現代に生まれてこの方疎開生活をすることになるなど夢にも思わなかったが、今日それが現実のものとなった。それは失った身体の一部がまだあるかのように感じられる現実で、あまりピンとこないものだけれども、実際に京都のとある田園地帯にある夫の実家の一部屋で、昨日はほとんど寝ないままに新幹線に乗り込んで疲れはてたために、なんとありがたくもわざわざ用意してくださった布団の上で横になっているのだ。終わる様子のない余震は自分が思っている以上にストレスになっていたようで、少なくとも今現在地震の恐怖を感じないこの地にいると、のどかで心の底から安心して昼寝ができる。
東京駅には私たち以外にも疎開のために新幹線に乗ると思われる人たちがたくさんいた。それでも10時台の私が乗った車両では2割ほど空席があったように見えたが、いつもの平日のこの時間帯よりは乗客数が多いと思う。そして10時台の新幹線に乗らないまでも、仕事終わりに翌日からの3連休を組み込んでの疎開がこの日の夜から決行されるであろうことが、働き盛りのビジネスパーソンたちがビジネス鞄以外にスーツケースも引いて歩いているのから予想できる。その表情は仕事への意気込みだけでなく、疎開への意気込みでもあるのだろう。
それでも日本人はまじめなようで、そして平和ぼけしているとつくづく思うのだが、8割くらいの人はバリバリ仕事モードで通勤している。確かにお金がなかったり、疎開先の宛がなければ迷うことなく、あるいは一瞬迷うことがあっても、結局は変わらぬ日常を送るのかも知れないが。
せわしない東京を離れ品川、新横浜を過ぎると、程なくして日本の古き良き田畑の景色が始まる。時に工場がその邪魔をするが、圧倒的に田畑の方が多い。しかし東北の太平洋側のこの景色が集落ごと津波で消えたのかと思うと、やはり身体の一部がなくなったように感じる。けれども時々ちらっと見える海は、都内の内陸部に住む私には常に何がしか快適な気分をもたらし、心を穏やかにしてくれる。
名古屋を過ぎて京都が近づくと、田畑続きなのは変わらないのだけれども雪が積もっている地域があった。東北の被災した方々も、避難生活というただでさえ過酷な環境にさらに寒さが追い打ちをかけたようだが、都内でも節電のためにエアコンを消していたら私はまんまと風邪をひき、西の方も雪が降ってこうして寒かったようだ。当然被災地とは比べものにならないが。
京都駅に降りると、東京駅とは違って人々のリズムは緩やかで、物資不足を自分だけでも免れようと目をギラつかせる人もおらず、いたって平和な西日本の光景だった。被災地の方々にとってそれはのんきでとてつもなく距離を感じることかも知れないが、ここにたどり着いた私にとってはなんだかホッとするものだった。
私の疎開先は京都駅から保津川の方へと向かったところにあるのだが、電車から見える保津川はエメラルドグリーンを少し曇らせたような色でとてもきれいだった。山を挟んで3度だったと思うがこの色の川を窓越しに望むことができ、1月に行った熊野川のとてもきれいなグリーン色を思い出した。人口密度の低い地方ならではの自然美は、どんな時も都会からの駆け込み寺だ。そんななかに身を置くと、大地震と余震のストレスがどんどん薄れていくのがわかる。東京が東京にしかないことがありがたく思える瞬間だ。
13歳になる高齢の猫も一緒に疎開したのだが、高齢猫には辛いはずの長旅によく耐えてくれた。
夫の実家につくと、もともと夫が自分の部屋として使っていた離れの一部屋をお借りすることができた。ここは盆地で周囲が山に囲まれて、町並みは同じような古民家が並び、私には個々の家の区別がつかない。
東海道新幹線からの風景には、だだっ広い田園を貫く道を、一人でぽつんと散歩をしているのか田畑の様子を見ているのか、歩く人の姿が何度か見えた。ただそれだけのことが、いつも見る都内の光景と違って新鮮で驚いてしまう疎開先への道中だった。海と田畑と菜の花の黄色が輝く季節だ。菜の花を咲かせて雪を降らせる自然は本当に未知数だ。