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2011年7月1日金曜日

アユ釣り

葦簾の隙間から差し入る日差しは、午前中は強かったものの午後になると突き刺す力を弱め、日々太陽と向きあう葦簾に夜以外の束の間の休息をもたらし、葦簾のこちら側にある私の居る部屋の温度の上昇を、ほんの少しだけれども和らげた。

一昨日、ケーブルテレビが深夜近くに映らなくなり、翌朝ケーブル会社に電話で問い合わせると、集合住宅なので共用アンテナの接続を不動産業者に確認してもらうよう言われ、言われたとおりに不動産屋に電話してその旨伝えると、不動産屋はアンテナを確認することを快く引き受けてくれた。そして所々の用を済ませて昨日の夕方家に入りテレビをつけたときには映るようになっていたことに、不動産屋との信頼関係も深まったかとホッとしていたら、夜になると近づく雷と共に再びテレビは途切れるのだった。

そのテレビが今日の朝起きたときにはきちんと映っていて、他の入居者が今回は不動産業者に連絡してくれたのかと自分で連絡しなくても良かったことを幸運に思いながら、テレビに流れるニュースに目を向けた。

相模川で60代と80代の男性二人が死亡とのニュースである。

先日の雨で川の水位が60センチほど上昇していたらしく、投網とアユ釣りをする二人は流れに飲み込まれたようで、私は昨日の帰り道に通った家のすぐそばを流れる川に思いが行ったが、その時の川が茶色の水を含みいつもより水位が高かったことを思い出した。

目の前にかかる葦簾を、これを筏にして川を進めるかと思ってみたが、葦簾だけなら水面に浮いて器用に流れるだろうが、私が乗ればバランスを崩して一気に沈むだろうと思った。でも、鮎を釣るためならやるのだろうかと考えながら、ここでの判断が生死の境目としては重要だと、座布団の上で暑さのために身体を伸ばしきってダラっと寝ている猫を見た。そして、猫はネズミをとれるから、やはり猫のご馳走のためでもやらないだろうと思考が定まった。

しかし80歳だったら。

80歳ならば、葦簾を筏に川を渡ろうと思うかも知れない。窓にかかる葦簾の安定感とは無縁のこの種の老いたが故の無謀さは、脳をはじめとした肉体の衰えとも思えるが、鮭の遡上のごとき勢いを持つものだ。

川辺の葦は、土が見えないほどに生い茂っている。ちょっとした段差をのぞけば概ね水平に流れ最終的に海を目指す川の畔で、空目がけて垂直に伸びる葦は川の流れとは対照的に見える。その葦の一部は刈り取られて我が家の窓辺に、川の水の一分は汚れを除かれてその一部は我が家の水道にきているのだから、異種のものに見える両者が、人のかかわりという点では共に深いものがあるのはよくわかる。

それならば人の一部が川に行っても不思議ではない。川は鮎を餌に人を釣ろうとしているのかもしれない。このやや呪術的発想は的外れに見えて、実はこれこそ大自然そのものなのだ。