大晦日の夕方におもむろに図書館に借りていた本を返しに出かけると、途中の橋の上では何人もの人が三脚を立てて一方向にカメラを向けている。それらのカメラの向こうには夕日を背負う富士山があるのだ。この日の富士山は、雪のかぶる頂にボリュームのあるもこもこの雲がのっていて、大仏の頭のようだ。そこに透明感のある夕日の赤が下から光を放っている。みなこの時を待っていたようだ。
大晦日の夕方は、いつもより空気が澄んでいるように感じる。駅前では多くの人が仕事が休みで通勤通学の混雑はないが、花屋では全商品半額などと、これからしばらくの休みに入ることを物語る様相だ。
近くのお寺では背の高い数本の竹で設えられた門松が門の両脇に置かれ、正月ムード満点だ。境内には初詣の客をつかもうと出店が所狭しと軒を並べている。お好み焼き、大阪焼き、広島焼きなどと看板はいろいろだけれども、店の前には二百、三百の卵が積まれ、紅しょうがに天カス、長ネギがてんこ盛りだ。そしてタバコを吸いながら人出を待つ店主がいたりいなかったりで、寒さの中の稼ぎ時を待っているようだ。他にもキャラクターの仮面やリンゴ飴など、時代が変わっても二十年、三十年前と出店の店頭に並ぶ商品に変わりがないことが、流行り廃りの速いこの世の中で、どうにも不思議だった。それはお寺の様相が何百年も変わらなず在り続けるのと同じく、普遍的な商売なのかもしれない。
図書館に本を返して再び橋の上を通ると、十数分前にカメラを携えて立っていた人が一人もいなくなっていた。富士山は、もこもこの雲を頂にかぶってはいるものの、もう夕日のライトアップを受けていない。名峰富士山といえども、これではやはり役不足なのだろうか。人が求めるものはこれほどまでに同じなのを目の当たりにすると、出店のあり方が変わらないのも納得出来る気がした。
明日の日の出前には、きっと今日より多くの人が富士山の初日の出を求めてこの橋の上に立っているだろう。