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2011年8月12日金曜日

ドットより

昨日の雨は暑さで弱り果てた私の望みを打ち砕くように、この世を一瞬涼しくしたと思うと途端に湿度を上げ、不快指数を増す一方だった。それでも私は外に出てミストサウナのような大気のなかで短い散歩をした。開けた外の世界はすがすがしく、けれども予想通りに汗は蒸発することなく身体にまとわりつき、いっそう私の体力を奪った。

今朝は外出時に階段を下りる際、足に何かがぶつかりその後ミーンミーンとの声が聞こえ、どうやら死にかけの蝉をかすかに蹴飛ばしてしまったようだった。その後歩道を歩いていると、やはり今度は蝉のつぶれた姿を見かけた。それはカラカラに乾いて枯れた木の葉が何枚か集まったようで、私が先月札幌の中島公園で見た猫の元で死を迎えたネズミの亡骸を思い起こさせ、決して楽しいものではなかった。昨日あれだけ降った雨はこの日差しのもとどんどん蒸気を上げて跡形もなくなり、蝉がそんな姿で道端に朽ち果てるのは、どこか不吉な予感だった。

その後都心に向かう電車ではお盆休みで乗客はすっかり影をひそめ、わずかに乗る人々は大抵日陰になる方の座席に腰掛けていた。私はこの日陰で、節電のために通常より暗い車内で一休みするようにゆったりと座ったとき、窓の向こうの明るさが妙に輝いて見え、先ほどの蝉の不吉な予感がやや遠のいた気がした。

それが東郷青児美術館でいくつかの現代アートを観ているうちに、より気分が軽くなってきた。作品の中の一つに草間彌生の絵画があり、私はつい最近統合失調症に関する講演会で、講師をつとめる医師がちょうど草間彌生について触れたことを思い出した。医師が言うには、彼女は統合失調症であり、ドットが溢れるように見えてくるという症状があるらしい。私が見た絵も赤と白で描かれたドットの集まりで、それは絵画の隣に据えられた写真にある草間彌生の両の目と同じように強固な円形だった。

それはうちの母であれば「ノーマルではない」で終わってしまうドットの集合だろうが、母の言うノーマルが、いわゆる「凡庸、平凡」であることに最近気づいた私は、小さいころは偉大に見えていた母は実はとてもつまらない人で、草間彌生がそんな母の評価を気にするはずもないかと一人ごちた。

ドットの流れが草間彌生自身が経験する統合失調症の症状かと思うと、私は恐ろしい現象に襲われた気分になった。講演会で医師が統合失調症というものについてわかりやすく説明してくれた時も、私はこれは本人は大変だろうと気が遠くなった。

そして草間彌生はというと、気が遠くなるほどのドットをキャンパスに描いていた。私は絵の前で、ただその労力にひたすら感心していた。いつ止むかもわからぬ大雨ように降り注ぐドットの数々は、完全に生まれ出ることのない彼女のなかの魂の叫びに聞こえるのだった。

その後出てくるゴッホやセザンヌと比べてだいぶ変遷を経た現代アートの作品群は、街並みもこれほど変わったものかと考え比べるよう私に促すようだった。

美術館を出て炎天下の大通りに出ると、私が東京に暮らし始めた18年前より2~3度夏の最高気温が高くなっていることに辟易とした。毎日人が熱中症で死んでいくことは恐怖である。

その時、蝉の死骸が私にもたらした不吉さとは熱中症への恐怖なのかもしれないと、ふと思った。