ランチタイムに白金にあるカフェラボエーム入った。
吹き抜けの空間では丸い木のテーブルとそれを取り囲むキツネ色のイスが所狭しと床を埋め、壁際には四角いテーブルが等間隔に並んでいる。その中を、隈無くジャズの音楽が流れ渡り、私が座ったテーブルの向こうでは架空の動物を表現したような石像が、その口からチョロチョロと水を落としている。チョロチョロと言っても、10メートルくらい離れた私のいるところまでジャズの流れをかいくぐって水音を届かせるのだから、弱くはない自己顕示を示していると言えるだろう。
けれども何より私の耳を奪うのは、店員たちの接客の声だった。その声は時に大きく、時に小さく、状況状況で使い分けられている、とても気遣いのあるかけ声で、休むことなく流れるジャズの音楽同様客に居心地の良さをもたらしてくれる。ホールの店員たちは常に客のテーブルの状態に目を光らせ、食事が終われば速やかに皿を片づけ、食後のコーヒーが減った頃には継ぎ足しに来てくれる。そしてそんな合間にも、新規の客を出迎えメニューを説明し、テーブルが空けば片づけてセットする。猛烈に多忙なランチタイムをこの勢いでこなすのはとてつもない気力と体力だろう。
私は先日これと同じような輝かしい労働環境を目にしたばかりだった。それは胃ポリープの再検査を受けに行った、とある総合病院である。私はこの病院の待合室で長々と2時間に渡って診察の順番を待っていた。
外科内科整形外科などいくつかの診療科の受付を一手に引き受けるこのフロアの受付の前には5人くらい座れる長椅子が10列×2ほど並ぶ。他にもこのフロアには各診療科の前に並ぶ長椅子+その他の場所に並ぶ椅子があり、いずれの椅子にも患者たちが座り、何十人もが自分の順番を待っている。高齢者から、これまで病気など無縁で生きてきた素人患者まで、看護師たちはとてもテキパキと大抵は大声で、ときにプライバシーに配慮する必要があると思われる場合は密やかに声をかけて必要事項を伝え聞き出し、事務手続きを処理していく。その自意識を捨てた仕事ぶりに、私は、白衣を纏う人間に少なからず持っていたある種の不信感、子供じみた根拠なき病院への嫌悪感が和らいだのを感じた。
看護師たちは私が診察を待つ2時間、変わらぬ処理スピードを維持し続けながら仕事をすすめていた。そして、私が診察を終えて受付を待つ間の1時間も、その処理速度と患者への接し方は変わることがなかった。この無我夢中で白衣の労働に挑む姿に、少なからずこの病院への信頼が増したと思う。医師も一昔前のドイツ語でカルテを書く時代とは違い、カタカナで患者にわかるように書いて説明してくれる。医療もサービス業との自覚をもっているようだ。
これだけ多忙な仕事をこなす医師や看護師たちに関心したのだけれども、一抹の不安がよぎった。こんなに多忙で疲れているはずの人が手術するって、大丈夫なのだろうか、朦朧としているのではないだろうか、と。
それでも信じるしかないので手術は任せることにしよう。ただ、カフェラボエームの従業員や検査を受けに行った病院の従業員が帰りの電車で人目もはばからずに爆睡しているのは致し方ないことと思った。どんな姿でもいいからゆっくり休んでください。
有栖川宮公園は池の泥を除いている最中で、若干風情を欠いていた。それが池を越えて枯れ山水の方まで行き、階段を上って梅の咲く広場まで行くと、恐らく一度も拾い集められたことがないと思われるほどに積もった太陽光の暖かみを含んだフワフワの枯葉たちが一面に手を広げて待っている。日当たりの良いこの場所にはベンチが多く、老若男女が群れ集まり、ある人はお昼ご飯を食べ、ある人は本を読み、ある人は子守をしながら、いたって日常の延長を過ごしている。わりと親子連れの多いこの公園は、子供の数と同じくらいの犬がいて、犬の社交場にもなっているようだ。池のカモと同程度に陸において幅を利かせるこの個性豊かな風貌の犬たちは、風貌の強烈さに反していたって人には従順で、人間の子供よりよほど静かだった。
白金から広尾、麻布までは各国大使館がとにかく並ぶ。フランス、ドイツ、中国、韓国、ジンバブエ、ベラルーシとキリがない。そのためもあり、外国人が多く、すれ違う通行人は日本人より外国人の方が多いと思えるほどである。インターナショナルスクールや幼稚園もあり、えらく元気なお兄さんお姉さんが子供を大勢連れて英語を飛びかわしながら遠足している姿も見かける。
バブルの匂い残る白金麻布界隈だった。