はじめは何もかもがよくわからず、ただただ泣きわめくだけだった。それが、この中に入ってくるものが薄白い光であることを覚えてから、いちいちそれに泣いて反応するのではなく、積極的に捉えようとする方へと行動が変わっていった。それはいたってシンプルな変化であるにもかかわらず、獲得するのにとてつもない時間を要した。何日も、何年もの月日である。
この光を察知することで、時間の流れ、社会の流れをある程度把握することができるのは便利である。しかし便利と言っても、白以外の光、上から来るものや下から来るものなど、日々私を襲うさまざまなものの中で情報処理しきれないものの数々にまみれて、耐えかねる不安が押し寄せるのだった。そして、まだ私は、開き直るということを知らなかった。
それでも時々心地いいものを捉えることがあり、強い好奇心と共に、全神経がそちらに向かっていくことがある。それは別の強烈な何かに妨害されて、いつも長く続くものではないけれども、私のとまることのない時間の中に、断片的に現れ、不安や恐怖心が一時だけれども排除されるのだった。
いつの間にか日本語を普通に母国語として話すようになり、さまざまな現象を言葉で言い表して生きるようになった。それは生まれたばかりの時に比べてとても快適な状態である。もっと上達すれば、より多くのイライラを頭から取り去ることができるかもしれないと期待感が湧くほどである。