4日前に札幌を訪れたときの暑さが嘘のように肌寒い朝を向かえ、ホテルで冷房をつけていたにもかかわらず実は外の方が寒かったことを、心の中でずいぶん滑稽なことをした、北海道では真冬になると食べ物を凍らせないために冷蔵庫に保管するが、この日も札幌は暖房の役割として冷房が機能していたのだと、ここにきて再び北海道らしい日常を垣間見ることができ、年甲斐もなく楽しんだ。
この外気の涼しさの中、昨日車で走った道東の深い緑とはまったく違う都会の緑を楽しもうと、札幌駅から15分ほど歩いて北海道植物園に行くことにした。
正門を入ってすぐのところにある宮部金吾記念館の前を通ってライラック並木に出ると、生死をさまようような道東の大自然にすっかりおびえ怖気づいた昨日までの私はようやく安らぎを得た気がした。東京暮らしが長くなっている今の私には、大自然で登山を楽しむより植物園くらいがちょうどいいらしい。特に都内では放射性物質のことがあって公園の芝生や木々の元でくつろぐことがままならないので、北大植物園は、失われた東京でのもともと数少なかった緑ある生活を私に思い起こさせ、ゆったりした気持ちにさせてくれた。
ここには小石川後楽園の美しさもも六義園の優美さもないけれど、ライラック並木だけで私には十分だった。この植物園には他にもいろいろ見所があるようだし、これから見てまわることになろうが、私はすでにこの並木の元で満足していた。植物園内をいろいろ見て歩いていると、4日前にキタラホールにコンサートを聞きに訪れた中島公園でもカラスが多かったが、ここでも芝生の上、木々の上など、いたるところにカラスがいることに気づく。そしてカーカーと鳴くカラスの鳴き声は、今の私にはどんなものであれ歓迎の声として心に響くのだった。
バラ園では、どこのバラ園でも見かける枝を剪定する人がほっかぶりに黒襦袢という出で立ちの完全防備姿で仕事に勤しんでいた。その作業をする傍らではほんのりバラの香りが漂ってきて、どのバラからのものか探してみるのだけれども数ある中からなかなか見つけられず、あちらのバラへこちらのバラへと探し求める私の様は、迷い子のように見えたかもしれない。ところがここのバラ園は見ごろを過ぎたこともあってかそうそう人が多くないので、私は思う存分香りを追い求めることができた。
バラ園のなかには蓮池もあり、白とピンクと黄色のハスが咲いていた。私はハスを手の届くほどの近さで見るのが初めてで、まじまじと花びらの重なりを観察してその美しさにため息が出る思いだった。すっと伸びる花びらはきれいに先が細くとがり、薄い陶器の輝きを見せていた。特に私はほのかな黄色のハスが気に入りずっとその前でしゃがみこんで見入っていたものだった。
蓮池のあるバラ園の背後で咲くアジサイは、どちらかというとこちらが見ごろだと思うのだが、一人写生している人がいた。その真剣な眼差しに私は邪魔にならないようそそくさとそこを通り過ぎて、丸太を横に切ってつくられたベンチでパンをかじる社会科見学の中学生に紛れ込んで一休みするのだった。
このベンチのやや離れた前方にうな垂れる数本のグイマツの向こうには重要文化財の建物群がある。私は一休み終えたところでその中の一つに入ってみると、北国で生きる動物たちの剥製が展示されていた。私はしょっぱなにお目見えする熊の大きさに驚いたが、その後出てくるフクロウにはなぜか最も目を奪われるものがあった。
このフクロウは白っぽい灰色っぽい色の羽を持ち、目は穏やかに閉じられて、とても安らかに眠っていた。フクロウの心臓がもう何年も前に止まっているものとはとても思えない表情だった。私は本当にこれが剥製か疑問に思ったほどだが、事実ガラスの向こうで眠るこのフクロウは剥製なのである。
しかし、いろいろな動物の剥製を見てややもすると、死んで剥製にされて展示している意味がわからないことに気づいた。強いて言えば、人間もいつかこのようになにものかに剥製にされて展示されるのか、剥製にして重文建築の中で保管することに価値を置く生き物は人間以外にいなくて、そんなことすらないかと考えつくくらいだ。しかしそれなのに、このフクロウは私になにがしかの安らぎをもたらしたのも事実である。その隣にも、多くの種類の鳥たちやウサギなどが同じく眠っていた。このように安らかな姿で明日の朝を迎えたいものだと思えるほどである。
その後行ったカナディアンロックガーデンでは、ようやく持ち上げられるかというほどの大きな石が積み上げられ壁が築かれた手前にガーデンが広がり、そこにある池ではカモの親子が親を先頭に機敏な水面移動を見せていた。周囲でカラスの鳴き声を聞くと、8羽いる小ガモが一体どれだけ生き抜くのかと心配になり、入園したときは歓迎の鳴き声に聞こえたカーカーが、突如捕食者の唸り声に聞こえてきた。
400メートル四方ほどの園内には他にも北方民族植物標本園や温室がある。小ガモが大人になった頃、是非とも再び訪れたい。