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2010年10月25日月曜日

写真で見る下北半島と美幌峠

写真には対象を客観的に記録するという特徴がありますが、旅に行って自分が撮った写真を見ながら、記録と主観的な記憶の旅にもう一度行ってみることに。

見ていた写真は今年の8月に行った下北半島と10月に行った美幌峠。

いずれもその面積のほとんどを人間が住むところとしていない土地で、なのに立派な国道という名の舗装道路が地の果てまで完備してます。

田中角栄の手腕が色濃く残るそんな下北の国道を走っていると、いつしか野生の猿が出没するところに出て、仏ヶ浦を拝むことになります。恐らく誰もいない写真で見るこの仏ヶ浦は、ただ誰かが仏ヶ浦と名付けただけで、波が打ち寄せては引くのを、その音と共にあるだけです。たとえ私がその地に降りて足跡をつけても、それは波に消され、偶然迷い込んだ鳥がそこに降り立つのと同程度に人目に触れないという気楽さがあり、同時にここで死んでも誰も知ることもないとの寂しさがあります。そんな本州の北端を車は故障することもなく走ってくれたことを思い出しながら美幌峠の写真へ。

美幌峠までの立派な国道は鈴木宗男を連想しますが、この道路をくまなくつなげた労働力を思うと、中国がなんだかんだいっても世界経済でしのぎを削ろうと出しゃばるのが分かる気がします。

下北半島もそうですが、写真に残る美幌峠の自然も円や曲線でつくられていることがわかります。屈斜路湖にある中島も円形で、周囲の屈斜路湖も曲線でかたちをつくってます。美幌峠から360度みまわしても、阿寒の山々はなだらかな勾配をつくり、これから沈もうとする太陽も円形です。

丸い眼球で見たそれらの風景にひとつだけ違和感があるとすれば、道の駅の建物です。長方形のボディに三角屋根というのは、そこに人がいるシグナルを、敢えて大自然のなかで発しているのではないかと思う異様さです。土地をならして住居をつくる生活をする人なら誰しも人間の存在を察知する信号のような、直線と直角でつくられる建物。美幌峠からはそんな人らしさは道の駅一つしか見つかりません。

道路は十分人間的で、下北半島や美幌峠を走っていると、あと何キロで〇〇市などと常に標識が見えて、気持ちは車と共に目的地に向かいます。しかし峠の上から周囲を見下ろすと、そんな道路は大きなたらいから水がチョロチョロ漏れ出てくる時にできる水の跡程度のものでしかないと気づき、とんでもなく人里離れていて人間より他の動物の方がはるかに多く生息するところであることに気づきます。

遭難したわけでもないのに、写真を見直すと、そんな思い出と恐怖があれこれ頭を交差します。ところが面白いことに、実際美幌峠に立った数日後に自分が暮らす東京の摩天楼を目にすると、逆にもうコンクリートジャングルでは生きていけないと思う自分がいます。長方形の建物が所狭しと建ち並ぶこの光景。これ以上に人間的な眺めはないと思い、実際これ以上に人口密度の高いところなどないという大都会を眺めながら、群集と樹海について考え始めました、、、(続く)。