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2011年3月20日日曜日

大覚寺・京都

京都のとある田園地帯に設けられたバス停で一時間に一本くるというバスを待っていると、人生初めての光景を目にした。鶏だか孔雀だかよくわからない派手な柄の鳥が、車道をとことこ歩いているのである。

疎開先に広がる田畑

バス停で見かけた鳥

こんなふうにウロウロしてる

でも、近所の人たちは気にする様子がない。これはこういうものらしいので、バスの到来と共に私はこの鳥とおさらばした。新鮮な経験だった。

嵯峨嵐山を観光して天龍寺をまわると、そこから1キロちょっと離れたところに位置する大覚寺へと向かった。途中までは人力車も多く土産物屋さんが軒を連ねていかにも観光地の様相を呈していた町並みも、数百メートル歩くとそれらはパッタリなくなり普通の民家が並ぶようになる。それでも嵐山、愛宕山と、あまり標高のない山々の連なりが穏やかな波のようにずっと続いて遠目の景色は素晴らしかった。

大覚寺は嵯峨天皇に始まるお寺ということで、その後も何かと天皇家と縁が続いていただけあり、どこか仁和寺のようなきらびやかさとおしとやかさが感じられるお寺だ。菊の御紋からそう思うのは言うまでもないが、襖絵などからもそれを思った。(野兎の絵はとてもかわいかった。)

大覚寺境内へ

今は梅が咲いている

境内の東に位置する大沢池の眺めはすばらしく、多くの人がじっと無言で眺め続けていた。周囲一キロの庭池なのだが、嵯峨天皇の地位をもってすればこのような贅沢きわまりない美しい池をここにつくることも可能なのだということが、この時代における権力と美の不可避的つながりで、その結果生まれた美に今現在自分が和んでいることへの喜びと同時に、栗林公園でも感じた権力への反感もすくなからず湧いてくるのを感じた。でも結局はその庭園美に見入っているのだから十分な恩恵を受けていると思う。
大沢池

こちらも

心経殿

左近の梅、右近の橘のしん殿

しん殿そのもの