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2011年1月4日火曜日

初詣・高幡不動尊

高幡不動尊に初詣に行くと、三が日を過ぎてもまだまだ人出が多い。とはいえ元旦のような、駅から途切れることなく人の列が続いて道が埋め尽くされることはない。仕事始めの人も多いだろう。それでも境内の手水舎や大香炉は、そこを取り囲む人でごった返している。

境内に入って出店の建ち並ぶ道を人の流れと逆行するように八十八カ所巡りの第一ヶ所目に向かうと、出店の並びから一歩離れたところにはチョコバナナやお好み焼きを立ちながら頬張る人が点々といるのだが、そこを更に超えると初詣の喧騒はもうない。

冬の不動の丘は、あじさいの花もモミジの葉もすっかり落ちて随分と風通しが良い。秋には落ち葉が足を奪うところだけれども、今はそれらの葉も道の両脇にすっかりきれいに寄せ集められている。

不動堂前とは比べようもないほどひっそりとした今回の高幡不動尊八十八カ所巡拝は、ひとつひとつ進めていくとまれに人とすれ違い、そのほとんどが足下のおぼつかない老人であることに気づく。あじさいの季節や紅葉の頃は重そうなカメラを携えた老若男女が登ることも多いこの道を、相当に高齢であろう老人たちが、しばしば設けられている各お地蔵さんまでの階段を一段一段ゆっくりゆらゆらしながら上っている。そしてとても念入りに手を合わせて拝み終わると、一段下りては立ち止まり一段下りてはまた立ち止まりしながら次のお地蔵さんへと向かう。その遅く重い歩みはいかにも長く生きた人ならではだ。そうまでして合掌して祈りたいこと、伝えたいことがあるのかと思うと、なんだかこちらまでもが生きていることを実感させられる。

そんな人々の思いを日々一心に受け止めるここのお地蔵さんは、概ね切れ長の目を持ちきりっとしているのだが、表情は実にさまざまだ。スマートで優しかったり、難しかったり、にらみつけていたり、ちょっと気弱だったり、目が開いていたり閉じていたりだ。面白いのが、私が見る限り一つか二つの地蔵を除いて、片目だけがつり上がっているものは必ず左目が上がっている。他にも、43番だったと思うがこの地蔵だけが他よりとても古びたように見える。目鼻口がほとんど原型をとどめず雨で削られたように失われているのだ。他の地蔵も鼻を失っているものが少なくない。

そんなお地蔵さんたち一つ一つに新年の挨拶をしながら歩き進めていると、とあるおじいちゃんが地蔵の頭を慈しむように撫でているのを目撃する。子供やかわいがっている犬や猫を撫でるようなその姿はなんとも感慨深い光景だった。そしてそれに触発されて、威風堂々と佇む地蔵の頭を私も触ってみる。するととても小さくて驚く。手のひらが余るほどの大きさの頭をした地蔵は冬の外気で冷たくて、首から赤い前掛けのようなものを下げるのは可愛くもあり畏怖を抱かせる姿でもあり、どうにでも思いを寄せられそうな一風変わった存在感に思えてくる。
 
お地蔵さんの背後には日野の街が広がり、周囲にはクロマツのささくれだった木肌がひっそりと存在をアピールし、ここは随分と役者の揃う巡拝道だ。鳥の鳴き声かと思うとそれは鳥の気をひこうと鳴き真似をしている人の声で、それと見間違うような雅楽の音色が重なる。すると、ドドドドドドドドと横田基地からであろう米軍ヘリの飛ぶ音が頭上近くで空気の渦を巻き、やがては遠くに消えていく。その音に一時気を取られた人も動物も、数秒もすると元のさえずりを取り戻し、雅楽の音の中で参拝をする。
 
高幡不動尊の八十八ヶ所巡拝は八十七番目までは山道にあるのだけれども八十八番目だけが平地にある。そこに辿り着くと、正月ムード満載の出店や初詣の人々のすごい賑わいが戻ってくる。賽銭は八十八番目の賽銭箱でお願いしますとの立て札通りに、八十八番目のお地蔵さんの前にある賽銭箱にチャリンと小銭を入れて、この日の巡拝を無事終えた。