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2010年8月11日水曜日

外の不思議

おばちゃんとニワトリの散歩は新鮮な光景でしたが、もっと近くで見てみたいという好奇心をぐっと抑えて階段を上り橋の真ん中まで行くと、今度は三味線の演奏が気を引きます。

ついさっきまで聴いていたアルゲリッチの弾くショパンの英雄ポロネーズはなんだったのでしょう。

橋の真ん中では下を流れる川をただ眺めるだけで、強風に髪の毛を全部前に追いやられます。あのぬるま湯のような部屋のなかでアルゲリッチを聴いていたこととの違いに、こんなに驚く自分にちょっと恥ずかしさを感じながら、見ず知らずのおじさんの三味線とついさっきまで聴いていたアルゲリッチの差ってなんだろうと思い始めました。が、違いは歴然で、この土手で演奏するのはクラシックの演奏会とは大きく違い、音響設備はなく、風で音は流され、その風が木の葉や草をなびかせ、人々の話し声、犬の吠える声、誰かのラジオの音と、いろいろな音が三味線の音色に混じって聞こえてきます。でもそれが協奏曲のようで、さっきまで聴いていたアルゲリッチの演奏に比べて技術面での評価を度外視すれば、外の雑多に入り混じる音の集合の方が心地良いのです。ならば、自然の営みに身を置くほうが良いのに、なぜ本や音楽や絵画があって、それをわざわざ観聴きしようとするかのさらなる疑問にしばらく考え、グリューネヴァルトの描いた『イーゼンハイムの祭壇画』を思い出しました。


この絵はキリストの磔刑図で、キリストの肌が聖アントニウス病にかかった人の肌をしているという特徴を持ってます。当時はこの病気がはやり、患うと手足を切断しなければならず、中世の人にとっては悪魔の使いでした。この病気にかかると、人々はイーゼンハイムへの巡礼の旅に出ます。イーゼンハイムの教会にはキリストのこの痛々しい祭壇画があり、それを見て、自分たちと同じ症状のイエスから、仲間を得たとの癒しを感じたそうです。そして、次の日曜日には「受胎告知を受けるマリア」「キリストの降誕」「キリストの復活」の絵が見られ、明るく希望に満ちるのでした。

苦しんでいる人に苦しいのは自分だけじゃない、キリストだって同じように苦しんでいてあなたの仲間なんだよとの慰めを得てもらうのがこの絵画の意義。

わざわざ人間関係をストーリーにのせたものを人(自分)が読むのもやはり慰めのため・・・人が大自然や人間関係からインスピレーションを得てつくった曲を聴くのも慰めのため・・・でも結局一番心地いいのは外気や土や水のなかに自分自身が溶け込めるように感じられる時だと思うと、演奏会に行くより、橋の上でアルゲリッチを聴くのが一番良い効果をもたらすのではないかと思いました。