山菜と格闘すること数日、今回はヨモギに取り組むことに。
遥か遠く北海道にいる母の指示では、たっぷりのお湯でゆがく、アクが出るので何回か水をかえてしっかり絞った後風通しの良いところで干してカラカラにする、すると何年でももつ、とのことだった。
さあ、私がやるとどうなることやら、、、。
昨日下茹でしすぎて煮崩れしたフキを再度アクを取るために水に浸しておいた、我が家では一番大きな鍋である圧力鍋からフキを取り出し、いつかの調理のために多くを冷凍庫に保存し、すぐ調理する分だけを脇に寄せ、空いた鍋にたっぷりと水を入れてガスコンロにのせ沸騰するのを待ち、沸騰してきたところでヨモギを一気に入れた。
しばらくすると、みるみるうちにお湯が緑色になってくる。それはきれいな透明感のある緑色で、染め物にでも使いたいと思えるものだった。きれいに染まったそんな緑色のお湯を、捨てるのはもったいないと思いながらヨモギをザルにあける。すると同時にメガネを曇らせる湯気を上げながら、緑色のお湯は排水菅へと流れこむ。
海は緑色に見えるけれども実際に汲みとってみると海水は透明なのに比べ、本当に緑色に染まった水というのは、流れ行くさまを見ると、とても貴重に思えた。
次に何度か水を変えてヨモギのアクをとり、しっかり絞った後は、窓が開いて網戸状態になっている窓際に持っていって乾くのを待つべく、新聞紙の上にまんべんなく平にヨモギを並べ始めた。すると、我家の猫がやってきて、最初は私の作業に興味をもって近づいてきたのかと思いきや、こともあろうか、なんと私の目の前で網戸を破ろうと網を鼻でつつき始めるのだった。
私はすかさず猫を抱えて、鼻ピン10連発を食らわせるのだが、猫はそれが致命傷を負わせないどころか大して痛くもないことを長年の経験で学習してしまい、首をすくめてお仕置きが終わるのを甘んじて待ちつつも、決して凝りてはいないのだった。私の部屋の網戸でなければ破っていいものと、いつの頃からか勝手に決めているのであるからしょうがない。
猫の要求に応えるべく私は網戸を開けて猫をベランダに出してあげた。するとごみの日を待つダンボールの束の上に猫は陣取り、頑なに座り込むのである。それはここに居たいという意思表示なのか、外の世界が怖いからしゃがみ込んでしまったのか私には区別がつかなかった。
ベランダで干したほうが風通しがよくてヨモギも早く乾くかと、私はヨモギを携えベランダに出た。そして再び新聞紙を広げて平らにヨモギを並べた。すると、思っていたより風が強くて新聞紙がパタパタとはためくではないか。これではヨモギが乾燥したあかつきにはきっと風に飛ばされてしまうだろうと、再び新聞紙ごとヨモギを部屋の中に戻し、その後はしばしダンボールの上の猫と戯れることにした。
この強い風が猫には気持いいようだった。ところがよくよく観察してみると、ダンボールの端に爪を立てて飛ばされないようにしっかとつかまっているではないか。飛ばされるような軽さでは全くないのだけれども、なにがしか外の世界に不安があるのかもしれない。そしてそれでも部屋の中にはないこの開けた空間が心地いいのかも知れない。
しばらく二人でそんなベランダの世界を楽しみ、揃って部屋に戻ると、網戸の向こうから風が吹いてくるたびに、その手前に平らに並べられたヨモギの青臭い清潔な香りがこちらまでやってきて、春の収穫の喜びをもたらしてくれた。
猫は見向きもしないけれども、海の緑に負けないヨモギの緑は、あれだけアク抜きしてもまだまだ健在なのだった。