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2011年1月7日金曜日

1月の新宿御苑

前回新宿御苑に来たのは紅葉の頃で、彩の美しさへの感嘆の声があちこちから聞こえてきた。それが今はほんのわずかだけれども梅の花が咲き、強烈な臭いを放っていた銀杏の実は冷たい風にその勢いを奪われている。

母と子の森で無数に散らばる銀杏とドングリの実は、ただ歩いているだけではその辺りに散らばる石ころと区別がつかないが、立ち止まってしゃがんで手で触れてみると、石よりよっぽど暖かい触感から植物だということがわかる。付近の地面にはどの木から伸びているともわからない親指ほどの太さの細い根が四方八方重なりあって、頭上の枝との間に私を挟むという奇妙なのだが自然そのものの空間をつくってくれる。そしてそれはなにやら我が家にいる以上の落ち着きをもたらしてくれる。隣の木と微妙に距離を取って生きているのを見ると、これがうまく生き残る知恵なのかとご近所付き合いを彷彿とさせる。

この日の都内がずいぶん冷え込んだこともあり、いつもなら昼寝する人や子供たちの遊び声で賑やかな芝生広場だけれども、この日はとてつもなく閑散としている。夏には黄緑色に輝くきれいに刈られた芝生も、乾燥するこの季節ともなるとアメリカの西部劇映画に出てくるようなステップのように、乾いた茶色をしている。そこに20メートルほどもあろうかというケヤキの巨大な影が浮き上がるさまは、真夏の陽炎のように不気味だ。ケヤキはすっかり葉が落ちて亡霊のようにそびえ立ち、地面では厚さ10センチにも20センチにもなる落ち葉が、まるで何かを待っているように重なり合っている。季節が違えばこのケヤキがつくる影も、生い茂る葉に日差しを完全に遮られるため真っ暗なはずが、今は細かに生える枝と枝からわずかずつ日差しが漏れてうっすらとしているため、どこかはかない。

ケヤキの生える芝生の向こう側にはフランス式整形庭園がある。そこでは枝が剪定されて姿の整えられたプラタナスが一糸乱れぬ列をつくって、枯れかかった花をまだいくらかつけるバラ園を囲んでいる。列の真正面から見ると一番手前の木しかないように見えるほどに寸分違わず配置されたプラタナスの木々は、幾本かは今も剪定中で、この寒い中を専門の職人が梯子車に乗り込んで剪定鋏を器用に使いこなしてカットしている。パチッパチッとどれも違う間隔で響く鋏の音は、職人のイメージをよく表し、それが乾いた空気のなかでは鮮明に聞こえてきて、冬景色を盛り上げる。新宿御苑の木々がこれほど丁寧に手入れされていることに今更ながら驚く。

出口までの道のりではパンジーやスイセンの栄養満点に花開く花壇があったかと思うと、今度はジュウガツザクラが咲き誇る。新宿門から出ると、近くの歩道の植え込みでホームレスが頭から毛布をかぶって昼寝をしている。木があれだけ手厚い介抱を受けているのを目の当たりにした後だと、普段は見慣れているはずの光景も、そのギャップにどうしても違和感が拭えない。

見えない壁を見たような不思議体験だが、それが当たり前の社会の心理に思える帰り道だった。

ケヤキ

プラタナス並木

ジュウガツザクラ

スイセン