ページ

2010年10月27日水曜日

道東の樹海と都会の喧騒

(『写真で見る下北半島と美幌峠 』からの続き)
去年の冬の東京タワーと10月摩周湖に行った時より、群集と樹海について。

東京タワーから街を見下ろすと、官庁街や新宿副都心、住宅街などが見渡せ、四方八方どこまでも箱のような建物が続いているのがわかります。その密集ぶりは、人がくつろいでいるはずの住宅街ですら、地上からの実感だとこんなに気分の塞ぐものを知らないくらいです。

その気分の塞ぎようは、東京タワーの展望室から地上の人を見つけたときに、その働き蟻のように動く姿を目にして自分もこんなに小さな存在かと高見からがっかりするのとは大きく違います。それは満員電車の圧力のように、実際に身に降りかかってくる閉塞感で、人が高見に立ったときの何か達観したような安堵感は皆無です。

タワーを150メートル上がった非日常という日常との差異から生まれるそんな世界観は、温泉で一時疲労から開放される程度に持続する解放感に似ています。ところが実際に踏みしめるコンクリートやアスファルトの上には膨大な群集がひしめき、ある人は支配欲に駆られ、ある人は世捨て人となりながら、その日その日を暮らしています。

そんな群集のなかの孤独に身を置くと、それは時に心地良く、適度に寂しさを紛らわせてくれることがわかります。更に最近の流行や人々の興味の対象が見えてきて、なんとなく社会や時代を把握できてきます。しかし本当の意味で何も受け止めることのない群集は孤独感を増す原因にもなりかねない存在であり、どこに手を伸ばせばいいかもわからず、方角を失ったまま樹海を歩く途方無さを突きつけてきます。

いずれ亡骸になる自分の肉体が戻る土が見えないとは根無し草の恐怖をもたらしますが、そんな恐怖とは無縁のものが一方であることを、道東を旅していて思い出すことができました。


摩周湖の展望台に立ってカムイシュ島を見ると、そこには水位がほとんど変わらないとされる青い色の湖と、それを取り囲む樹海の景色に日常のストレスを忘れます。銀泉台からの眺めもそうでした。そこにあるすべて受け入れてくれそうな安心感とは、この肉体が亡骸になったら動物が肉を食べ、白骨化するまでバクテリアが自分にかかわってくれることを保証されているからこそで、つまり自分の存在が無駄ではなく、何かの役に立ち、帰るところがあるという安心感です。

そんな道東の樹海を貫く道路を走り続けて二、三日もすると、普段家に居る時ならばかけている音楽を必要としなくなるから不思議です。聞こえるてくる音は風の音と足音だけという世界では、もう音楽はいらなくなります。そしてそれは都内に戻っても二、三日続きます。その後は再び音楽が聞きたくなるのですが、それは耳の中に侵入してくる工事の音や話し声などをかき消すためかもしれません。毒をもって毒を制すようなものです。あるいは作曲家がもう帰れない祖国を思って曲をつくるように、労働現場では失われた何かを求めて音楽を聞くのかもしれません。

どんなに落ちぶれても失われない強い意志の力すらも、大自然のなかに身を置くとすっかり力を失い、そこに生える一本の木と同じだけのパワーしか自分にはない(それだけのパワーはあるとも言える)ことを教えてくれる道東の樹海でした。