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2010年12月1日水曜日

東大寺大仏

軽やかにイチョウの葉が舞う東京国立博物館では平成館にて『東大寺大仏 天平の至宝』展が開催中だ。東大寺ものだと正倉院の宝物展が非常に人気が高いそうだが、この日の大仏展もそこそこの人の入りだったと思う。

展示室に入る前に大講堂にて東大寺の僧侶の話が聞けるとのことで、そちらに行ってみることにした。ほぼ満席の大講堂では、きっかり13:30に年の頃50代と思しき一人の坊さんが姿を現し、歯切れよく滑舌のいい声で徐ろに話を始めた。もとは保育園の園長だったというこの坊さん、なかなかユーモアがあって話がうまい。内容は今回の展示に因んで大仏にまつわるものにまとめていた。

東大寺は聖武天皇と光明皇后の命で建てたお寺である。ところがこの坊さんの話によると、実は聖武天皇は、一国を治める天皇という職責の重さからなかなか考えを実行に移せないところのある人だったらしい。一方で光明皇后は、皇后の地位についた途端にバリバリと手腕を発揮する人で、早々に施薬院をつくって国民への思いを実現していったという行動派だ。

何かにつけ光明皇后ばかりが手柄をたてていくことに焦燥感が出てくる聖武天皇は、どんなことだったら責任をもってやり通せるだろうかと考えに考え抜いた挙句に仏教世界の慈悲・喜捨というものに辿り着き、その世界観を後世に渡って何がなんでも伝え残したいと、あのどでかい大仏をつくることを命じたという。

大仏創建の際に水銀が使われるため水銀中毒で亡くなる人が多々あったらしいが、それはそれこれはこれと、大仏ができることを最優先させる聖武天皇。目的と手段が矛盾する感があるが、これが国を治めることを第一とする当時の帝王学と言われれば無理矢理納得できなくもないかもしれない。そして実際、二度の火災をくぐり抜けて今に至るまで残っているのだから、光明皇后にばかりお株を奪われていた聖武天皇の意地と根性とそれを実現すべく尽力した人々の思いは今の世まで何がしかのかたちで受け継がれていると言えると思う。

展示の方では、当時の人々の多くの命と引き替えにつくられ、火災などで崩れながらも断片的に残っている出土品が並んでいた。千年以上経った後もこうして人目に触れることを思いながら当時の人々が労働に励んだのか、それとも聖武天皇のきれいごととは裏腹に強制的労働だったのか、それとも雇用促進のための労働だったのかはわからないが、こうして残ったものを我々が見たり聞いたりする価値は十分あると思える品々だ。それは所詮仏教思想の一部に過ぎないとも言えるが、宗教の枠を越えた普遍的なものが隠れていると思える。

そんな感慨に耽りながら展示を見ていくと、最後に強烈なインパクトの大仏がお目見えする。その辺りはちょっと騒然として少なくとも私は釘付けになってしまったこの五劫思惟阿弥陀如来座像は、如来になる前の瞑想が長かったために髪の毛が伸びて、その伸びきった髪型のまま仏像になったそうだ。我々が見るとギャグのように見えてしまうこの髪型、やはり仏教美術から目が離せないと思える一品だ。思惟阿弥陀如来坐像←画像はこちら
 
天平の人々の命を背負う『東大寺大仏』展はとても見応えのある展示で良かったと思う。