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2010年11月18日木曜日

鞆の浦の一日

広島三泊四日の旅の最終日は鞆の浦めぐりをすることに。ひとに薦められて行くことにしたところで、自分自身ではあまり興味がなかったためにそれほど期待していなかったのですが、そんな思いを覆してくれるとても良いところでした。

朝8時過ぎに山陽本線で尾道から福山へ。通勤通学で多くの人が乗り降りするのですが、二人乗りの座席に一人ずつ腰掛けて行くほどに車内はゆとりがあるなか20分。福山で鞆港行き路線バスに乗って終着点の鞆港へ。因みに福山のホームからは福山城跡が見えます。

鞆港バス停付近から望む医王寺方面
その昔潮待ちで栄えたという鞆の浦は、人口30万人の福山のような近代都市とはかけ離れた港を囲む小さな町です。その面積に対してお寺の数が異様に多く、それはかつての豪商の存在の証なのですが、現在はそんな豪商も近代化の流れの中で姿を消し檀家の数も減って30以上あったお寺が19まで減り、運営も楽ではないそうです。そんな鞆の浦の盛衰、お寺の数々、歴史の跡をまわってみることに。

鞆の人は非常に地元への愛着が強いようで、鞆を守る会を結成しておられ、その旨が書かれたバッジをつけている方が鞆の浦についていろいろ案内してくださいます。私のガイドをしてくれた方はあまり知られていない鞆の浦の歴史についていろいろ研究しているとかで、とても詳しい方でした。名所以外のおもしろスポットも教えてくれ、ガイド本でしか下調べしなかった私には目から鱗の鞆観光となりました。
医王寺本堂
年号や人の名前、事件の詳細をもともとよく知らない私はお話してくださったことのほとんどを忘れてしまいましたが、覚えていることは、鞆にはその昔鞆幕府があったこと、鞆は海の本陣だったためにとても栄えたところ、1000人ほどのご一行を迎えていた頃は日本一人口密度が高かった、日本で唯一の方法の鯛網漁なども含め、世界文化遺産に登録を申請している(これについては善し悪しあるんだけどねとのこと)、〇〇寺は京都の〇〇寺より50年早く建っていて、こちらが元祖なんだとか、鞆の路地が入り組んでいるのは、波が荒れて漁に出られないときに漁師が暇つぶしに博打をやるため取り締まりが来るので逃げやすいように敢えて面倒なつくりにしたとか、、、。漁師が住む一画があるのですが、路地は狭いは入り組んでるわで、確かに追うのは大変そうでした。

はじめに行った医王寺は高台にあり、相当の石段を上ったところには鞆の浦と瀬戸内海を一望できる絶景が広がります。この開けた視界、何を見るでもなく何もないずっと向こうを見るこのスポットに立って、鞆の浦に来てつくづく良かったと思いました。もっと上るとさらなる絶景ポイントがあるらしいのですが、この後のことを考えて私はここで引き返しました。

医王寺から望む鞆の港
医王寺から望む仙酔島

因みにここへの途中に平賀源内の生祀があります。

平賀源内生祀

沼名前神社の石の鳥居
現在は20以下に減少したという鞆の浦のお寺。それでも医王寺の次に向かう沼名前神社までの10分たらずの道のりには立派な門構えの寺が次から次へと出てきます。寺町のようなこの通りを抜けたところにある石の鳥居はとても稀少なつくりらしく、貴重らしいのですが、何がどうかは一見すると全くよくわからない私。石の鳥居は一番上に横たわる柱の真ん中に切れ目があるのが普通なのに、ここのは一本でできているのが貴重だとか。石の鳥居ってそんなからくりだったのかと初めて知りました(でも結局よくわかってない)。

この沼名前神社には驚きの史跡が他にもあり、それが次にあらわれる能舞台。豊臣秀吉の命で造ったというこの能舞台は、実は移動式なのでした。そして今でも借りたいとの要請を受けると、お引越しのようにもって行かれるのだそうです。ただ管理が大変だとか。この神社には力石もあり、昔娯楽がなかった頃、男たちは重い石を持ち上げて順位を競って楽しんだそうです。最も重い石は230キロの重さです。

沼名前神社の移動式能舞台
社殿
境内にある力石
勝者の名前が刻まれてます。
こちらも境内
この向こうがぴったりと伊勢神宮なのだそうです。
昔の人が星の位置などから測って建てたそうですが、
とても正確なのでした。

沼名前神社の次は安国寺へ。再びいくつものお寺を通り過ぎて着いた安国寺には、日本最古の木造の仏像が安置されて、枯れ山水庭園もあります。安国寺の成り立ちについてもいろいろ教わったのですが、すっかり頭から抜けてしまいました。国分寺みたいなものとか言ってたような・・・。

いろいろな鞆の歴史を教えてくださったガイドさん、ありがとうございました。地元の方にいろいろお話を聞かせていただいて、とても参考になりました。今後も鞆の浦研究頑張って欲しいです。

この後は鞆港のバス停近くにある対潮桜・福禅寺へ行き、だんだん疲れが溜まってきたところをもう少し歩いて本堂裏手からの眺めがすばらしいという圓福寺へを足を運びました。そしてとんでもなく趣向を凝らした太田家住宅、いろはまる展示館に寄って仙酔島へ渡り、美しい海岸を眺めて3時過ぎに鞆の浦を後にしました。

かつて潮待ちで栄えた鞆は、全盛期は一万人以上の人が暮らしていたのが現在は5000人ほどに減少しました。とはいえ今は観光客を待ちわび、ここに立ち寄った人々に鞆の底力を知ってもらいたいとの住民の気持ちがあることがひしひしと伝わってきます。大戦の最中も全く空襲を受けることなく残り続けた建造物や、坂本龍馬などの偉人たちが残していった足跡など、鞆の浦が近代に至る様々なシーンの舞台であったことを知ってほしい、自分たちが大切に残してきたものを忘れ去られたくない、と人を待っている姿勢が伝わってくる小さな小さな活気のある美しい町、鞆の浦でした。


とても立派な太田家住宅
元々は保命酒で財を築いた中村さんという人の建物だったのが、
近代化の流れのなかで維持できずに太田さんに売り払い、
現在太田家住宅の名になってます。

中を見学すると、その半端でない凝った造りに驚きます。
お金が相当あったんですね。  

ここはとあるお寺の境内で、ちょっと前まではとても立派な松の木があったのですが、虫にやられ枯れてしまい、今はこうして写真が置かれてます。以前はこの松だけを見に来る人も多かったそうです。

画像の右ずっと奥まで枝が伸びていたそうです。枯れて残念。

ガイドの方が教えてくれたとっても珍しいお墓で、徳利とお猪口が彫られてます。

山中鹿之助首塚
  
森下博翁像
とてもケチな人だったそうですが、鞆の浦に非常に貢献したそうです。


安国寺

安国寺は境内に入るところの石段を触るとご利益があるとの信仰から
こうして人々が触っていった跡がたくさん残ってました。

安国寺に安置されている日本で最も古いという仏像のあるこの建物は、
とても素晴らしい建築らしく、多くの建築家が見学に訪れるとか。

素晴らしいという建築の一部。

安国寺本堂跡

枯山水庭園

こちらも枯山水庭園

左にあるのが楷の木
中国から来たという日本ではとても珍しい木だそうです。


楷の木のアップ
こうして紅葉してます。

なかなか渋い色を醸し出している安国寺でした。

太田家住宅と石畳の道

対潮楼・福善寺

角度を変えるとこう

圓福寺への石畳

圓福寺本堂

本堂裏から望む仙酔島

仙酔島に上陸すると、こうして海岸沿いを散歩道が続いてます。

同じくずっと続く散策路。

鞆港行きバス乗り場とホームを挟んで反対にある福山城

東京への新幹線で食べた駅弁・かきめし
柔らかいカキと牡蠣エキスのしみこんだご飯は絶品です。

鞆の浦から福山までバスで30分。
福山から東京まで新幹線で3時間45分。
また来たくなる鞆の浦ですが、なぜこんなに遠いのか、
そしてなぜこんなに満席なのか、悲鳴が出そうな帰り道でした。