12月に入ってからずっと姿を届けてくれた富士山が、2月に入るとめっきり見えない。澄んだ乾いた空気が終を告げたのか、いつも見えていたものが見えないのは、それに慣れるまでとても不自然で寂しい。
そう思っていた矢先、3月が始まって日が浅い頃、はるか向こうに再び富士山を見渡せた。やはり今もあの位置にあることが、嬉しく安心する材料になっていることが自分でもおかしい。でも、そんな自分に、江戸の浮世絵によく富士山が描かれる理由を発見できて、浮世絵というものへの親しみが深まる。
ところが、数時間後にまた富士山を見ようとベランダに出ると、頭上からの光は強くなり富士山の方角を直視できない。額に両手をかざしてようやくもう一度富士山を望むも、それでもやはり遠くには雲とその上には青空しか見えない。
きっと数時間前と変わらぬ位置に富士山はあるのだろうが、先程見た富士山が幻のように思えてくる光景だ。