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2010年12月10日金曜日

モネとジヴェルニーの画家たち

行き場のない思いをいっぱい乗せて、今日も電車は走ってる。その思いは子どもが産まれる喜びだったり、何かを亡くす悲しみだったり、宝くじが当たる高揚感だったりさまざまだが、百円拾ったことの運の良さや内定のとれない浮遊感も当然運ぶ。

車内ではほとんどの人が無表情で、口を開けて居眠りする昼間から既に疲れた会社員が、その大きな寝息で空気を振動させているくらいだ。見ず知らずの人通しが殺伐としている以外感情の吐露がない空間。たまに聞こえる笑い声はおばちゃんか若い子で、きっとそれほど切実ではない理由の笑いであることがわかる程度の響きだ。

都内の電車では必ずと言っていいほど、ほんのわずかだったり通りすがりに思い切りだったり、人にぶつかる。そんな時、最近だとコートが分厚くなっていることに冬の気配を感じる。時々宙に浮くマフラーの先端も冬を呼ぶ声だ。ウールやダウンの臭いと音と肌触りが心地いい季節になってきた。と思っていると、突然歌い始める人がいる。その声は徐々に近づいてきて私の目の前を通りすぎて行くのだけれども、誰も気にしないようだ。だが空気がより張り詰めて緊張するので本当はそうでないことがわかる。ただ特に危害を加える気配もないので、やはり誰も動じない。都会の人は大抵のことを気にしないよう訓練されている生き物だ。過密なところで生きるにはそうするのが一番なのかも知れない。涙にすらならない数々の憤りや喜びを乗せて、今日もこうして電車が走る。

文化村では『モネとジヴェルニーの画家たち』が開催中だ。
ジヴェルニーはパリから北西に80キロほど行ったところにある小さな村で自然の豊富な美しいところらしい。そこではモネを中心にコロニーができて、画家たちは夢や希望を満喫したそうだ。

人がもともとあるものを失うとそれまで意識すらしてなかった執着心が丸出しになり、はじめからないものにはわりと無頓着なように、集まってきたうちの7割がアメリカ人というこのコロニーも、結局みな無頓着だったせいか数十年で終わっていった。それは若者がデートのために映画に行くようなもので、嘘から出た真のように中には映画通になる人もいるが、ほとんどの人が内容も覚えてないようなものに見える。ただ一人、モネだけは最初にそこに行った人だけあって、真なのだと思う。睡蓮への執着もすごいものだ。

いつも聞いている音楽や生活音が聞こえなくなるのは、自分の耳が聞こえなくなる時か、世の中から音がなくなる時だろう。どちらを人は嘆き悲しむのか、いつもと変わらぬ都会の電車内で、もうすでに失っているか、もともとないものに、実際には生きて行けないほどの苦痛を感じることもなく、これから失うと思うとゾッとすることだらけだとの感覚の中で、帰途についた。