジンとタイヤの音が塀の向こうから聞こえてくる。ステンレスの冷えた手すりをつかむと、先月行った冬の北海道を思い出す。芦別温泉の露天風呂では手すりをつかむと手がくっついて離せない凍てつき様で、旭岳の姿見駅にいたっては外に長時間居られない寒さだったのが懐かしい。
北国の寒さを思い出す一方で、車のビュンビュン走る音に若干の非日常性を感じながら階段を上りきったところの扉を開けると、車が払いのける風が一気に全身に押し寄せて、前に進もうとする私の身体を後ずさりさせる。車が間違ってこちらに走って来たらどうしようとの不安を抱かせることもない緒突猛進するだけの車たちは、こちらには目もくれることなく走り去っていく。
ようやく雨だけはしのげるほどの小さな待合所に入ってしばらく待っていると一台のバスが停留所に停まる。それが目的のバスでないことにがっかりすること数分。今度は乗車すべきバスが来る。客を乗せるために開く扉はプシューッと風船がしぼむのに似た音をさせてゆっくり開き、安全な様子で客を迎える。
指定された座席に座って少し後にバスは発車する。随分静かな車内は、他に誰も乗車客がいないかのようだ。時々後部に設置されたトイレに行くために立ち上がる人がいるので他にも乗客が居ることはわかるのだが、一人旅なのか疲れているのか、誰もが沈黙している。これほどの沈黙も珍しい。しかししばらくして車内の暖かさに感謝し始める頃には、停留所で待っていた時とは違うカタカタカタカタという窓の振動音や、声をひそめた話し声が聞こえてきて、停留所とは全く違う環境であることに気づく。そしてその環境のなかで眠気をもよおしながら一時間半過ごして石和に到着する。
石和温泉の深雪温泉という旅館の日帰り入浴に行くと、露天風呂は以前来た秋の頃より寒くて湯温もぬるいために、長く入っていると頭が冷えてくる。そこで内湯で温めてから露天に再び行く。すると、湯船から溢れるお湯の通り道が一カ所つくられていることに気づく。その湯船に設けられた他より凹んだ道に手を置いてみると、お湯が波波とはき出されていることにどうしてももったいないと思ってしまうのだが、このお湯の通り道が面白い。
お湯の流れを辿っていくと、曲線を描きながら敷石を越え、土のエリアに入って行く。そこはすべて露天風呂の庭なのだろうが、お湯を川に見立てるとは上手い。湯船の一番奥の向かって右角から湧き出る源泉は、石臼のような湯溜めにおさまってから白糸の滝のように細い糸状になって幾重にも降り注ぎ、その姿は決していつも同じではない。そうして注ぎ続ける温泉は、今度はそこと対角線上のやや手前で露天の庭に川をつくって流れ出る。その川は両端が緩やかな弓状になっていて、始まりのところでは右側の湯は左へ、左側の湯は右へと勾配を流れるために、数十センチ先のところで両者はぶつかり交差して、その後もより右へ、より左へと道筋をつくる。その☓印をかたちづくる交点では、指を入れてみると深さが両端の二倍ほどであることがわかり、水流も激しくなる。
この何の変哲もない露天風呂のつくりのなかで、これだけの動きがあることが身体の細胞をより活性化するように感じる思いだった。
石和温泉高速バス乗り場近くには石和八幡宮や鵜飼山遠妙寺などの寺社がある。けれどいずれも明治神宮とは正反対に誰も参拝にきている様子がなくひたすらひっそりして、遠妙寺の大香炉から線香の香りがすることもない。石和の人たちがとうの昔に初詣を終えたようなその光景に、同じ日本でありながら都内とは全くの別世界に来た、あるいは時間軸の上をズレたかのような感覚に襲われる1月の石和温泉日帰り入浴だった。