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2010年5月13日木曜日

長崎・軍艦島上陸クルーズ

長崎旅行の二日目に行ってきました。
軍艦島はもとは「端島」という島です。
それが埋め立て埋め立てで拡大して建物を建ててるうちに、
外観が軍艦「土佐」に似てきて、軍艦島といわれるようになりました。


朝の九時出発の軍艦島上陸クルーズ。
小雨でしたが、宿泊先の東横インで傘をお借りする事ができ助かりました。
ありがとうございます。

そこまではさい先よかったのですが、
定員200名ほどの割とこじんまりした船に座ってみると、
揺れがすごいんです。こんなに揺れる船は初めてです。
波が荒いわけでもないのに・・・港が狭いからか・・・。
(長崎港は深く切り込んでいて、周囲を家で埋められた山で囲まれています。)
右側の方がお勧めとの係員さんのお言葉通りに、
右サイドに座って出発を待つ・・・そして船はその間も揺れ続ける・・・
酔い止めを飲む・・・。

軍艦ときくとおじさんたちの血が騒ぐのか、
乗客の三分の一位を占める彼らは朝からやたらとハイテンション。
(単に早起きですでにテンションの高い時間帯なのかもしれない。)


軍艦島(端島)

実はこのクルーズ、悪天候が多いため、
三回に一回くらいしか上陸が実現しないのです。
長崎といえば雨、でも、軍艦島では傘禁止。
なので船内ではカッパを売ってます。
私が上陸したときも途中雨が降りましたが、
それでも上陸できてラッキーでした。でも寒かったよ~。

エネルギー革命により、石炭から石油へと需要が変わると、
この島はいとも簡単に用済みとなり、
廃墟になったのは誰もが知るところです。


島が近づくと、
怖い怖い映画『サイレントヒル』の廃墟の町並みを思い出します。
ガイドさんが、
原爆が落ちたときはこのようだったと思いますとサラっとおっしゃる・・・。
それくらい、壁は黒ずんで崩れ落ち、
人影もなく、死んだ街と化してます。

昨日から平和記念公園、原爆資料館と続いて、
すっかり原爆という言葉にセンシティブになっている私は、
ガイドさんに原爆が落ちた瞬間のような状態と言われ、
すっかりブルーからダークになりました。
ガイドのおじさんは三回に一回のガイドが実現して嬉しいらしく、
客を楽しませようと色々話してくれるのですが、
どんなに明るく説明されても、
原爆投下時のようと言われれば、笑えない私でした。

同じように一度は死と化した場所でも、
海の向こうの市内は都市が再生したのに、軍艦島は崩れ去りました。
暮らすためにつくられた街と、
石炭採掘のためだけに人が集められた街とでは、
再生能力が違うのは当然ですが、
それですべてを割り切る三菱とその社会、
そしてそこで生きる自分に嫌悪感がわきました。

緑なき軍艦島といわれますが、
実際にはわずかですが緑があります。
花も咲いてました。

張り切りガイドさん曰く、石炭を運ぶベルトコンベアーができる前は、
馬を使っていたそうで、一度馬が炭坑に入ると、
死ぬまで働く運命だったそうです。
すべて人間にゆだねられる馬の運命・・・やはり人間は業が深い・・・、
だから無駄に悩みも多い・・・そして石炭いらずになると島を捨てる・・・、
後先考えずに金になるからと手を付ける・・・最低の経営・・・、
要するに、ア・・・ホ・・・ということでしょうか。

そんな姿をわざわざ観光資源にして見せるとは、太っ腹です。

一部の三菱のエリート以外は労働環境どころか生活環境もひどく、
海水が波打って入ってくる西側に、
あえて炭坑を守るための防波堤として、
住居を与えられていたそうです。
今も昔も汗かき労働者の環境はひどいもののようです。

炭坑員は、仕事を終えて真っ黒になって帰ってくると、
水不足のため海水で身体を洗ったそうです。
プールがあったのですが(上の画像はプール跡です)、
そこも海水だったそうな。
そのため、海の小魚と一緒に泳いでいたようです。

今現在も、島内は崩れ続けていて、
来る度に違う軍艦島をみられるそうです。
つまり、どんどん廃墟度が増すということですね。
きっと沈没するまでこのツアーは存続するのでしょう。

因みに、下船の時、何の前触れもなく、
「軍艦島上陸証明書」なるものをいただきました。
質に入れて価値のあるものならありがたいのですが、
一応取っておきます。

終。