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2011年11月7日月曜日

大川内山にて

大川内山にある窯元の店は、午後も4時半を過ぎると店じまいの様子を見せる。焼き物で暮らす家の人らが、店の前に広げた売り物の食器をいたわるように大事に大事に重ねて一まとめにすると、それを店の中へとしまい込み、そして最後は、肌寒くなってきた夕方の秋風から逃れるように、自分たちも店の中へとすっかり身をしまう。

それを陶工たちの墓や、向こう側で岩肌をむき出しにする周囲を囲む小高い山々が、入院病棟の監視カメラのように見つめていた。

私がそのカメラの視界のなかに入っていったのは、集落が生産活動を終えようとする4時前頃だった。タクシーを降りたところから窯元の並ぶ方へは緩やかな上り坂で、平日のせいもあってか、すでに人はまばらだった。

職人の雰囲気が集落のある山間一体に漂うこの地の人々はとても大人しく、それでいて意志が強そうに見える。私はそんな人々によってつくられた焼き物の並ぶ店先を、きっと高価なのだろうと指をくわえながら眺めるだけで、どこか職人の意気込みに気おされるように、一度もどこの店にも足を踏み入れる気にならなかった。

そして私は焼き物を買うよりなき陶工たちの墓に向かい、その墓が優しいまなざしで私を迎えてくれることを、手前を流れる川のところで感じていた。そしてそれを、周囲を囲む山々も見守っていた。

16時台にある大川内山を出る最後のバスに乗ろうと墓地の近くのバス停に向かうと、もう一人、30歳くらいの東京の人らしいお洒落な格好をした男性が同じくバスを待つらしく、懐からタバコを取り出してベンチに座るとバス停の前で一服し始めた。

灰皿もないのにと思ったが、周囲の山々が煙を吸い取り、私のまわりの空気まで穏やかにさせていくのだった。そこにおそらく焼き物をしまい終わった地元の中年の女性が通りがかると、この若い男に、よろしくお願いします、と深々と頭を下げていった。

伊万里の街中から大川内山の人を乗せたバスがその後やってくると、程なくして東京で働くバイヤーらしきこの男と私を乗せて再び伊万里駅の方へと最後のバスが出て行った。狭い集落での人々のやり取りも終わる頃、山の目も陶工たちの墓も本当の眠りにつき、山間には静けさだけが残るのだった。

私はこの空間の中にいると、不況が続き、以前のように焼き物が売れなくなったというのに、それでもなおこの集落が存続しているのがわかる気がした。そしてその思いは、翌日行く有田でひとつの焼き物を買うことへとつながっていった。