ページ

2011年1月15日土曜日

各駅の小旅行・駒場東大前

滅多に各駅停車に乗ることのない京王井の頭線だが、この日は駒場公園界隈を散策しようと各停に乗ってみた。急行よりゆっくり走る各停の電車はゆっくりな分、街の生活音や学生たちのおしゃべりが耳によく入ってきて地元の日常を身近に感じられる。

平日の午前11時頃。ラッシュを過ぎたこの時間帯に駒場東大前で降りると、改札の北側には東大教養学部が目の前から始まり南側には銀行とマックがある。上空を時々ヘリがかき回すのを除けば地上はいたって静かだ。そこには大きな繁華街やショッピングモールがあるわけでもなく、都内の他でも経験したことのある各駅停車の街と同じように降りた瞬間から閑静な住宅街の気配が始まる。

用事があるときは大抵大きな駅に行って人混みをサバイバルする東京暮らしが長く続くと、客寄せの呼び声もなければおそらくそんな看板もないこうした土地で群衆に遭遇せずに街歩きができることが、逆によそ者扱いされているようで落ち着かない。往々にしてこうした住宅街の人々は日常への異物である観光客に無関心で無頓着だ。観光地慣れしてしまった私にはそれがどうやら物足りないらしい。「犬のフンは飼い主・・・」などといったデカデカとした立て札が堂々とたっていることに気づくと、地域の諍いを目の当たりにしたようで、住民の日常のストレスを垣間見たような感覚に陥るから観光気分どころではない。

でも駒場野公園のアカマツは自己を実現するかの如く立派な肌をして、ほのぼのとした公園に豪華さを加えている。かたやその近くには試験田がそのまま残されているというし、市民手作りの野草園もあるという。不思議と居心地がいいのは、このバラバラ感によるものかも知れない。

一般道では昼間のこの辺の人の歩みは、老人は杖のリズムからして遅くて不規則で、他は早くもなく遅くもない。喫茶店に入ると客は私一人。道端でも駒場野公園でもその後行った駒場公園でも人混みというものを数時間経験しなかったので、店に一人でいることに違和感もなく、その後数十分して二人、三人と客が来て席を埋めていくことに窮屈を感じる。それでも椅子は半分も埋まっていないだろう。

旧前田本邸、近代日本文学館、日本民藝館のどこへ行っても閑散としている感のあるこの界隈を後にして帰途につこうと駒場東大前の改札を入ると、ホームから男女構わず若い声が響いてくるのが聞こえる。男子の声変わりの様子と女子のおませな話しぶりは高校生だ。どうやら下校する生徒たちがホームを埋め尽くしているようだ。そういえばそんな時間だが、なによりこの日初めての人混みである。でも彼ら彼女らは決して群集ではない。友達同士数人で仲よさそうに会話を弾ませ電車を待っている。そして電車に乗り込んでからも、ずっと会話は続く。彼ら彼女らは自分たちの世界を楽しんでいる真っ最中なのだが、その空気は倍も年取った私にとって決して排他的には感じない。これが若さというものなのだろう。

彼ら彼女らのハツラツとした話し声や笑い声は、帰宅すれば食べるご飯が必ずあることを、明日学校に来ればまたここにいる友達たちに会えることを盲目的に信じているものだ。この地元感、この無防備ぶり。この日常感が各駅停車の醍醐味だ。

帰り際になってようやくそんな経験をすることができた京王井の頭線駒場東大前散策だった。