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2011年1月26日水曜日

九段下界隈散策

都営新宿線九段下駅を4番出口から出ると、ようやく陽の目を見たようで気持ちいい。乾燥した空気もこういう時はカラッとしていいものだ。そんな気分をもっと噛み締めていたいものだが、大都会の足音を聞くとそんな願望は吹っ飛びとっとと歩かねばと急かされる。

4番出口から出たのは目の前にある昭和館に行くためだ。それは戦中戦後の昭和の日本の光景を後世に伝えようとの意図から建てられたもので、当時の手紙や防空頭巾など、痛々しい痕跡をとどめた展示が多数ある。ロビーにも展示室にも小学生の集団がたくさんいて一秒たりともじっとしていられないのを抑えきれずにザワザワザワザワと、係の人の話の最中も心ここにあらずのようで賑やかだ。

昭和館

私はそのなかで防空壕を体験してみた。壁際に設置された防空壕はそこに座ってボタンを押すと、銃撃音が始まりその振動が伝わってくる。これが空襲だ。本当だったら怖いに決まっている。でも私のこの恐怖心は、自分が味わったらどうかというものより、当時の人が味わった恐怖への恐怖心だ。そしてこの恐怖体験をしたとき、家で夫婦喧嘩をしたときに、うちの猫がこたつや机の下に隠れて喧嘩がおさまるまでじっとしているときの心境が慮られた。これからは喧嘩は静かにすることにしようと反省する。

昭和館の後には近くの靖国神社に行ってみる。靖国通りの喧騒から離れた境内は、近所で働く人々の散歩道になっているらしく、人の話し声はほとんどなく、ハトの足音のようなビジネスシューズのカツカツという音だけが、ピーピーという鳥の話し声の中で響いている。時には市民ランナーが力強く砂利を蹴り上げて走っていたり、勤め人がベンチでいびきをかいて昼寝していたり、昼食の匂いをもらしていたりと、人々のくつろぎの場にもなっているようだ。他の神社と違うのは、参拝する人のなかに軍人らしさの何かが目立つことだろう。あれだけの大きな二拍手をする人々をこれまで私は見たことがない。軍人を祀る靖国神社らしかった。

靖国神社

靖国神社を出て横断歩道を渡り九段下駅方面へ数分歩くと、食欲をそそるスパイスの香りが鼻をついてくる。靖国通りから千鳥ヶ淵に少し入るとインド大使館が、歩いて数百歩という面積を占めて構えているのだが、どおりでインド料理のレストランが多いはずだ。そしてそこには隙間を埋めるように一軒のカフェが看板を設けていて興味をそそる。

カフェミエルは数段の階段を下りたところに扉がある半地下のカフェで、太陽光があまり入ってこない、ランプの薄明かりで照らされる小洒落た店内だ。読書には若干暗いかもしれないが、妙にレトロな音楽が落ち着く。
カフェミエル

雰囲気の良い店内

苦味の強いブレンドコーヒーとボリュームあるハンバーグサンド

かための椅子に腰を下ろして注文を済ませると、このレトロな音楽につい先ほど行ってきた昭和館の世界が急に思い起こされて、随分と懐かしく感じる。昭和館での体験が思わずこのカフェミエルで蘇ったのは店主の意図するところではないだろうが、そんなわけで私はこのカフェが気に入った。分煙されていないのがはじめは難だと思っていたのも、それがまた昭和っぽさの演出に思えなくもない。

カフェを出て北の丸公園に行こうと歩いていると、ホームレスと三毛猫のコンビがひなたぼっこしている千鳥ヶ淵の緑道を過ぎる。この共生の絵はどこで出会っても微笑ましい。

緑道から

北の丸公園への緑道は国内でも例をみないところだ。南側に皇居、次に最近世を騒がせているというランナーたちの列、車の往来の多い道路、私の居る緑道、そしてそこから北側に向かって首都高、北の丸公園の静けさ、高層ビルという東京ならではのサンドウィッチ地帯なのだ。

そんな大都市のサンドウィッチのなかで、緑道は急な下り坂を迎えて私を試練に立たせるが、それは同時に国立近代美術館工芸館の洋館が間近であることの印でもあり、期待がふくらむ。

人形の展示がメインだったが、最後に出てきた人間国宝の陶器作品に、私はすっかり魅了された。さすがに繊細で優美なのだ。

そして一通り展示を見終えた私はカラスのよく鳴く洋館の前を通り過ぎ、北の丸公園を科学技術館方面へと歩く。
国立近代美術館工芸館

科学技術館は昭和館より年齢の高い生徒が多く、先生の引率でというより自分たちで勝手に興味のあるところを見ている場合が多い。各フロアには、鉄やトンネルができるまで、DNAについてなど、いろいろな分野の科学ブースがあり、一定の子供たちの心をつかむと思われる世界になっている。ここでいつか大きなトンネルをつくってみたいだとか橋を渡してみたいとの目標を持ち、子供たちが進路を邁進する姿が目に浮かぶ。

その延長では生徒たちより数十歳年をとった人たちが、ある人は未だその夢の実現に活き活き働き、かたや疲れきって肩を落としているのが北の丸公園だけの幻に思えるのだが、帰りの電車に乗ると、それらは社会のなかで常に渾然一体となっていることに気づかされる外国語の会話、イヤホンから漏れる大きな音楽、若い人たちのまだ力ある話し声に疲れた人々の寝息だった。